midorigyoza
私に起きたことを100秒くらいに縮めてみよう。人生最期の瞬間、まぶたにフラッシュバックされるっていう、あんなふうに。
人前でよく前歯が落ちた。前ブレもなく、突然。 歯が落ちた理由とか説明してもしかたないし、 (もともと差し歯にしていたところがユルユルになったのが原因)大声出してもかえって目立つので、たいていの場合、 あっ と落ちた歯の隙間から小さな声を漏らした後、 そっ と落ちた前歯を拾って(なくしたら大変)、 そそっ とトイレに駆け込んで(近くにあればラッキー)元あったところに歯を入れるのだけれど、 戻ってくる時がとても恥ずかしかった。 笑い飛ばしてくれる気心知れた仲ならまだ良
わかるのが遅過ぎることがある。 よくある。 たくさんあり過ぎるが、その内のひとつ。 若い頃、男性に奢ってもらうというシチュエーションが苦手だった。そういう場面に出くわすと、右手と右足が同時に出てしまうのだ。 腑に落ちなかった。 どうしてそうなるのか、ちゃんと考えたことはなかったが、そんな時、私の胸に点滅していたのは「私は自立した女」ランプだったように思う。 若いというのは単純なものだ。 ひとつの視点しか持ち合わせがない。 正義感が強過ぎて、人間の、相手の、この場合
飛行機の中で見た映画だったか、 忘れられないシーンがある。 Running on Empty (邦題:旅立ちの時) 主人公のリバー・フィニックスが母親の誕生日に贈り物をするシーン。彼の家には「贈り物はお金で買ったものではなく、自分の手で作ったものでなければならない」というルールがあって、彼は海岸(河原だったかもしれない)でみつけた綺麗な石を首飾りにして贈るという話だったと思う。(間違っていたら、ごめんなさい)詳細は忘れたが、覚えているのはそのネックレスそのものより、それに添
知っていたと思っていた人を 本当は知らなかったことに気づかされることがある。 古いアルバムを見つけた時のことだ。 昔々、家族だった人の写真だ。 ぶ厚い布張りアルバムの白黒写真、2冊分。 黄ばんだページの埃の匂いにむせながら、めくりながら、驚いた。私の大叔母(母の父の妹)が写っている。彼女が50代、私が生まれてくる前の写真だ。 やまのちゃん 私達姉妹はそう呼んでいた。 山下のおばあちゃんだから、やまのちゃん。 夫に先立たれた60代から83歳で亡くなるまで、私達家族4人と
何の役に立ったかはわからないけど、 何ものにも代え難い体験、というものがある。 34歳の時、アメリカのアートスクール(美大)に入った。とてつもない労力と費用をかけ、人生ドマンナカの貴重な時間を投入し、映画産業のメッカ、ハリウッドで約4年間映像の勉強をした。費用対効果の点で言うと、到底人に自慢できるような行為とは言えないが、 「あの時はそうすることが正しいと信じていた」モメントのひとつだ。(私の人生、そうしたモメントが多いです。) 自分の頭で作り上げた世界を映像にす
買ったばかりの中古スバルに家財道具ぜんぶ詰め込んでRoute 101を南下した。サンフランシスコ、ロサンゼルス間、約420マイル(676キロ)。飛ばせば7時間だが、友人と2人、無理せずゆっくり行くことにした。 彼女は往復チケット(帰りは飛行機)。 私は片道。 34歳になっていた。 9年働いた会社を辞め、アメリカで心機一転。 まずサンフランシスコの小さな美大(Art School)を1年試した後、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、色々な町のArt Sch
昔わからなかったことが、 わかるようになることがある。 たとえば「上を向いて歩こう」 春の日や夏の日や秋の日に、 いったいこの人はなんでひとりぼっちなのか。 5歳の私には、さっぱりわからなかった。 大人に聞いても教えてくれなくて、いつかわかる日が私にも来るのだろうかと思った。 たとえば、15歳の時。 母はなぜ寝室で眠らないのか。 毎晩夜半過ぎまで戻らない父を居間のソファで朦朧としながら待っている母にどうして?と聞けなかった。聞くのが怖かったからかもしれない。 たとえば、
いきなりステーキよりよっぽどいきなりだ、彼岸花。毎年この時期、その姿に「ほぉ」と立ち止まる。木も枝も葉も無く、地上40~50cmの高さに何の前ぶれもなく いきなりである。 季節を象徴する花は多々あれど、 そのいきなりさは、度を外れている。 例えば桜。 桜は、徐々に膨らむ蕾に、心の準備というものをさせてくれるではないか。 彼岸花、あなたは一体どこから来たの? どう見ても只者ではない。 色も形も一度見たら忘れられない、その姿。 どこぞの高貴な方の冠かと見紛うばかり。
繁殖期の蝶がワラワラと集まってくるように、 そのあたりの空気は若い女の鱗粉でキラキラしていた。久美、ゆかり、裕子、明美、純子、洋子、それに真由美まで。1年間の短期留学生として、羽田発、アメリカ シアトル経由ユージーン行きで旅立つ私を同級生が見送りに来てくれた日のこと。 空港のカフェでよくある、見慣れた光景。 プクプクと、笑い声のバブルが湧き起こっては弾け、誰ひとりとして相手の話を聞いている者はいなかったけど、21歳の女達はみんなよくわかっていた。 みんなSEXの話をし
なんて変な声なんだ。 見回すと、あれ?人じゃないんだ、鳥なんだ。 あんなところに鳥かごがあったなんて、 気がつかなかったな。 待合室には私の他に待っている人はひとり。 数列前に座っている後ろ姿が見えるだけ。 他には鳥かごの中にオウムらしき鳥が1羽。 あまり綺麗な色じゃないから気づかなかったんだ。テレビも無いから、この叫び声はあのオウムに違いない。 ああ、うるさい。 まるで人の叫び声だ。 こんな美容整形外科にオウムがいるなんて。 なんで鳴いているんだ。 ・・・ なんで私
本当にあったことなのか、 それとも空想の出来事だったのか、 わからなくなることがある。 これは本当にあった話。 高校生の時、好きだったK太くんの話。 テニス部のエースだけど、テニス以外は不器用で、成長したカラダを制服に無理やり包んで、無理やり学校に来ているような子。 古文の授業の時、天照大神のことを「てんてるだいじん」と読んで、真っ赤になるような子。 気の利いたことも賢そうなことも言えない、ひたすらテニスボールを追いかけている子。 洒落た冗談を言って笑わせる男子にはハ
これは私の母の夏の1コマです。 時は、たぶん1950年(昭和25年)頃。 私が生まれる前、 20歳頃の母、私の会ったことのない母がここにいます。 小さな登山帽をまっすぐ被った、 あどけない笑顔。 70年以上前の写真を見る度に感じるのは、 あの戦争と東京大空襲を生き延びた、はち切れそうな生きる喜びです。 (母は10歳の時に戦争が始まり、14歳で終戦を迎えました。) 長く暗いトンネルを抜けて あの夏、ふりそそぐ陽の光を浴びることができた喜び、大好きな仲間と一緒に山に登るこ
これは私の母の夏の1コマです。 時は、たぶん1950年(昭和25年)頃。 私が生まれる前、 20歳頃の母、私の会ったことのない母がここにいます。 小さな登山帽をまっすぐ被った、 あどけない笑顔。 70年以上前の写真を見る度に感じるのは、 あの戦争と東京大空襲を生き延びた、 はち切れそうな生きる喜びです。 (母は10歳の時に戦争が始まり、14歳で終戦を迎えました。) 長く暗いトンネルを抜けて あの夏、ふりそそぐ陽の光を浴びることができた喜び、大好きな仲間と一緒に山に登る
母は毎日料理をしていた。 月火水木金土日、1年365日。 何も言わないでも、当然のように食卓に食事が並ぶこと。私達家族はそれを「あたりまえ」だと思っていた。 大好きだった母の手料理は数え切れない。 ハンバーグ、スパゲッティミートソース、ブラジル風鶏のグリル、エビ料理、ボルシチ、サラダ、そして糠漬けなどなど。 かたや父は肉料理を受け付けず、魚至上主義の人だったから、父のための魚、子供のための肉という2種類の主菜、そして野菜など副菜で合わせて毎晩4~5種類のおかずが食卓には