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小説|ある日の電車で

揺れる電車の中で、吊り革を片手にミルトンの『失楽園』を読んでいた。その韻律は、川のせせらぎのように静かに、時に濁流のように荒々しく、天上的なイメージを結んでゆく。

「一敗、地にまみれたからといって、それがどうしたというのだ」

悪魔が地に落ちた軍勢を鼓舞する、勇ましい台詞だった。だが、地獄の集会は、突然耳に飛び込んできた声に遮られた。

「かしてーよ」

振り向くと、幼児がベビーカーの中から手を伸ばして、こちらを見つめていた。その小さな手が、私の本に触れようと空を切っている。その仕草に、思わず笑みがこぼれた。――ほう、いい趣味してる。

しかし、その母親は、すぐに顔を赤らめて謝った。私はいえ、気にしないで、と笑ったが、その母は距離を取るように移動していった。その後ろ姿は、内と外の境界に戸惑うようだった。電車の走行音がしばらく響く中、再び幼い声が聞こえてきた。

「かしてーよ」

今度は、母のスマホを欲しがっているようだ。何度かその言葉を繰り返した後、その子はスマホを手に入れ、母の真似をするように、小さな指で画面を撫でている。そして、次に耳に入ったのは、その母親の柔らかな声だった。

「かしてーよ」

母と子は、キャッキャと笑い合った。二人の声は、車窓から差し込む暖かな日差しのように、車内に響いていた。

私はふと、吊り革から手を離し、もう一度、ページに目を戻した。――失われた楽園はどこにあるのか……。しかし、文字は意味を結ばず、その代わりに、無邪気な光景の余韻が染み渡っていた。