【H】「銀行」と「信用創造」の起源—その生成の論理を整理する
「銀行」と「信用創造」は極めて不思議なものだ。ほとんど無からお金が生まれるというのだから。それはいかにして生まれたのか。
その生成の論理は、最近、下の『21世紀の貨幣論』の読書記録の中編で扱ったのだが、とても興味深い問題なので、もう少し詳しく記述し直してみたい。以下、『21世紀の貨幣論』の知見に拠りつつ、議論を展開する。
さて「銀行」とは何か。『21世紀の貨幣論』によれば、銀行はごく私的な信用を広く通用するマネーに変換する装置として始まった。
1、そもそも「マネー」とは「譲渡可能になった支払い約束」である
そもそもマネーとは何かというところから出発しよう。マネーの原型は「譲渡可能になった支払い約束(=借用証書)」だ。
Aさんが私を信用しているなら、私は「Aさんにコレコレの借りがあるので、アレコレの期日までのアレソレのお返しをします」という支払い約束でもって、Aさんから何らかの財やサービスを提供してもらうことができる。Aさんは、そのお返しを信用するからだ。
そして、もしBさんも私を信用しているなら、Aさんは私の発行した支払い約束でもってBさんから何らかの財やサービスを提供してもらうことができるだろう。Bさんも、私のところに支払い約束を持っていけばお返しが得られると思うからだ。
このとき私の支払い約束は、それと引き換えに財やサービスが提供されるような存在となっており、その点でマネーだと言える。
だが、問題は私のような普通の個人は信用される範囲が極めて限定されるということだ。AさんやBさんには信用されていても、CさんやDさんには信用されていない。
すると、このマネーは通用範囲が極めて限定されており、実質的にはマネーと言えるほどの流通性は有しないだろう。この問題を解決するのが「銀行」である。
2、銀行は私的な信用をマネーに変換する
銀行は、たとえば私のような普通の個人が持っている極めて限定的な信用を、広く通用するマネーに変換する。
それが可能なのは、銀行自身が広い信用を獲得しているからだ。だから、銀行は大商人・大商会から派生した。誰もがその名を知っており、その支払い能力を信用している存在だ。
さて、「変換」は具体的にいかにしてなされるのか。それは銀行が私の支払い能力、つまり、私が信用できるのかどうかを審査したうえで、信用できるとなれば、私の「支払い約束」を受け入れ、その代わりに銀行自身の(銀行券や銀行預金という形での)「支払い約束」を交付するということによってである。
私はこの銀行の支払い約束でもって、AさんやBさんだけでなく、CさんやDさんからも財やサービスを提供してもらうことができる。銀行はそれほど広く信用されているからだ。
ここで注意したいのは、以上で描写された銀行による私の支払い約束の受け入れと自らの支払い約束の交付とは、要するに現代における銀行の「融資」、私の「借金」と同じだということだ
私が銀行で借金をするとき、私はコレコレの期日までに返しますという支払い約束をし、銀行がそれを受け入れて銀行預金という銀行の支払い約束を私に交付するのである。
3、「部分準備」と「信用創造」の起源へ
このように銀行が広く信用され、その支払い約束が多くの人に受け入れられるのであれば、私たちはわざわざ都度都度、銀行に対して支払い約束を行使して、(その土地その時代で)現金とされているものを受け取る必要はない。私は銀行の支払い約束を持っていることで満足する。何かが欲しくなれば、それでもって支払いを行えばいいのだから。
さて、前節でのプロセスによって、銀行のバランスシートの「資産」側には私からの支払い約束があり、「負債」側には私に交付した銀行の支払い約束がある。同様の取引によって、銀行には自らに対する支払い約束が「資産」として、自らの支払い約束が「負債」として蓄積してく。
ここで先に述べたように、銀行の支払い約束に関して、それが実際に行使されることが少ないのであれば、銀行は自らの支払い約束、すなわち、負債の量に対して、少ない量の現金だけを準備しておけば良いだろう。
これまで述べてきたことから明らかなように、銀行の負債が資産と対で形成されることを考慮に入れると、資産の量と負債の量はだいたい一致する。そして、このような「負債≒資産」の量に対して、少ない量の現金しか銀行が準備していないことを「部分準備」と呼ぶ。
このようなとき、銀行による「信用創造」ないし「貨幣創造」が生じている。というのも、銀行の支払い約束は実質的にお金として機能しているわけだが、銀行がその支払い約束に対して部分的にしか現金を準備していない場合、その準備によってカバーされていない部分の支払い準備は、銀行によって無から創造されたと言えるからである。銀行はこうして貨幣を創造する。
4、銀行経営の鍵はバランスシート管理にある
さて、このように部分準備制度によって信用創造を行う銀行は、実際に自分が所持している現金よりも多くの支払い約束を抱えている。
これはかなり不安な事態だが、救いとなることが二つある。
一つは、前述の通り、多くの人が銀行の支払い約束としての銀行預金で満足し、銀行に対して現金の支払い要求を行使することは稀であること。
もう一つは、銀行は「負債」として大量の支払い約束を抱えているが、「資産」側には銀行に対する他者の支払い約束も抱えていること。銀行が私に自らの支払い約束としての銀行預金を交付したのは、私の返済約束と引き換えにだった。
だから、銀行としては、他者の支払い約束から入ってくる現金の範囲内に、銀行に対して行使される自らの支払い約束を収めておけばいいのだ。
それはつまるところ資産と負債のバランスをどのように制御するかということに帰着する。銀行にとってはバランスシートの管理こそが決定的に重要なのである。
これが失敗したとき、銀行は支払い不能の危機に陥り、不安に思った人々が銀行の支払い約束の実行を求めて殺到する。いわゆる取り付け騒ぎだ。そうすると銀行は実際に支払い不能になり破綻するのである。
そのとき、部分準備を上回る分の銀行の支払い約束、すなわち、銀行預金は、信用創造によって無から創造されたものに過ぎず、裏付けがないことが示される。信用ないしマネーが膨張していたことが気づかれ、それによってマネーが収縮していくのである。
5、今後の研究への示唆—信用創造は廃止できるのか?
さて、少々上記に関する感想のようなものを述べておきたい。
もともと私の関心は、MMT派貨幣論が商品貨幣論を否定した後で、国家が貨幣を発行するという「主権貨幣論」と、銀行の信用創造で貨幣が生まれるという「信用貨幣論」を特異な仕方で並列させていることをどう考えるかということにある。
MMT派は、この並列関係を「信用貨幣論」優位で肯定しているように見えるが、私がPMT派と呼んでいる立場は、これを「主権貨幣論」優位で構想し直す。そのもっとも極端な立場が「信用創造廃止論」に他ならない。
だが、「信用創造」は廃止できるのだろうか。廃止するべきかどうか以前に、そこに問題がある。今回の考察はこの点にかかわるものである。
銀行は、譲渡可能になった支払い約束というマネーの根源的なあり方に根差し、ごくごく狭い信用しか持たない人の支払い約束を一般に通用するマネーに変換する変換器として、ごくごく自然に、いわばボトムアップで立ち上がる。
それは銀行自身が広く信用されていることによって可能だが、だとすれば銀行の支払い約束は広く流通するわけで、それを現金に都度替えたいというニーズは大きくない。
このとき、銀行は自身の支払い約束に比して少ない現金しか準備しない「部分準備」をしているし、その部分準備でカバーされない支払い約束は「信用創造」によって裏付けなく発行されている。
この「信用創造」の立ち上がりの自然性を見るとき、「信用創造」廃止論は現実味がないようにも思う。仮に銀行を廃止したとしても、信用創造は制度の外側で勝手に行われるのではないだろうか。麻薬や売春を禁止するとヤミ化してより危険になるのと同じような理屈が働きそうである。
となると、「信用創造」の廃止まではしないが、国の支出に関しては「国債」という「借金=信用」の形態と取ることをやめる、「国債廃止論」ないし「政府通貨発行」論の方がだいぶ現実性はありそうである。今後もますます検討を深めたいところである。