記事一覧
小説|ある日の電車で
揺れる電車の中で、吊り革を片手にミルトンの『失楽園』を読んでいた。その韻律は、川のせせらぎのように静かに、時に濁流のように荒々しく、天上的なイメージを結んでゆく。
「一敗、地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ」
悪魔が地に落ちた軍勢を鼓舞する、勇ましい台詞だった。だが、地獄の集会は、突然耳に飛び込んできた声に遮られた。
「かしてーよ」
振り向くと、幼児がベビーカーの中から手を伸
詩|静かな朝、見渡して
太陽が地平を越えると、空は氷河が溶けるように澄み、川は硝子の微塵を撒いたように目覚めた。土手を辿れば、草木は瑞々しく息付き、菜の花は笑みを交わすように揺れる。
心地よい風に伴われ、見晴らしの良い高台に腰を下ろした。対岸の営みが静寂からぼんやりと浮かび上がり、遠くの橋を渡る列車が、影を抱えて映り込む。
青空を溶かし込んだソーダ水
泡と揺らめく逆さの世界
ふと目を遣ると、収集所から戻る親子が、袋
小説|十七月の歌 6/6
時は満ちて
ヘリコプターが過ぎてゆく音圧を感じて、僕は自分が横たわっていることに気が付いた。目を開けると、葉が揺れる向こうに淡い青空がゆっくりと広がり、頭を動かすと、泥に髪を引っ張られた。時計を見ると日付は戻っていた。どうやらいつからか夢を見ていたらしい。だが、これも夢ではないか? そう思わないでもなかった。
起き上がって髪や服から泥を払い、歩き出すと右足のふくらはぎに痛みが走った。見るとズボ
小説|十七月の歌 5/6
混沌とそれぞれの秩序
その週末、僕は後輩のバンを連れて山へ向かった。目的地は四方を千メートル級の山に囲まれた場所で、車道もない。車を停め、そこからは野営しながら進む行程だった。バンは、飲食店をいくつか経営している。屈強な身体つきで、並んで歩いていると、ボディガードと間違えられたこともあった。僕はこうアウトドアに誘って彼の課題を一緒に考えたりしていた。目的地を決めた経緯についても話したが、バンは全
小説|十七月の歌 4/6
選択と相克
ルツから僕とユノのいるグループにニュースが送られてきた。
――山中で男性遺体、登山中に滑落か
ダイが遺体で見つかり、美大のクラスで情報を集めているらしい。ニュースによれば、発見現場は僕の家から遠くない山の中腹だった。
僕が最後にダイと会ったのは、技術職として彼のキャリアを考え、まず簡単な業務に就いてもらった時だった。その仕事には齟齬があったのだろう、一か月も経たずに彼は去り、僕
小説|十七月の歌 3/6
精神的血縁
僕が目を覚ますとタローは起きていたらしく、こちらを見ていた。まだ薄暗い部屋の中、朝焼けの窓は紫色で、ガラス戸を開くとタローは草の上に降りてしっぽを振った。一度フェイントをかけて、ゴムボールを思い切り投げると、稜線の淡い山々には遥か及ばず、雑木林の前に落ち、タローは草原を駆けていった。その光景に、心がどこか遠くへと引き寄せられるのを感じた。空は徐々に黄色に染まり、朝の息吹が広がってゆく
小説|十七月の歌 2/6
籠の中のオリュンポス
社会で身を立てると決めた僕は、「とにかく動け」と、ヤスという男と会社を設立した。まずできることを考え――ヤスはいろんな人との交流が苦じゃなかったし、僕はプログラミングに習熟していた――、システム開発案件を受注し、二三ヶ月のペースで納品するようになった。半月に一度は解決できるかわからない壁に打ち当たったり、事故が起きたりして、その度に心臓を鳴らして奔走していたが、僕らは会社に
小説|十七月の歌 1/6
病めるものに世界は微笑む
レールを外れた十七月、僕は世界が微笑むことを知った。穏やかな陽気に甘い香りが漂い、目をやれば若葉や柔らかい花々、それだけのことで僕の心は大きく揺さぶられた。それと歩調を合わせるように、芸術の中に呼吸できる場所を見つけ、それからというもの、希死念慮を吹き飛ばすような生の肯定を探した。僕はそれを生の芸術と呼んだが、不死を叶える石のように存在しなかった。
両親は山羊と狂犬だ