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小説|十七月の歌 #6

時は満ちて

ヘリコプターが過ぎてゆく音圧を感じて、僕は自分が横たわっていることに気が付いた。目を開けると、葉が揺れる向こうに淡い青空がゆっくりと広がり、頭を動かすと、泥に髪を引っ張られた。時計を見ると日付は戻っていた。どうやらいつからか夢を見ていたらしい。だが、これも夢ではないか? そう思わないでもなかった。

起き上がって髪や服から泥を払い、歩き出すと右足のふくらはぎに痛みが走った。見るとズボンを貫通した噛み跡がある。――蛇? 俺は毒で昏睡していたのか? しかし意識は冴え、意思は充実していた。――気を失わない内に開けた場所か、電波のある場所へ辿り着くこと、それが第一だ。来た道を行けば捜索隊に出くわすかもしれない。そう考えて直ぐに、山岳救助隊を見つけた。声がうまく出せなかったので、枝を揺らして気づいてもらった。

そのまま病院に搬送され、処置と検査を受けると、マムシに噛まれてショックは起こしたものの、症状はほとんど残ってないという所見だった。その報告はバンに伝えられ、彼を通じてニケにも知らせが届いた。ほどなく荷物を持って駆けつけたニケは、涙ぐんでいた。僕は彼女に丁寧に詫び、またバンに山行の礼を電話すると、彼は声を弾ませた。

僕はルツに会いたいと思った。そして、彼女に電話すると、遠くに嗚咽が聞こえた。「もしもし……」彼女は微かな声で応じた。「ルツ、帰ってきたよ。」「……テンなの? ほんとうによかった……」そのルツの涙声は、ひとつひとつ揺れていて、胸が痛んだ。僕は心を込めて謝り、病院に向かっていたルツと落ち合う場所を決め、一緒に上野に行こうと伝えた。


三十分後、僕らは駅のホームで再会した。ルツの姿が目に入った途端、身体の力が抜け、足元が僅かにふらついた。涙の跡を残し、口元を震わせるルツは、立ち尽くしたまま、僕を見つめていた。僕らは自然と歩み寄り、強く抱きしめ合った。ルツの肩を抱くと、彼女の額が僕の胸にそっと押し付けられ、その呼吸が伝わってくる。僕も彼女の髪に顔を埋め、その香りで鼻腔を満たした。言葉なく流れる時間が、お互いの実在を感覚に刻み付けていた。

僕らはやがて、少しずつ身体を離した。彼女は、瞳を濡らしながら笑みを浮かべた。僕も笑みを返すと、静かに流れていた想いが、その中で確認されるようだった。僕らは駅を後にし、タクシーに乗り込んだ。

僕は心配をかけてしまったことを詫び、身体の状態について伝えた。ルツの声は、感情を抑えられないままに揺れていた。「家にいられなくて、上野にいたの……。でも、こんなことがあったから、また一緒に行けて嬉しい……。」僕は、彼女の肩を抱き寄せ、彼女は僕の手を両手で包み込んだ。しばらくして心臓の鼓動が落ち着きを見せ始めると、ルツは「……ほんと泣いちゃった」と赤くした目を細め、やっと手にした安堵と深い優しさを湛えていた。


上野駅に着くと、風が冷たくて鼻の奥がじんと痛んだ。公園の大通りは、洪水に流されたかのように人もなく、地平線を見るような遠さを感じた。僕らは鳥居をくぐり、石の灯籠の間を歩き、隠れるような階段に向かった。かつて僕らはここで待ち合わせることが多かった。ここから散歩したり、近くのルツの家に行ったりした。その階段に並んで腰を下ろした。

僕はダイのことを、事実と夢とを別にして話した。ダイの本当の胸中は分からないが、重苦しい呪いを抱えて、この世に留まる場所を持てなかったことは事実のように思える。僕はしばし沈黙して、自分の中で区切りができた、と伝えた。

それから僕らは、食堂に向かった。並んでいると当時が蘇って、あれが懐かしい、これが変わったと話をしながら定食を買った。「はあ、安心する。目の前と想い出でいっぱいにしたくて……」ルツはぼんやりした様子で言った。その表情は安堵に満ちていたが、どこか儚げだった。僕は、少しでも安心させたくて、ルツの手や肩に触れるようにした。

食事を終えてから、僕らはしばらく歩いた。並木道に出ると、冷えた風が鋭く肌を刺し、足元に散らばる枝葉は、貪られた残骸のように転がっていた。その悲鳴が、身体中を無数の蛇のように這い回り、僕の胸の内に不安を膨張させる。空には陰鬱な雲が低く垂れこめ、僕を睨め付けているようで、それは、以前から漂っていた仄かな影が、その姿を現し始めたようだった。抗いようもなく、骨のようなソメイヨシノがひび割れた手を広げて、僕の魂を捕え、咀嚼し、そして彼女を独り、歩かせてゆく。――そんな、錯覚というには余りに強い心象が、僕の意識を支配した。

《僕らの道は、もう交わらない。》――その言葉が頭の中を反響し、鋭い傷を残す。僕らはずっと、精神的血縁として繋がっていると、無意識に思い込んでいた。だが僕らの選択は、既に、決定的に、僕らを隔てていた。その喪失感が胸に穴を開け、寂寥が辺りを覆い尽くし、僕は思わず、立ち止まってしまった。足元の影が揺れ、呼吸は次第に浅くなってゆく。

――しかしその時、僕は視界の端に、微かな光の気配を感じた。ゆっくりと顔を上げると、意外にも、雲の切れ間から一条の光が差し込み、西の空は輝き始めていた。その光が徐々に空を明るく染めるなか、寄り添って頭を傾けたルツから花のような香りが漂い、どこかで練習するらしい喇叭が、勇壮にチャイコフスキーを奏でていた。

さらに、視界に聳える部室棟が、異様だが優しげな眼差しを向けた巨人のように、こちらを見ていることに気が付いた。僕は、その古びた外壁を見つめながら、何かを探していた。それが何かは分からなかったが、視線は自然と引き寄せられ、ある窓に人影を捉えた。そして、その窓から小さな光源がこちらに迫ってくるのを感じた。――しかし、それも一瞬のことだった。気が付けば僕はその窓に吸い込まれ、曇りガラスを埋め尽くす真っ白な光に包まれていた……。その光は、ルツの滑らかな素肌を照らし出し、若葉と共に僕らを祝福するようだった。僕の中でルツとの記憶が駆け巡っていた……。

――感性を肯定しあい、心身を共鳴させた日々! ――八年間、お互いの存在を身近に感じ、それぞれの世界を暖めて幸福を願っていたのは、その日々があったからだ。それらは余りにも焼きついて、僕が世界を美しいと思う時、そばにはルツがいた。そのように認識される世界に、僕は自分の人生を感じていた。――そのような歪みに、かけがえのなささえ感じていた。――この愛すべき人生の歪み。たとえ人生を重ねられなくとも、僕らは、それを抱えて生きてゆけるだろう。



自宅の東に見晴らしのいい丘があったので、僕らはその上に石を積み上げて、ユリの種を蒔いた。晴れ渡る空は遠く澄み、眼下には川と街が見下ろせた。そして、木陰に小さなシートを敷いてひと息つくと、煙みたいに質感のある溜め息が出て、肩の力が抜けるようだった。持参した三十年物の古本は、ヴァニラとシナモンの香りがして、洒落た仕上がりだった。木漏れ陽が紙面を踊る、静かな朝。


「……考えてたのだけど、人生の意味って、それぞれの枕草子を作ることじゃない? ――春には若葉を見て、夏には鮎を食べて、いとをかし。それで十分な気がする」

「……自分の心を動かすもので生活を作る。いつかの哲学みたいだ」

「ははは、正解」

「ずいぶん先越されてたな」

「変わらないことなんだよ」

――そうだ。創造を通して自己を更新し、その道に生きることもまた、生の芸術のひとつだろう。生の芸術は、人それぞれの秩序の中に形作られるのだ。

「人生はさ、自分の生活と充実を守って、あとは社会にできることをできるかぎりでやる、それで十分だと思う。……でも社会は競争に負ければ滅びる。グローバル企業に産業を潰されたり、武力で略奪されたり、生産力がないと別の社会に呑み込まれてしまう」

――結局、いかに文明ヅラしたって、ここは欲が打つかり合う世界で、下らない小競り合いに巻きこまれ、苛烈な論理に圧し潰されてしまう。だから、自分たちが血を流さないために、何で勝ちつづけ、何を守るか、社会を機能させねばならない。

「社会には尊厳がない」

――そう、尊厳がない。それ故にこそ、自己と向き合い続ける生に、かけがえのなさという尊厳が際立つものだ。機能、機能、……そればかりじゃなくて、自己を見出すことを促し、もっと人格を尊重する社会を作れたら……。なあカント、君のいう目的の王国を。僕らの本当の生活を。――俺はそのために自由と尊厳を歌い続けたい……。


僕はメフィストフェレスに会いたかった。

彼こそが人間の尊厳であるようにさえ思えた。


「ねえ、また小説を書いてみるよ」

「素敵、どんなこと書くの?」

「そうだな、これまでの人生……俺が経験してきたことが、誰かの力になるように」

「きっといいものになるよ」


いつか僕は、誰かに息のできる世界を差し出せるだろうか? いつか僕は、生の芸術を創れるだろうか? いや、そんな大したものでなくていい。砂のようにこぼれてゆく僕の人生から、ほんの少しの好意だけでも受け取ってもらえたらそれでいい。――やってみようと思う。やらなくてはゼロだ。あの懐かしい悪魔をつかまえて、記憶と思想と表現とを引っ張りだして、現実を忘れるくらい没頭してみよう。この世界の美しさと自由を教えてくれた、十七月に耳を澄ませて。