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上を向いて歩こう

昔わからなかったことが、
わかるようになることがある。

たとえば「上を向いて歩こう」
春の日や夏の日や秋の日に、
いったいこの人はなんでひとりぼっちなのか。
5歳の私には、さっぱりわからなかった。
大人に聞いても教えてくれなくて、いつかわかる日が私にも来るのだろうかと思った。

たとえば、15歳の時。
母はなぜ寝室で眠らないのか。
毎晩夜半過ぎまで戻らない父を居間のソファで朦朧としながら待っている母にどうして?と聞けなかった。聞くのが怖かったからかもしれない。

たとえば、高三の夏休み、同級生のK太からハガキをもらったこと。K太はその時私が好きだったテニス部の男の子で、クチをきくこともできなくて、遠くから見ているだけだった。
そのK太から高校最後の夏休みの終わる頃、
1枚のハガキが来た。ハガキには、一面びっしりと洋楽の曲名。私の知らないビートルズやカタカナの名前で埋められていた。宛名の他には「こんにちは」も「元気ですか」も無く、それだけ。どうしていいかわからないまま、ハガキを手にしていたあの夏の気持は思い出せるのに、返事を書いたか、どれか1曲聴いてみたか、思い出せない。

たとえば、27歳の夏の終わり、おじいちゃんがつけていた日記を読んだ時。「朝6時に起きた。お昼は12時にウドンを食べた。股引を洗った。爪を切った。膝が痛い。お風呂に入った。10時に寝た。」87歳のおじいちゃんが、来る日も来る日もなんでそんなことを書き留めているのか。
その時の私には理解できなかった。

たとえば、母が雛人形を手作りしていたこと。
男雛と女雛カップルのシンプルなセットをいくつもいくつも、数百組。さながら雛人形製造工場のようになって大量の折り紙に埋もれていた母を、「わあ」と横目で見ていた時には気がつかなかった。あれは私が本命との結婚を諦めたその頃だった。

あれも、これも、そろりそろりとわかってくる。昔そのままにしていた結び目がいつか柔らかくほどけてくるように。

ああ、そうだったのかと腑に落ちるのは、
いつもずっと後のことだ。

時間という目に見えないものがあって
(それも後でわかることなんだけど)
その中を歩きながら、
あっちこっち旅をした後、

その後なんだ。
あの時のあの人の気持に気づくのは。
ああ、そういうことだったのかって。

だから
戻って来た気持にむせないようにしなくては。

だから
上を向いて歩こう
今日も。

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