雑感記録(354)
【言葉の"プロ"より"アマチュア"でいたい】
僕は自分で書く文章が下手くそだけれども好きなので、過去の自身の記録を時折読み返すことがある。その中で、ふと過去に僕は上記の物を引用していた。僕はもうこの本は捨ててしまって手元にないのだが、やはりここだけ読んでみても腹立たしいなと思う訳だ。
それでね。たまたま僕の眼に「"言葉のプロフェッショナル"の方々が、私の記事を読んでくださるようになりました。」という部分が鮮烈に入って来た。僕はハタと「いや、言葉のプロフェッショナルって…」と思ったのである。果たしてこの引用で述べられているベストセラー作家、紅白に出るようなミュージシャン、有名女優がそもそもどうして"言葉のプロフェッショナル"なのだろうか。そこの説明ももしかしたら書いてあったのかもしれないのだろうけれども、手元にないから読めない。何度も書くようだが、捨てたので読めない。
とここまで書いて、以前にも確か同じようなことを書いていた気がすると思い出してしまった。ただ、それをあの中から探すのは面倒だし、どうせ自分で読むんだから何度だって同じこと書きゃ良いんだよなと謎の開き直り。早速思うがままに書いてみようと思う。
『日本国語大辞典』によるとこんな感じだ。専門家。なるほど、そういう意味で使うことが多い気がするし、実際僕もこの用例で使うことが多い。ということは「言葉の"プロフェッショナル"」というのは「言葉の専門家」ということである。言葉の専門家…。ベストセラー作家が言葉の専門家なの?有名女優が言葉の専門家なの?紅白に出るミュージシャンが言葉の専門家なの?怪しい。最初に引用した文章は破綻しているのではないかと思える。
だが、こんなこと僕がこうして仰々しく書かなくても分かることだ。よく考えなくても分かる。ベストセラー作家が言葉の専門家だったとしたら、僕が毎回コケにしている某小説の「フルーチェ」の比喩はどうなる?あんなものが専門家と言われたら堪ったものでは無い。あるいは、めちゃくちゃにこけおろした、某有名YouTuberのエッセー集なんかは言葉もクソもあったものではない。
紅白に出るようなミュージシャンと言うが、アイドルグループなど歌詞は誰か別の人物に書いてもらっている訳だ。それこそ、ひと昔前の歌謡曲なんてそうだろう。歌詞と歌う人は分かれている。そういう場合だってある訳だ。無論、今では自分たちのグループなどで歌詞を書いているミュージシャンも居るかもしれない。しかし、それだけで言葉の"プロフェッショナル"と言えるのか。そもそも音楽は言葉も重要かもしれないが、リズムなども重要な要素であって、それに長けている人も居る。
SkrillexやZEDDはトラックメイカーになる訳だけれども、言ってしまえば彼らは紅白に出るミュージシャンより凄い影響力を持ったミュージシャンだよね。彼らがどういう風に音楽制作をしているか知らないけれども、音について考えている訳で、何も言葉に全ての比重が置かれている訳ではないでしょう。この人たちも言葉の"プロフェッショナル”なんて言うことが出来るのだろうかって思う。
有名女優と今度は出たもんだ。有名「女優」だそうだ。俳優では無くて。そうか「男優」は言葉の"プロフェッショナル"ではないらしい。まず以てそこで「ん?」となる訳だ。それに俳優だからと言って言葉について考えてはいるにしろ、それが"プロフェッショナル"というの判断できないだろう。それは言葉の使い方あるいは発し方なのか。言葉と演技を上手くリンクさせるのか。あるいは訂正力の問題か。一概に言葉の"プロフェッショナル"などと言えたものでは無い。
別に僕は誰が何を勝手に書こうが自由であると思う。しかし、それなりの読者層を持っている著者がこんな風に書くのは如何なものかなということは考えてしまうものである。さらに言ってしまえば、これを読んで「む?」と思わないというのも些か考え物である。
愛好者、素人。いいなぁ、この響き。というよりも、こういう姿勢だからこそ僕はnoteで「ああでもない」「こうでもない」と種々雑多に書けるのだから。僕は一生アマチュアでいたい。間違えたことを書いていようが、如何にクソみたいな文章を書こうが清々しく書けるというものである。
少し注意をしておきたいのだが、これは自分が上手な文章を書けないということに対する開き直りでは決してない。加えて言うのならば、アマチュアという立場に甘んじてはいけない。アマチュアはアマチュアらしく、日々研鑽を積むべきである。そういう自戒を込めて僕はアマチュアでいたいと常々思うのである。
似ているかどうかは分からないが「初心忘れるべからず」という言葉がある。これこそ正しく「アマチュアであること」ということを表現しているのではないだろうか。素人であるからこそ発見できる物事も当然にある。そして初期衝動みたいなものを決して忘れてはならない。何か物を創るということに於いては肝心なことである。
更に加えて言うのならば、これら姿勢は「無知であること」を肯定するものでは決してない。「無知であること」というのは時として暴力たり得ることがある。だからこそ、「知っているけれども知らないふり」というものを目指したいという所もある。それを敢えてズラしてみるということこそに面白さなるものが詰まっているのではないか。そして、「プロフェッショナル」という言葉でそれを忘れてしまうのは危険であると思われて仕方がない。
僕は過去に『日本語と日本人の心』という本と、谷川俊太郎の『手紙』という詩集を引き合いに出しながら言葉について「ああでもない」「こうでもない」と様々に書き散らした訳である。この記録を書いた時の感覚というのは実は結構覚えている。わりと自分の書いた記録の中でスムーズに書きたいことが書けた記録だからでもある。
書いている時に思った大きな事としては、所謂小説家と呼ばれる人間や詩人と呼ばれる人間であっても、学びの姿勢というか、言ってしまえば「アマチュアである」ということを感じたということである。皆が常に言葉に対してアンテナを張り巡らせ、自分自身の言葉を小説家や詩人でさえも日々研鑽しているのである。それが仕事だからと言ってしまえばキリない訳だが、それでもその「アマチュア精神」みたいな部分は見習いたいと思う。
そう言えば、ふと思い出したのだが、蓮實重彦の『ショットとは何か』という本がある。その本の帯に「わたしはアマチュアでいたい」みたいなことが書いてあったようななかったような…。僕の気のせいかもしれない訳だが…。しかし、そういう界隈で重鎮と呼ばれる人間ですらも「アマチュアでいたい」と書くのだ。やはり大切な心構えなのだろうと僕には思えて仕方がない。
ちなみに僕はまだ『ショットとは何か』について読めていない。
僕はアマチュアでいたい。でも、それに甘んじたくもない。やはり、その中間層を漂っていたい。「あそび」の空間の重要性はここにもある。僕は言葉の「プロフェッショナル」なんかじゃなくていい。あんな面白くもない文章を書いて世に出るくらいならば、一生「アマチュア」で十分だ。
人は一度、美味い汁を吸ってしまうとそれに溺れてしまう。
僕は自分自身の好きな事に対して「アマチュア」でいたいと思う。ただ、時に厳しく部分部分で「プロフェッショナル」的な部分も匂わせることが出来れば良いなと思いながら、今日も今日とて駄文を連ねる。
よしなに。