意識的に自分の殻を壊す 私の習慣 その4.420 課外活動本格デビュー 当たり前過ぎて意識しなくなっていること
生まれてからずっと夢見ていた知的パラダイスたる大学。学生運動の名残が少し残っていて、立て看板も絶滅危惧種ながら若干残っていました。
そこで意識的に自分の殻を壊し生まれて初めての部活·サークル活動に本格参加した話の続編。
経緯
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ベビーブーム末期で受験戦争と言われた時代。意識的に自分の殻を壊し、バランスの取れた高校生活を選ばず、醜いまでに受験対策するということに。そのソリューションとした選んた駿台予備校が良かった…
駿台での授業内容は大学での学究生活に向けての準備というスタンスでした。入試なんてその通過点で軽くこなせば良いだけという余裕。感動的ですら有りました。
その辺りまではこちらをお楽しみ下さい。
しかし小学生時代、スタートが2年遅れた分を取り戻せず、その2年遅れを最後まで背負って希望の大学に入学しました。そして、弱冠20歳にて4度目の
意識的に自分の殻を壊す
です。
入試という他人の決めた知の体系から解き放って自分の知的欲求を基にした学究生活を取り戻す。それを真剣に追求しました。
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意識的に自分の殻を壊す意味で、学業に特化した人生から自分を開放し、生まれて初めて航空宇宙研究会というサークルに入りました。
その辺りはこちらをお楽しみ下さい。
当時、大きく3プロジェクトが有りました。ロケットの燃焼実験、コンピュータの製作、アナログシンセサイザーの製作です。
私はその全てのプロジェクトに参加していました。
ロケットの燃焼実験についてはこちらをお楽しみ下さい。
コンピュータプロジェクト。
私が同時代の学生として経験した黎明期のマイコンの進化を楽しんでみて下さい。
一応ザックリ補足を。計算機室に鎮座するメインフレーム、事務所に置いて使うミニコン、個人が買える価格帯の手軽なマイコンというカテゴリの中のマイコンの話です。
入学当時は簡単に言えば今のエアコンの中に入っているコンピューター程度の能力の世界かなぁ。民生品としては8bitのマイクロプロセッサーと少し経ってもやっとメインメモリーであるDRAMが64KBという時代。それでも高価で学生が個人で所有するのは勿論キツイ代物でした。
前に所属していた大学で電子工学を専攻していたので、メインフレームの上でFORTRANと言う高級言語を駆使しコンピューターを使いこなす事はしていましたので、マイコン自体には比較的土地勘が有りました。
当時のマイコンはカセットテープでOSを毎回ロードして、ていうのはザックリ言えばスマホを買ってアプリケーションをまだ入れていない状態にする感じ。次にアプリケーションソフトウェアをまたカセットテープでロードするといった感じでした。
なので電源を切ると毎回ソフトウェアは消えちゃうって感じです。面倒くさいですよね。
コンピューター言語は機械語と言うそのままマイクロプロセッサーが理解できる言葉が先ず基本。マイクロプロセッサーに事細かにこれやってあれやってと入力する感じ。
もう一つは高級言語(当時は(笑))であるアセンブラーといってマイクロプロセッサーに分かり易い簡単なまとまった作業を書けは機械語にしてくれる言語の2つ位でした。
シンプルっちゃシンプル
因みに今は、こんな感じで宜しくとプログラムすれば、マイクロプロセッサーに事細かにこれやってあれやってという細い指示は自動で作ってくれる時代です。隔世の感。
何れにせよコンピューターオタクのディープな世界。研究としては最先端。
それが知的に新鮮で楽しかった。
興味があれば基本的なコンピューター言語世界も以下でお楽しみ下さい。因みに今でもザックリ言えば、ソフトウェアは最後には機械語になってハードウェアに渡されるイメージです。
直ぐにBASICと言うメインフレームで使う高級言語、FORTRANと言う言語の簡易言語が普及しました。上述の様にFORTRANは使えたのでBASICは簡単に使いこなせました。機械語バリバリの諸先輩方が沢山いらしたので今更機械語はどうもと言う感じ。ですからマイコンをイジる時は取り敢えず基本BASICと言う高級言語でと言う感じでした。
過去の経験や知識が活かせ、何もかも上手く回っている感じがしていました。
その当時の部室に有ったコンピューターってこんな感じ。
なかなかレトロでしょう。
興味があればマイコンの黎明期を彩ったコモドールと言う会社の話も。
新入部員として入った時に部室に有ったのは、このコモドールのPET 2001 (1977年)でした。勿論画面はブラウン管で単色、グリーンディスプレイ。左側のカセットテープ挿入口からカセットテープでOSを入れたり、アプリケーションソフトを入れたりしていました。
CPUはMOS6502という60系(先頭の2桁が60台なので)の石。この設計が美しいとオタクな先輩はベタ褒め。(笑)
真空管が球(たま)と呼ばれていたので、半導体のことは石と呼ぶ習慣が有りました。(笑)
女子部員も混ざって石野真子と河合奈保子(2人共に当時のアイドル)とどっちがかわいいかなんて話をしてる横で、60系に対してインテルなどが設計した80系という石の種類を推す今風に言えば“80オシ”という先輩も居て、研究室では各々の良さをめちゃめちゃ専門的に議論し合うというカオスな世界。
それも居心地が良かった。
オタクな男子学生に混ざって別の大学の付属の女学院から来た、メンソールの細い煙草を部室で喫煙するめちゃめちゃ頭の切れる先輩が、少し斜に構えたスタンスで議論に加わって居たのも新しい風景でした。
とまぁこんな感じで高校生時代からは完全に自分の殻を壊して、敢えて最先端技術の深み(今風なら沼(笑))にはまる自由を楽しみだしていました。
つづく