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小説|隣のレイモンドと道連れのJ #2

二人が渦を抜けると、そこには都会的だが、どこか色褪せた街並みが広がっていた。雑踏は不自然な静寂に包まれ、高層ビルの群れは、地面に突き刺した針のようだった。

「ここは……」と、Jが呟くと、その言葉は冷たい空気に溶けて消えた。レイは街を見つめたまま、唇を弧にして呟いた。「チバ・シティ。」その声には、どこか冷笑が含まれているが、Jには何に向けられたものなのか判然としなかった。

街中を行き交う人々の頭上には、走行距離を示すメーターのように数字が浮かび上がっていた。Jの頭上には150、レイの頭上には100と表示されている。身なりが整っている人は数値が高く、道端に倒れている人は数値が低いようだった。歩く人々が目を遣るのは、顔ではなくその上の数字だ。街の秩序は、この目に見える数字によって支配されているように見えた。

「物は使いようだな」と、レイは携帯端末を取り出した。指先が端末を滑るや、彼はこの都市のシステムに軽々と侵入し、自分とJの数値を990へと上昇させた。

「こんなことして大丈夫なのか?」とJは辺りを窺いながら尋ねる。

「ルールは持たざる者の特権さ」と、レイは肩を竦めて歩き出した。


二人が足を踏み入れたのは高級レストランだった。その中でも上位に位置する数値を手にしたJは、周囲の視線が一斉に集まるのを感じ、自然と背筋が伸びる。「すごいスコアね」というひそひそ声にJが目を遣ると、身なりの美しい若い女性と目が合った。その女性は顔をほころばせ、口元を手で覆った。店員は彼らを一瞥するや否や、他の客に目もくれず、二人の案内に飛びついてきた。

扉の奥には庭園を構え、室内には曲線を描く装飾と柔らかな光が漂い、客たちは花々で飾られた人形のよう。彼らの笑い声は甘美な音楽と溶け合いながら虚空に消えていく。二人の隣のテーブルに座っていた紳士が、ワインを傾けながらJをちらりと見て、「素敵な恰好ね。とってもスタイリッシュ」と、感心した様子で片目を閉じてみせた。Jはさりげなく感謝を告げながらも、その佇まいは風格を帯び、内なる確信を滲ませているようだった。

レイは一頻り見渡してからウェイターを呼び、「ちょっと真剣な話があってね」と伝えると、二人は個室に通された。するとレイは端末を取り出し、再びハッキングを始め、「少し時間がかかるから、電柱にバナナの皮でも巻きつけててくれ」とJに告げる。食事を終えたJは、レイを残して外の通りへと足を向けた。


無表情な人々が行き交う通りは不自然なほど静かで、Jは足を速めた。だが、彼の視界の端に動くものがあり、振り向くと、若い女性が音も立てずに優雅な歩調で彼に近づいてくる。その動きは浮かぶように軽やかで、その眼差しはどこか虚ろだった。Jは何か不味いことになったのではないかと、身を構えた。

しかし、彼女は微笑んでいた。「あなたも参加してみない? 私たち、みんな幸せになれるの。やり方さえわかれば、人生はどんどん良くなっていくんだから。」

Jはその誘いを警戒しつつも、彼女の頭上の850を見ると興味が湧いた。「何のこと?」と訊き返すと彼女は、「人生交換の儀式よ」と答えた。Jは首を傾げたが、彼女はさらに説明を続けた。「自分の記憶や感情を他の人と交換して、より良い自分を作るの。」

その言葉に、Jは不安を覚えた――そんなことしたら、もはや自分ではなくなるじゃないか?――が、彼女に押し切られるまま公園に入り、人々が行列を作る会場へと付いて行った。そこには既に数十人が集まっており、二名のペアで椅子に座り、小さな装置を介して、記憶や感情を交換しているようだった。それを終えると、参加者たちの頭上のスコアが瞬時に上昇していく様子が見えた。

「これで、自分を汎用化できるの。どんな環境でも最適なスコアが出せる、より優れた人格になるのよ」と女性は微笑んだが、Jはその言葉に違和感を覚え、思わず口を開いた。「でも、そんなことして、自分を保てるのか?」

女性は軽く笑い、「もちろんよ。これは医学的にも正しいことなの。私たちはいつでも自由に、自分の人生を改善することができるのよ。」と答えた。

Jは頷き切らないまま、儀式が淡々と進んでいく様子を眺めていた。参加者たちは誰もが無表情で、感情のない顔をしている。彼らは何も疑問を抱かないかのように、手続きを黙々とこなしていた。Jが立ち去る頃合いを探っていた時、端末が振動してレイからのメッセージを知らせた。Jはそれを確認して、儀式の場を後にした。背中に冷たい視線を感じながら。


Jが落ち会うと、レイはどこか得意げな表情を浮かべて、「油は売れたか?」と尋ねた。Jはそれを軽く流して、儀式のことを少し不安げに伝えた。

二人が歩いていると、「お兄さんたち、試してみない?」と、露店を構えた女性が声をかけてきた。彼女は微笑みながら、シール状の装置を手にしていた。画面には見知らぬ記号が表示されている。

二人が立ち止まると、「あなたには……これが合いそうね」と、売り子は迷いもなく、各々に装置を手渡す。指導を受けながらそれを装着すると、Jの世界が一瞬で切り替わった。――Jは夕陽の見える浜辺でソファに寝転がり、ピニャコラーダを飲んでいた。目の前には美しい光景が広がり、明日への憂いもなく、人生への満足感に浸っていた……。Jは満ち足りた他人に成り代わった感覚に、しばし呆然と立ち尽くしていた。

一方、レイは小さな体で運動場に引かれた白い線の間を、思い通りにならない両脚で駆けていた。周りの歓声から受ける圧迫感の中で、前を走る幼児に追いつこうと力むものの、泣き出しそうになっていた……。彼は即座に装置を外し、「こいつは危険だな」と、微かな笑みを浮かべた。

レイがJの装置を剥がすと、Jは目を見開いて驚いた顔をしたものの、上の空で、「ホテルに戻っててくれ」と歩き出したが、「お前が戻ってこい!」と、頬に一発お見舞いされた。Jはいま目が覚めたかのような顔をして、レイを見つめている。

「J、……これでこの世界の本質に気づいたか? 人々は次から次に誰かに成り代わって自分を失っている。その方が都合がいいんだよ、支配する側にとっては」とレイは淡々と言った。

「支配する側?」Jはレイの方へ向き直して訊いた。

「そうだ。この世界の富裕層はこんなシールなんて使っちゃいない。むしろ、それに対するセキュリティを構築してる。なぜだと思う?」と、意味ありげに尋ねるレイに、Jは首を振る。

「他人の記憶や感情が混ざり込んで、自分の自己同一性アイデンティティが揺らぐ。つまり、自己の連続性を見失う可能性があるからさ。自分の意識を守ることが彼らにとって最優先だからな」とレイは声を落として説明した。

「じゃあ、どうして一般の人々にはそれを使わせているんだ?」とJが尋ねる。

レイは人差し指を上げて答えた。「それは簡単さ。自分を見失ってくれた方が都合がいいからね。彼らは何も疑問を持たず、スコアに妄信する。つまり、管理しやすいってわけだ。」

Jはその言葉に沈黙した。街を無表情に歩く人々の姿は、遥か上空から垂れた糸に従う操り人形のように見えた……。

「さて、僕らもお呼ばれしようか。」レイが軽く呟き、端末を操作すると、画面に招待状が浮かんで光った。それを読み終えるより早くエアタクシーが到着し、二人は高層のタワーへと運ばれた。屋上に降り立ち、部屋に案内されると、辺りには無機質な高級感が漂い、どこか時間の止まったような印象を与えた。そこで待っていると、小綺麗な身なりをした男が現れた。

「ようこそ、レイ」その男が僅かに微笑む。互いに情報収集が済んでいるようだった。レイは軽く会釈しながら皮肉な笑みを浮かべて、「ご丁寧に」と返した。「ここがスコア創始者の隠れ家か。」

すると男、シャイロックは軽く微笑んだ。「隠れる必要などない。私は人々が喜ぶものを与えたまで。彼らはよりよい自己であろうとしている。それは人間の進化というべきだろう。」

レイはその言葉に冷ややかな視線を送った。「エコーシステムも進化だと?」

シャイロックは予期していたように答えた。「もちろんだ。エコーは不死を実現する。他者の干渉を避け、意識を完全な形で運用し、その可能性を飛躍的に広げるんだ。これこそが、真の自己実現だろう。」

レイはしばらくシャイロックを見つめた後、口を開いた。「他者の影響を受けない自己の保存……それが自由だと言いたいのか? その結果、君は失っているものがある。それは、世界とのつながりだ。人間は、他者や環境との相互作用を通じて変容し続ける存在なんだ。君のエコーには、それが欠けている。」

シャイロックは静かに笑った。「社会とは個の自由を犠牲に、全体の安定を求めるものだよ。不要なノイズに縛られず、純粋な自分として存在し続けることの価値が、君には理解できないのか?」Jは彼らの支配構造に寒気を覚えた。

レイはシャイロックの視線を捉えた後、さっと両方の掌を見せるように広げた。「まあ、理解しなくても構わない。僕が求めているのは、無駄話じゃないからな。」

その言葉が終わるや否や、レイは素早くポケットから小型銃を取り出し、シャイロックに向けて撃った。銃から放たれた電磁パルスが直撃し、彼は無言のまま床に崩れ落ちた。

「おい、レイ。」Jが驚きの表情で問いかけると、レイは手早く銃をしまいながら、薄く笑って答えた。「ちょっと夢を見ててもらうだけさ。僕らがここを出るまでね。」

Jは「容赦ないな……」と零して、シャイロックの倒れた姿を一瞥し、部屋を後にした。

通りに出ると、レイが静かに尋ねた。

「J、誰にも評価されない生き方ができるか?」

Jは少しの間、何も言えずにいたが、やがて思い出したように「レイ、スコアを戻してくれないか?」と訊いた。レイが端末を軽く触れると、瞬時に二人のスコアが元に戻る。その途端、周囲の人々の視線は一変し、Jの耳に囁き声が入ってきた。

「あの安っぽい服、ダサいな……」


座標に辿り着くと、渦がゆっくりと姿を現し始めた。渦には無数の色が流れ込み、絶え間なく変化していたが、その中心は変わっていないように見えた。Jはしばしそれを凝視していたが、見定めることができず、歩き方を忘れたように足を差し出した。そして渦の奥へと吸い込まれ、静かに目を閉じた。