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自分の「当たり前」は、誰かの幸せかもしれない【いつかみんなでごはんを/書籍紹介】

 こちらの記事は、碧月はるさんが執筆した書籍「いつかみんなでごはんを」の感想文です。

 ↑書籍紹介ページはこちら

 ↑noteの書籍紹介ページはこちら。本を出版するまでのエピソードも、大変読み応えがありました。

 碧月はるさんは、婦人公論のメディアで連載「言葉を食べて生きていく」を執筆されています。

 連載当初から、私はこちらの連載を愛読していました。連載を読んでいた理由は、私自身も幼少期にイジメなどを受けており、大人になってもフラッシュバックなどを感じていたからかと。

 私は今、45才。37で結婚し、41才で娘を出産しました。日々を懸命に生きていく中で、次第に過去のトラウマ的なものが、徐々に薄れていくのを感じます。でもそれらが、完全に消えることはこれから先も一生ないのかも。そんな過去と一緒に、私はこれからも生きていくのでしょう。

 その頃出会った人たちを恨んでいるとか、そういう思いは特にありません。その頃から、一歩引いて物事を俯瞰して見ていたからかも。なんだかんだで、今も生きててよかったなぁと思っています。

 諦めなければ、「ああ、生きててよかった」と思える日が来るはず。来ないかもしれないけれど。でも生きるのをやめたら、そんな日は一生来ません。僅かな希望を頼りに、細く長く。その先に灯火があることを信じて。

 まぁ、期待しすぎると落胆しちゃうから、ほどほど位がいいのかもと時々思い直したりもしながら。ずっとそんなことを思いつつ、この年まで生き続けてきました。今はまぁ、それなりに幸せです。

 私は、誰かのエッセイを読むのが好きです。共感や救いを得られるエッセイも好きですが、碧月さんの話に関してはまた違うものを感じています。

 上手く説明できないけれど。連載を読んでいくうちに、「はるさんから見える景色を知りたい」と思い、書籍を購入しました。

 こちらの感想では、本の内容については詳しく触れていません。理由は、この本で紹介されている内容に関して、私の憶測で話したり、間違えたりしてはいけないと思ったから。

 念のため、公開前に碧月さんのXに下書きをDMさせていただきました。碧月さんからは「読んで、言葉にしてくれて、ありがとうございます」という有難いお言葉を貰いました。こちらこそ、お忙しい中チェックをしてくださり、ありがとうございました。

 あくまで今回の記事は、「みくまゆたんさんから見た、読書感想文」と読んでいただけると嬉しいです。

↓本文はこちら


 家族でテーブルを囲って、ご飯を食べる。

 他愛ない話をして、お父さんから叱られたり。お母さんから「早くご飯食べなさい」って言われたり。

 家族が決して仲悪かった訳ではないけれど、そんな家庭に憧れたことは一度二度ではない。少なくとも、うちはそうじゃなかった。食卓の時間は、いつも空気が張り詰めていた。ご飯は美味しいけれど、何を話したら良いのかわからない。リアルな私の家族だけど、終始気を遣っていた。

 私と弟は会話をしないので、母親が仲に入って「伝言」の役割を担っていた。友達に伝えると「なにそれ?なんで兄弟同志で直接話さないの?」と言われる。

 実は私も、理由はよくわからない。多分「お互いに、なんか嫌い」みたいな感じだったと思う。これに関しては、私も悪いのだけど。

 兄弟とは仲が悪いというより、別の人種同志という感じで、お互いに寄り付こうとしなかった。兄弟がいれば、みんな仲良く和気藹々。それが家族のスタンダード。けれど、我が家はその枠に当てはまらなかった。今はお互い大人になり、少し談笑できるまでになったかな。

 そんな私にも、餃子の王将でチャーハンを食べたり、はま寿司で回転寿司食べたりしながら、家族でケラケラと笑い合える日々が訪れた。結婚して、子どもを産んだからだ。

はま寿司で寿司を選ぶ夫

 その後は色々あったけど、今は実家とも良好な関係を築けている。母はとにかく、孫が可愛いらしい。そんな日が来るとは、幼少期には微塵も思っていなかった。

 そして、私がもし一歩違う道を進んでいたら。実親や兄弟とは、今のような関係になれなかったのかも。

 はるさんの「いつかみんなでごはんを」を読んだ。

 世間一般には、親は子を思って当たり前だという風潮がある。けれど、親との関係がうまく行っていないと、その言葉に苦しめられることとなる。

 「親を大切にしなさい」という言葉がある。家族が子供のために尽くすのが「当たり前」とされているからこそ生まれた言葉ではないかと。でも、そうじゃない家だってある。

 声を上げにくい話なので、表面化されていないだけかと。多分、みんな色々抱えつつ、生きているんだと思った。

 そう感じたのは、私が「自分語りは楽しいぞ」という企画で、色々な声を聞いてきたからかもしれない。

↑自主企画イベントで、色々な方々の自分語りを聞かせていただきました。

 「神様は、乗り越えられない試練は与えない」

 この言葉は、誰かの救いにもなれば。誰かの重荷となる。そう簡単に乗り越えられない試練を与えられた人間は、自分を責めたり、思い悩んでしまう。なぜ自分は、乗り越えられないのだろうと。

 乗り越えられない試練を持つ人は、そのゴールがはてしなく遠い。その距離に、うんざりしてしまう。

 人から見たら「そんなこと」と言われることもある。けれど、本人からすればそう簡単に片付けられるものではなかったりする。それは、もしかするとずっと尾鰭のようについてくる問題かもしれないし。そう、人生が終わるまで……。

 人によって、抱える背景は違う。だからこそ、言葉をかけるって難しい。

 もちろん、ポジティブな言葉をかけてくれた人たちも、決して悪気があって伝えてる訳でもなく。結局、言葉を受け取る側がどう思うでしかないのだけれど。かと言って、誰かの過去の辛い経験に対して「当事者にしかわからない」で済ませてしまうと、そこで終わってしまうのも怖い。

 寄り添おうとしても、気休め程度の言葉しかかけられず、かえって相手を苛立たせてしまうこともしばしば。

 人への思いやりを忘れずに。そう話す人に限って、自分のエゴをぶつけてしまうケースも少なくない。少なくとも私は、誰かを思っての言葉であれば、それは優しさじゃないかなと思うのだけれど。

 言葉をかけるって、難しい。コミュニケーションは考えるほど、複雑だ。でも考えすぎてしまうと、今度は言葉が一つも出てこない。相手の意思や想いも、どこまで聞けばいいかわからないし。

 その人の思いを想像してほしいと言われても、本人じゃないと結局のところ難しい。だから、誰かのためを思って言葉をかけたり、行動するってすごく大変だ。

 でも、誰かの言葉で救われることもある。実際に、私もこれまで多くの人と出会い、誰かの言葉に支えられてきた。

 相手の思いがわからないなら、丁寧に言葉を伝えていけば……。相手にその想いが伝わるのではないだろうか。まあ、それがなかなか難しいのだけれど。これは、私の課題でもある。

 声を上げる。そこから、同じような境遇の方が救われたり、世の中の動きが変わることもある。実際に、多くの人たちが声を上げていくことで世の中が変わっていく姿も何度か目撃した。

 声を上げる。でも、それが難しい。とくに本人の辛い体験談を表で報告した場合、そのイメージで世間から見られてしまうことがある。一度表に出してしまうと、もう引っ込むことができない。

 私には、はるさんのような勇気がない。出して良いものだけをネットへ出し、出したくないものは墓場まで持っていくつもりだ。狡い女だけど、そんな自分と「バイバイ、ありがとうさよなら」とはオサラバできない。結局、自分を捨てきれないのだ。

 だから、はるさんはこの本を仕上げるまでに、相当な覚悟が必要だったと思う。そしてその覚悟は、私では到底想像できそうにもない。

 感想を、うまく伝えられなくて申し訳ないけれど。本を読み終わった後、ただただ「生き続けてくれて、良かった。手を取ってくれる人も現れて、良かった。書き続けてくれて、本当によかった。本当によかった」以外の言葉が出てこなかった。

 はるさんが相当な覚悟を持って、書き続けてきたその想いが、いつか誰かに届きますように。そしてはるさん自身も、少しでも救われますように。お子さんたちとはるさんが、同じテーブルで笑い合えるように。

 そう祈りつつ、私はそっと本を閉じる。

【完】

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