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被害者意識を持たないこと(他責をやめる)で生きやすくなる

幼少期からあった色んな出来事に関して、つい最近まで被害者意識が強く、過去大変な経験をしたせいで今も生きづらいし未来も不安だというのが私の思考の癖になっていた。

このnoteにも度々そのようなエピソードを書いてきたし、下書きには未公開の更に黒々とした感情が綴られた文がたくさんある。出てくるがままに夢中になって書いてはみたが、さすがに公開出来ずに封印してある。

ではなぜ衝動に任せて書いたのか考えてみると、おそらく誰かに聞いてもらいたかったというのが大きい。自分用のジャーナリングのノートに書いてもよかったが、誰かに見せるかもしれないという視点でまとめてみたことで客観視でき、また気付きもあった。結局ダークすぎて誰にもお見せできないが、いったん暗い霧のような感覚を言語化してみたことで脳内が整理されたから私としてはスッキリしているから良いと思う。

日常にありふれた小さなことでも、それに対して被害者意識を持ったり、他人に責任を転嫁する思考が習慣になっていると人生がつまらなくなるような気がする。

確かに私は30歳前後まで客観的に見て大変なことを多く経験してきたし、それが心の傷になっていたが、その時その時に取った自分の思考や行動にも選択肢があったし、その状況への解釈も1つではなかったなと思えるようになってきた。

被害者意識を持って、それらの出来事を他者のせいにしているうちは晴れやかな未来は訪れない。過去は過去として乗り越えた自身を労りながら、今後は自分ベースで物事を捉えていきたいと思う。

そのような気付きは他人を見ていて得られたこともある。他人のふりみて我がふり直せとはよく言ったものだ。

例えば、職場によく風邪を引いて当日欠席する人がいる。免疫の弱さや体質は仕方ないのだと思うけれど、毎回毎回「電車で咳をしている人がいて」や「○○さんに風邪をうつされた」など欠席の理由に他責ワードがセットになっている。

風邪を引いたこと自体は仕方ないし、ただ「風邪を引いた」と言えばいいのでは?と私は思う。
なぜなら、同じ電車の車両に乗り合わせた全員が風邪をうつされて翌日仕事を休んでいるわけではないだろうし、風邪っぽさを感じた時の初期段階での工夫や、日々免疫力を高めるための努力が見えないからだ。

おまけによく話を聞いてみると、下着姿でエアコンを強めに設定して寝ていたり、食生活にも気を遣っていないという。

自分も経験上どんなに防御していても病気をうつされることがあるとは知っているが、毎回毎回それを他人の責任のみにするのはいかがなものかなと思う。

感じが悪く聞こえると思うが、私は電車で風邪っぽい人が近くにいると思ったら身体の向きや顔の位置を変えてダイレクトに影響を受けないようにするか、余裕があれば車両を変えてしまう。また、風邪っぽさを感じたら体調に合う薬を飲んで早めに寝るなどし、軽く済むようにしている。普段から無理しないようにゆるいスケジュールで動いているのもあり、当日欠席は社会人になってからほぼ(20代前半の会社員時代に2回ほど仮病で休んだが)したことがない。

子育て中の友人が、毎回毎回多種多様な創意工夫を行いながら、子どもの風邪をうつされないように懸命に頑張っている姿も見ている。仕方ないこともあるが、ある程度は自分でコントロールできるものではないのかなと感じてしまう。

その人は風邪の話以外のたいていどんな話題でも「○○のせいでこうなった」のような内容が発言の大半であり、受験に失敗して何年も浪人していた過去も、すべて担当した先生たちのせいにしていた。常にゲームやドラマにハマっていたようだが、それでも自分は悪くないらしい。

他人の人生に踏み込んで思考を変えろと言う筋合いはないが、そのような発想で生活をしていて本人が楽しいのかは疑問である。

自己責任とはまた違うが、主語を自分に置き換えて物事を捉えるだけで随分と変化があるのではないか。

「(私は)風邪を引いた」で良いのである。

過去のなんらかの行為や選択に対する結果は自分しか受け取れないからだ。

最終的な結果が自分に降りかかることが分かっていれば、工夫しながら丁寧にその手前の段階を過ごせるのではないかと思う。

おそらく今後、私の人生にもまた色々な予測できない不運が訪れるかもしれない。いくらでも理由を見つけて他人のせいにすることは可能だろうが、起きたことは仕方ないし、自分にも責任がなかったとしても、その時、その場に居合わせたのは自分の選択の積み重ねなのだと思う。

黒い他責感情を浄化し、透明なメガネをかけて自分の足で未来へ歩いていきたい。

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