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小説を投稿して。なぜ文章表現が好きなのか

最近noteで小説を読んで、数年前に書いたものを思い出し、投稿してみた。こうして出してみると、自分の文章に反応を頂けたことが嬉しく、また投稿を終えられたことに、少し達成感を感じている。

読み返すと直したいところも出てきて、1~2章ごとに修正しながら投稿してみたが、note形式だと章頭の重要度が高いな、など、改めて構成を考えるきっかけにもなった。

この小説は、ビジネスに明け暮れた20代を経て、心身の疲れから仕事を落ち着かせた後、自由や信念、創造による価値観の更新、それらに回復の手がかりを見たときに書き始めた。感情を喪失していた時期で、それは自己療養的な取り組みだった。しかし、これを書きながら人生を振り返って、これからどう生きるか、という結論に向かっているうち、時に泣いたり、笑ったりしていた。

自己療養の取り組みが、同時に他者に共有可能なものとなるというのは興味深い。自己への沈潜が、普遍性への試みとなり、作品を通して、深層の価値観を表現しながら、心を通わせることもできる(かもしれない)。芸術というのは、自己のためにやっていながら、上達したいと思うほど客観的な視点が求められ、他者にも理解できるものとなる。さらに、それが新たな視座を与え、再び創造意欲を掻き立てる。それは美しい循環だと思う。

改めて作品を観てみると、主人公の精神的な旅を通じて、人生をどう生きるべきだろうか、と一緒に考えるきっかけを提供する作品になっているのではないかと思う。書き終えた頃、ここに自分の人生のすいを映し出せた、と思ったことを覚えてる。少なくとも、書いた直後は。


もうひとつ思ったのは、自分は文章表現が好きなんだ、ということ。それは何故だろうか? 恐らく、文章が抽象的でありながら緻密で、力強い表現ができるからだろう。映像や音楽と比べれば、感覚的な再現性において劣る面もある。しかし、言葉には他の形式にはない独自の力を感じる。

たとえば、哲学がちょっとした言葉で世界の観方を変貌させるとき、詩の言葉が意味をつないでその建造物を見せるとき、あるいは言葉が言い得ていなかった事柄を知らせるとき、言葉に対する深い感動がある。

さらに、言葉を厳密に使おうとすれば、読解力も高まる。言葉の微細なニュアンスに気づくことができれば、文章の鑑賞はより豊かになる。難解な文章も読み解くことができれば、知識の広がりを体感できる。その結果、表現の幅も広がり、また言葉という道具の可能性を探求したくなる。そこに文章表現の魅力のひとつがあるのではないだろうか。


実はこの作品以降、満足のいくものが書けていない。しかし、そのうち、noteの人たちの作品を読んで、また書けるといいなと思う。自分も創りたいと思ってしまうのは、素晴らしい作品に出会ってしまったからだ、と誰かも言っていたな、と思い出す。