38 フォルトゥナの瞳
2022年8月初旬。
祖母は「Tくん亡くなったか?」と母に尋ねた。
Tさんというのは祖母の実の弟(80代)だ。
お年だったし、既に調子が悪いと聞いていて“もしかしたら間もなく…”という状況だった。その一報は、祖母ではなく母に入る予定になっていたのだ。
だから母は、先の質問には「まだ連絡がないから亡くなってないよ」と答えた。
だけど祖母は、「Tくんが夢枕に立って挨拶に来たから、亡くなったんじゃ」と言い続けた。
お盆が明けた8月下旬、Tさん家族から訃報が届いた。
「お盆に入る前に亡くなりました。
バタバタしてたのでお盆が明けてから
連絡しようと思って…」
祖母が言った通りだった。
祖母の「夢枕に立つ」相手は多岐にわたる。
「〇〇が訪ねて来る」とか「〇〇がもーすぐ死ぬ」とか、祖父や母へ話していた夢の内容は身内に関することで、それ以外に何か受け取っていたかどうかは分からない。
とにかく実の弟が亡くなったことを知らせてもらえなかった祖母。いつも誰かを批難することなど皆無だったのに、この件だけはどうにも納得が行かなかったらしい。母にだけは悔しさと怒りを吐露していた。
ー*
【ここまでの経緯は〚37 美しき魂の光〛をどーぞ。
ま、以降読まずとも差し支え無いデスガ😌✨】
【では、続きを。↓】
これをきっかけに、身の回りのことや足腰が覚束なくなってきた。一番可愛がっていた実の弟の死に目にも逢えず、葬儀にも出られなかった祖母の無念さは私にだって理解できる。精神的に相当なダメージを受けたのは言うまでもない。ココロとカラダは密接に繋がっているのだから。
年明けから、父と母と私で「介護」を始めることになった。母は料理と洗濯、そして入浴に付き添い、足腰の弱くなった祖母を浴槽から引き上げる手伝いをした。私は主に料理と洗濯を担当したり、祖母の話し相手になった。父は掃除や買い物、荷物持ち。できることを家族で分担した。
一般的に言われている認知症の症状は祖母には無い。ただ、睡眠時間は長く、夢で色々なことを受け取っているからなのか現実と夢、過去と未来など時系列がぐちゃぐちゃになる時がある。会話をしていると同じ症状を持つ私にはなんとなく伝わってくる。
まぁ、一般的にはこれが「見当識障害」として認知症と判断される場合が多い。
だから私は“認知症”を学んだ時に違和感を感じることが多くて、今もまだなんとなく収まらない。
祖母は会話もしっかりしているし、すこぶる耳はいい。だから90歳をゆうに越えてるけど、私が小声でボソボソ喋っても全部聴こえてる😊 病気知らずで肩凝りすら未経験。いたって健康じゃないか。
私の脳は祖母に似てる。
いつだったか、確信に変わった。
この症状に限った話ではない。
似てるというか、何か色々なものを引き継いでいるんだと思った。
***
「あーーーきもちーわー」
「ええお湯やぁ」
「アユちゃんありがとうなー」
数日ぶりに入浴している祖母は幸せそうにブツブツひとりごとを言っている。
湯船に浸かっている祖母の後ろ姿をぼーっと眺めていると、ふと過(よぎ)った。
「もうすぐお迎えが来るんだ」
死期が近いんだと分かった。
理屈抜きで一瞬でそうなんだと理解した。
でも実はそれには、ちゃんと理由があった。
祖母の後ろ姿の首から肩にかけて、肌がクリスタルのように乱反射して透き通って見えたから。
祖母の肌はもともと色が白くて綺麗だったけど、なんだかそれとは様子が違い、“物質”ではなく“光”に戻りかけているような…そんなふうに見えた。
とっても綺麗だった。
だからそれを目にした時、“間もなくなんだ”と分かってしまった。
でも後になって「なぜ透き通って見えたから“間もなく”なのか」に答えがもたらされた。…いや、、実は材料は揃っていた。あることを思い出したことで目の前の現象との答え合わせができたのだ。
数年前、映画『フォルトゥナの瞳』がNetflixのオススメに挙がったので、何気なくクリックして見た。
(原作は同名で百田尚樹さんの著者)
こんなストーリーだった。↓
【フォルトゥナとは、運命の女神のこと。
その瞳を持った者は、死を目前にした人が透けて見えると言う。神木隆之介さん演じる木山はその瞳の持ち主。
ある日、木山はその瞳を持っていることに気づき、
他人(有村架純さん演じる葵)の運命を変えてしまう。しかし他人の運命を変えることには大きな代償が伴うことが分かり…。人生はまさに選択の連続――。】
〈以降、若干ネタバレしてます〉
当時は特に深く考えなかったけど、この映画の内容と祖母の肩口のそれの、点と点が繋がった時、、「あぁ…そーゆーことはあるだろうなー🙄」と抵抗なく受け入れられた。
この映画では、完全に肉体は“透けた”映像だったけど、私が見たのは“透き通っている”様子で、それを「光に戻っていくんだ」という認識で理解した。
確かに物理現象から情報現象に移行する様子を視覚で拾うとなると“透き通った先に透ける”という過程を経ることになる気がする。だから、ふむふむと納得できた。
物語の中のセリフで「予知能力」という言葉も出てくるけど、“あぁ、この人もうすぐ死ぬんだ…”と分かるのは予知なのか、と改めてインプットできた。
アチラの世界は情報現象、コチラの世界は物理現象。。実際、人間は“半霊半物質”。
物体化するプロセスの前には必ず、目に見えない情報現象が発生している。人間は結構どっち付かずな存在なのかも。
まぁ怖いことでも何でもない。
そして、「他人の運命を操作するとそれなりの代償を伴う」という事実が描かれていたのも面白かった。これはどんな能力にも言えることだけど、やっぱり“予知能力”に関しては使い方を誤るとペナルティは必ずあると思う。ペナルティというか、“その使い方はちょっと改める必要がありますよ”というサインだ。
「人のために」
「良かれと思って」
「称賛されたいから」
能力を自覚している人のこれらは非常に危険。
「人のために」⇒本当にその人のため?
「良かれと思って」⇒本当に先を見据えた行動?
「称賛されたいから」⇒論外。承認欲求未達の
原因を自分に問うてみよ。
木山の選択はやはり“未熟”だったんじゃないかなーと思う。自己満足を満たすためにその能力が与えられているわけじゃない。おそらくこの地球では、“その能力を持ってどのように生きるか”を学びにきたのだと思う。
だから「クレアボヤントらしいー✨」とかこの記事内で言っている私も然り😰、、ひけらかしているうちは学ばなければならない何かがあるんだろうと思う。(。•ᴗ•。)💧
それはそうと、私はペナルティについて「神さまが天罰を下した」という捉え方はしていなくて、全人類にとって良きタイミングと良き方法で公平に気づきが与えられる、と思っている。
でも、その“気づき”がもたらされる現象が起きた時、
人によって受け止めが違うかもしれず、“地球観念”で生きる者にとっては「天罰」として、“宇宙観念”で生きる者にとっては「おくりもの」として届く。。
どーやらどこまで行っても「どのように受け止める(入力する)か」がこの世で生きる上で重要な「意識」なのかもしれない。
神さま…どうか、、精進しますので、、どーぞこのまま私のペースで歩ませてくださいまし✨💦笑
*
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」って言葉がある。
人の「意識」というのは拡大していくにつれ「自分の存在なんて大したことない」「宇宙の広大さを前にしたら自分なんてちっぽけなもんだ」と思うようになっていき、この世的な尺度や価値観をポイポイと捨てるようになる。私ですら、ほんの数年前と比べても“成長したなぁ…でも、まだまだなぁ…”と思う。どんどん謙虚になっていくのは至極当然の流れなのだろう。
たまーにビジネス書を読みまくって、この言葉を覚えた人が「実るために頭を垂れている」のを見かけるけど、たぶん順序が逆。
日本語の「稲(イネ)」とは、“命(イノチ)”の“根(ネ)”が元々の語源だ。(←カタカムナの考え方デス😌)
肥沃な大地で稲は育つ。人は稲を食べて生きる。そして死んだら、また土に還る。
稲は“人そのもの”。
命の根源が「稲」だ。
「出世の仕方」や「小賢しい人間を作る指針」を表した言葉ではなく、“実った先の心の境地”を、日本人…いや人類にとって大切な穀物である「稲」になぞらえて言語化した秀逸な言葉の組合せ、且つ作者の意識を見事に現したのが、この言葉。
🌾「実るほど頭を垂れる稲穂かな」🌾
一生かけて学んだ経験でもって捻り出した言葉って、すごいパワーがある。それで、その言霊は作者が亡くなっても人々によって語り継がれ永遠に生き続ける。
でもこの言葉のように、肝になっている重要な部分が削ぎ落とされて伝わってくんだろーなーと思ったりもした。
🌾✨
また派手に脱線してしまったけど、、
祖母の話はまたすぐ語ることになると思うから、長くなってきたし今回はこのまま「稲🌾」で終わろうと思う。
今日の記事繋がりで私の好きな曲をご紹介しておこう😌 脳内旅に欠かせない曲の1つ✨
すぐに頭がふわぁ〜っとしちゃうのだ。
♫清塚信也さんのピアノ曲🎹
『運命の女神〜Fortuna(フォルトゥーナ)』
Ayumi☽