薄曇りの空の下、Jは立ち止まって街を見回していた。住民たちは皆、古びたTVやスマートフォンを見つめている。それは画面に映し出された自分たちの姿らしかった。彼らの視線は一途に画面へと向けられ、その表情は画面と共に移り変わっている。 「みんな過去の映像を観ているのか……?」とJが首を傾げながら呟くと、レイは笑った。「過去の感情が、彼らの居場所なんだろう。現在も未来もなければ、過去は変わることがないからな。」 その時、Jの目に老婦人が映った。彼女は鞄の中から古びた装置といくつも
渦を抜けると彼らは雑踏に埋もれていた。しかしその人々は、身なりは違えどいずれもレイとJのようで、まるで無数の鏡に囲まれたようだった。彼らはそれぞれ、奇抜な髪形や派手な服装で自己を主張している。Jは一瞬たじろいだ。 「僕の拠点のひとつさ。」レイは唇を僅かに歪めて言った。 Jは顔を顰めた。「どうしてこんなに、俺たちみたいなペアがいるんだ? まさか全員、俺とお前なのか?」 「正解」と、レイは落ち着いた様子。「ここでは多次元の僕らが集まって、それぞれの役割をこなしている。僕らは
二人が渦を抜けると、そこには都会的だが、どこか色褪せた街並みが広がっていた。雑踏は不自然な静寂に包まれ、高層ビルの群れは、地面に突き刺した針のようだった。 「ここは……」と、Jが呟くと、その言葉は冷たい空気に溶けて消えた。レイは街を見つめたまま、唇を弧にして呟いた。「チバ・シティ。」その声には、どこか冷笑が含まれているが、Jには何に向けられたものなのか判然としなかった。 街中を行き交う人々の頭上には、走行距離を示すメーターのように数字が浮かび上がっていた。Jの頭上には15
明け方、Jはその手をようやくハンドルから離し、じっと見つめ、罪深い手だと呟いた。その言葉は夜明けの闇に溶け、疲労を露わにする。……実際は夜勤が数分延びただけだった。 家に帰ると、Jはソファに沈み込み、リモコンを指で押した。画面からは無邪気な笑い声が流れてくる。そこへ缶ビールのプルタブを引く音が響くと、肩の力が抜けていく……。Jの生活は、規則正しい労働とささやかな慰めにあった。 だが、その安寧に影を差す人物がいた。レイモンド・タキガワ――未来から来たと自称する中年の隣人だ。
揺れる電車の中で、吊り革を片手にミルトンの『失楽園』を読んでいた。その韻律は、川のせせらぎのように静かに、時に濁流のように荒々しく、天上的なイメージを結んでゆく。 「一敗、地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ」 悪魔が地に落ちた軍勢を鼓舞する、勇ましい台詞だった。だが、地獄の集会は、突然耳に飛び込んできた声に遮られた。 「かしてーよ」 振り向くと、幼児がベビーカーの中から手を伸ばして、こちらを見つめていた。その小さな手が、私の本に触れようと空を切っている。
秋晴れの空につい一句: 島雲や、遠くに去りて稲そよぐ
ある日の太陽 寝ぼけた顔が 茹でダコみたいと笑ったからか 墨に焦げつく 真昼の陽炎 円い山 澄んだ空に包まれた 深い緑の曲線は 小さな身体で丸まって 腕の間に眠る猫 波音 打ち寄せる波は 繰り返し、何を語っているのだろうか 果されぬ夢 或いは、人類の永遠 花の名 小さな花に その名がなければ 約束の地も 血も涙も、なかったのでしょう
神田の古書店は、微かな香が漂い、その静寂と通りの雑踏とが、射し込む西陽に交じり合っていた。そこで、ふと目に留まったのは、背表紙の擦れた一冊――夏目漱石の『こころ』だった。紙面は茶色く、どこか現実感の薄れたざらつきが指先に伝って、私は図らずも頁を捲っていた。友人の、道端に佇む横顔を感じながら……。 だが次の瞬間、記憶は波に攫われるように意識から消えていった。私はその本に、黄ばんだ一枚の紙が挟まれていることに気が付いた。それは喫茶店のレシート。――1996年11月、ホットコーヒ
太陽が地平を越えると、空は氷河が溶けるように澄み、川は硝子の微塵を撒いたように目覚めた。土手を辿れば、草木は瑞々しく息付き、菜の花は笑みを交わすように揺れる。 心地よい風に伴われ、見晴らしの良い高台に腰を下ろした。対岸の営みが静寂からぼんやりと浮かび上がり、遠くの橋を渡る列車が、影を抱えて映り込む。 青空を溶かし込んだソーダ水 泡と揺らめく逆さの世界 ふと目を遣ると、収集所から戻る親子が、袋を風に膨らませて遊んでいた。軽やかに跳ね回る姿は踊っているようで、何やら美しかっ
夕焼けは、気配もなく訪れていた。それは言葉なく歩き続けていた僕らを淡く染め、濡れた高原を僅かに揺らし、黄色の波紋を描く。冷えた風が、安らかな寝息のように流れている。 「わかる?」 立ち止まった彼女が小さく呟いた。その問いに、僕はただ彼女の横顔を見つめていた。彼女の眼差しは、地平線を捉えて揺るぎない。僕が頭を振ると、彼女は囁くように答えた。 「真実よ」 葉擦れは息を潜め、虫の音は躊躇うように断続していた。沈黙は夕陽と共に沈み、吸い込むように色彩を奪って、夜露は青々とした
最近noteで小説を読んで、数年前に書いたものを思い出し、投稿してみた。こうして出してみると、自分の文章に反応を頂けたことが嬉しく、また投稿を終えられたことに、少し達成感を感じている。 読み返すと直したいところも出てきて、1~2章ごとに修正しながら投稿してみたが、note形式だと章頭の重要度が高いな、など、改めて構成を考えるきっかけにもなった。 この小説は、ビジネスに明け暮れた20代を経て、心身の疲れから仕事を落ち着かせた後、自由や信念、創造による価値観の更新、それらに回
時は満ちて ヘリコプターが過ぎてゆく音圧を感じて、僕は自分が横たわっていることに気が付いた。目を開けると、葉が揺れる向こうに淡い青空がゆっくりと広がり、頭を動かすと、泥に髪を引っ張られた。時計を見ると日付は戻っていた。どうやらいつからか夢を見ていたらしい。だが、これも夢ではないか? そう思わないでもなかった。 起き上がって髪や服から泥を払い、歩き出すと右足のふくらはぎに痛みが走った。見るとズボンを貫通した噛み跡がある。――蛇? 俺は毒で昏睡していたのか? しかし意識は冴え
混沌とそれぞれの秩序 その週末、僕は後輩のバンを連れて山へ向かった。目的地は四方を千メートル級の山に囲まれた場所で、車道もない。車を停め、そこからは野営しながら進む行程だった。バンは、飲食店をいくつか経営している。屈強な身体つきで、並んで歩いていると、ボディガードと間違えられたこともあった。僕はこうアウトドアに誘って彼の課題を一緒に考えたりしていた。目的地を決めた経緯についても話したが、バンは全く怖れなかった。 「怖くないのか?」僕は冗談混じりに尋ねたが、バンは豪快に答え
選択と相克 ルツから僕とユノのいるグループにニュースが送られてきた。 ――山中で男性遺体、登山中に滑落か ダイが遺体で見つかり、美大のクラスで情報を集めているらしい。ニュースによれば、発見現場は僕の家から遠くない山の中腹だった。 僕が最後にダイと会ったのは、技術職として彼のキャリアを考え、まず簡単な業務に就いてもらった時だった。その仕事には齟齬があったのだろう、一か月も経たずに彼は去り、僕も自然と連絡を絶っていた。その後、彼が遠くへ行ったという話をルツの友人から聞いた
精神的血縁 僕が目を覚ますとタローは起きていたらしく、こちらを見ていた。まだ薄暗い部屋の中、朝焼けの窓は紫色で、ガラス戸を開くとタローは草の上に降りてしっぽを振った。一度フェイントをかけて、ゴムボールを思い切り投げると、稜線の淡い山々には遥か及ばず、雑木林の前に落ち、タローは草原を駆けていった。その光景に、心がどこか遠くへと引き寄せられるのを感じた。空は徐々に黄色に染まり、朝の息吹が広がってゆく。それを眺める内に、タローは帰ってきた。僕は、早かったねと褒める。 山荘が建つ
籠の中のオリュンポス 社会で身を立てると決めた僕は、「とにかく動け」と、ヤスという男と会社を設立した。まずできることを考え――ヤスはいろんな人との交流が苦じゃなかったし、僕はプログラミングに習熟していた――、システム開発案件を受注し、二三ヶ月のペースで納品するようになった。半月に一度は解決できるかわからない壁に打ち当たったり、事故が起きたりして、その度に心臓を鳴らして奔走していたが、僕らは会社に住みつき、充実を感じていた。 ヤスは陽気だった。例えばある深夜二時、いつものよ