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雑感記録(369)

【「自分の言葉」とは?】


些か唐突だが、これを読んでくださっている方々に問いたい。

「自分の言葉」とは何ですか?

僕はこの質問に対して実は明確な答えを持ち合わせていない。自分の言葉というのは、どこかでそう信じたい人間による願望でしかなく、それが表面的にただ記号としてそこに並べられた時、それは果たして自分の言葉と評定することが出来るのだろうか?例えば、今こうして僕は文章を書いている。無論、書く順序やら言葉使いやら雰囲気やら、何やら云々かんぬん…そういったものだけを見て考えるのであれば「自分の文章だ」とは思う。他の人よりも稚拙な文章だなと自分でも思うところが沢山である。ところが、文字記号としてそこに羅列されていると認識した場合、それは果たして「自分の言葉」と言えるのかどうかは僕には疑わしい。

だから僕は何でもかんでも「自分の言葉で書きなさい」とか「自分の言葉で伝えなさい」という人が余り信用できない。それは恐らくだけれども「自分の口から自分で話しなさい」とか「自分の思ったことや感じたことを自分なりに書きなさい」ということなんだと思うのだけれども、だったら最初からそう言えば良いだけだ。何故「自分の言葉」と強調する必要があるのだろうか。とそんなことをふと考えてしまった。いや、「ふと」ではなく必然的に考えさせられてしまった訳である。

お酒を飲んで本屋に行くのは危険である。嫌いな作家の本を知らぬ間に購入してしまうからである。以前もそういうことがあった。しかも同じ作者で。わざとやってるんだろと思われても仕方がないが、しかしここまで来るともはや確固たる意思を持ってやっているんだろうと他人事の様に思う。お酒というのは便利であり、狡猾であり、苦しいものである。

しかし、買ってしまったものは買ってしまったので仕方なしに読み始める。僕は1つ読書する時に必ず決めていることがある。それは、「嫌いな本は徹底的に読み込む」ということである。これは僕の性分の問題も大いに関係しているのだろうが、嫌いになるなら徹底的に嫌いになりたいのである。とは言え、散々「あそび」が大事だと語っている人間からすると「?」という感じではある訳だ。自分自身で何を言ってんだかと。しかし、嫌いなものは嫌いなのだ。

それにこれも僕が保坂和志の信者的な側面があるから、『小説の自由』の文庫版の「まえがき」に大きな影響を受けたということもある訳だ。引用しようじゃあないか。

読者はそのような本の"形"に忠実であるより自分自身の興味の赴くところに忠実であってほしい。読みはじめたらつまらなくても最後まで読まないと気が済まないという人がいるが、そのようなまじめさは小説に対する一種の甘やかしではないか。つまらないと思ったところで中断したり放棄したりするのが小説に対する愛というものではないか。小説が望んでいるのは読者の熱い気紛れ、関心が持続しなくなったらさっさと放り出してしまう冷たさ、それこそが小説に対する"熱"というものではないか。

保坂和志「文庫版まえがき」『小説の自由』
(中央公論新社2010年)P.11、12

あくまで小説がベースだけれども、他の本にも同じことが言える。だから僕は読み進めて「嫌いだな」と思った本は何が何でも最後まで読むようにしている。それは「嫌い」で終わらせることは簡単だけれども「どこが嫌いなのか」「なぜ嫌いなのか」を考えることで、自身の傾向を掴むことが出来ると信じているからである。というのは建前で、単純にやいのやいの文句を言いたいから読み込むってだけの話である。僕は人間しっかり出来ていない。ただ、それだけのことである。

こういう態度を卑しいと思うか思わないか、人間的に終わっていると思うかは読者諸氏に委ねるとし、少なくとも僕はそれで読書に於ける精神的安定を図れている。「良いことである」とは決して思わないが、1人で悶々と抱えて精神を病んでしまう可能性があることを考えたならば、それなりにガス抜きみたいなものは必要だろう。しかし、それがただの悪口であったらば面白くない訳だ。如何にコミカルに消化できるか。

僕には到底無理そうな話ではあるのだが…。


さて、話の脱線した感が否めない訳だが、こういう事がやはり「書く」ということの醍醐味なんだよなとも思ってみたりする。「言葉に触発される言葉」という存在を僕は知っている。それは書いているとよく分かる。書きたいこととはどんどんどんどんズレていき、結局何を言いたかったのかよく分からない。僕なんかそんなことばっかりである。

だが物凄く愉しい。

誰が?

僕が。

ということを忘れた文章など詰まらないなと僕は思う。誰かに阿る文章の、言葉のどこが面白いのだろう。僕は常々思うのだけれども、「書く」という行為そのものが孤独な営みなんだなと。それが偶然にもSNSなどの発展によって万人に開かれたものになったのだと思う。別に僕はそれを悪いだなんて思わないし、自分の主義主張を発信できるのはそれなりに良かったんじゃないかなと思う。「何者かで在りたい」と願う人々に「何者かで在れる」場所が皆に平等に開かれているのである。つまりは誰しも名声と言った、自分をより担保できるものが手軽にあるということだ。

僕は別にこういうSNSの場で書いてしまっているけれども、言ってしまえばこれも僕の弱さ所以である。自分だけが愉しければ良いのならば、わざわざSNSに掲載する必要など更々ない。全く以て必要のない物である。と考えてみた時に、「自分は何故SNSに投稿するのだろう」と考えてみた。自分の為とは言いつつも、不特定多数の人々の眼には触れる訳である。僕も心の奥底で「何者かになりたい」という気持ちがあるんだなと…。

だが、それ以上に「他人の言葉を読みたい」というものがある。

「他人の言葉」というもの。まず以て僕はそもそもその表現自体がおかしいと思っている訳だし、「自分の言葉」が無ければ「他人の言葉」なども存在しない。どちらがアプリオリにあったか無かったかというのは重要な問題であるような、無いような…。ただ、少なくとも僕がSNSで投稿するのは所謂「他人の言葉」、種々雑多な「他人の言葉」に触れる場はここしかないと考えている。そして、僕は、言葉などに「自分」も「他人」もなく、ただそこに「言葉」があると考えているのである。

僕等は生まれながら言葉に支配される。赤ちゃんの時でさえも、周囲では皆が日本語を話し、気が付けば赤ちゃんは成長する度に日本語を習得していく。それはある意味で、「他人の言葉」、自分以外の話者が話した日本語、言葉、もっと引きで言えば記号を聞き、「他人の言葉」によって「自分の言葉」が生成されて行く訳だ。そう考えると、「自分の言葉」などというもの「他人の言葉」などというものはあくまで主体の差異でしかない。それは皆が同じ言葉という記号を扱っている点を考えればのことである。

しかしだ、この本では矢鱈に「自分の言葉」の重要性が説かれている。だが、あまりにも多くの場所で書かれているため、ランダムに選んだ箇所を引用する。

まずは、ありきたりな言葉ではなく、自分の言葉を大切にしてください。自分の言葉とは、つまり自分の感情であり、自分の思考の事です。

三宅香帆「他人の言葉に支配されない」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.35

 せっかく感想を言葉にするなら、自分のオリジナルな感情を大切にしましょう!世間や他人の言葉に流されずに、自分だけの言葉を使う訓練をすれば、きっとそれが習慣になります。

三宅香帆「他人の言葉に支配されない」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.35

 人に頼らず、自分の言葉を見つけましょう。誰かに思想を洗脳されないために、そして自分の頭で考え続けるためには、自分の言葉を見つけることが重要です。
「感想を語ること」は、人と自分の言語化を比べやすいので、自分の言葉をつくるトレーニングしやすい場所です。見るものは同じだけど、他人とは感想が違う。その経験を繰り返すことで、自他の境界が見えやすくなり、翻って他人ではなく自分の言葉を見つけられるようになります。

三宅香帆「「人の言語化に頼らない」という意識を持つ」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.72,73

 ただでさえ、他人と自分の価値観を無意識にすり合わせてしまうSNS時代。もちろんすり合わせてもいいんですが、やりすぎると、他人の感情と距離をとれなくなってしまいます。どこかで誰かに洗脳されても気づかなくなってしまう。その危険を避けるために、まずは自分の言葉をつくる必要がある。

三宅香帆「推しについて、孤独に書いてみよう」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.106,107

 まずは自分だけの言葉をつくる。
 そしてその言葉を、他人との会話で取りだせるようにする。それが「自分だけのしゃべり」につながるはずです。

三宅香帆「すぐに言葉が出ない人はメモを残す」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.139

加えて、「他人の言葉には耳を傾けるな」的なことも書いている。これには心底驚いたものだ。世の中のことをほぼ知らぬ僕からすれば、「他人の言葉」に触れることで触発されることが多い。それを「自分と同じ考えをSNSで書いている人が居るから書かない」とか「自分の言葉で書けなくなる」「自分の言葉を守れ!」みたいなことを書いていて僕は「?」だらけだった。良いよな、そんな簡単に考えられて。

 それでは、自分の「好き」を言語化するうえで、一番重要なことを伝えましょう。
 すばり、「他人の感想を見ないこと」です。
 逆に言うと、「好き」を言語化するうえで一番NGなこと—それは、他人の感想を自分の言語化の前に見てしまうことなんです。

 これ、今の時代だからこそ、凄く気をつけたほうがいい!!と私は声を大にして言いたい。自分自身、とっても気をつけています。というか、気をつけていないと、他人の感想が自然と目に入ってしまう。そして、他人の言葉に影響されてしまう。

三宅香帆「まっさきに自分の感想をメモする」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.35

 そうはいっても、私たちは他人の言葉に影響を受けてしまう生き物。他人の言葉をコピーするような仕組みを持って生きている。
 でも、だからこそ、抗うべきです。
 言葉のクセはうつっても、思考は自分だけの部屋を持てるように。自分だけの言葉を手放さないように。

三宅香帆「まっさきに自分の感想をメモする」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.35

先の繰り返しで恐縮だが、「自分の言葉」というものが果たして「他人の言葉」なしに発展するのか。況してや、「言葉」というものの性質上、自分だけの言葉を所持することは可能なのか。例えば、これが日本語をベースにした別の何か分からない言語で書かれていて、「自分しか読めません」であれば全然それは自分で生み出した言葉なのだから(と書きつつ、厳密にはそうではない。だって今僕は「日本語をベースに」と書いたのだから)、それはそれで「自分の言葉」として表現していいはずだ。だが、そうではない。日本語が分かる人には読める。そしたらここに書かれているのは「自分の言葉」とも「他人の言葉」とも言えないのではないか。

「自分の言葉」を作るのに(保持する)のに「他人の言葉」から目を逸らすなんて、それって僕はちゃんちゃらおかしな話だと思う。例え悪口であろうが、誹謗中傷であろうが、その言葉によって自分自身の存在が変化し、そしてそれに伴い言葉が変わっていくものなのではないのか。仮にSNSで自分と同じ気持ち、同じ感想を持った人間が発信していたとしても、その言葉に触発されて、真似て使って、さらに自分の言葉の解像度やボキャブラリーが結果的に増えて豊かになっていくとは考えられないだろうか。

そう言えば、僕は過去に何回も『新記号論』を引き合いに出している訳だが、言葉(というか文字)が僕らが自然を捉える時の要素と同じであるみたいなことを書いていた。ということは、言葉は世界を捉える訳である。何も世界には自分1人だけが存在する訳ではないでしょう。もし、自分が1人だけの世界でって言うならば何も文句はないが、僕らが生まれた途端に世界には自分以外の存在が居ることを知る。そう考えると、「他人の言葉」との接触は引いては広く世界を捉えることに繋がっているのではないか。とこれまた突拍子もないことを。いやはや、失敬失敬。

話は些か脱線するが、一応この筆者は文学評論家と言われる人間だそうだ。僕は筆者の読書経験など知らないが、少なくとも評論家と名乗るからには僕も当然含めた世間一般の人々よりも多くの哲学書やら批評やら評論などに親しんできているはずだ。また、通常の読書、例えば小説や詩やエッセイを読むということ。僕なんか足元にも及ばない。だけれども、ここで筆者自身が書いていることは回り回って「読書なんてしなくても自分の言葉は創れる」みたいな物言いである訳だ。

 でも、感想を書くうえで大切なのは、読解力でも観察力でもありません。
 なにが必要かといえば「妄想力」なのです。
 「妄想力」とはなにか?
 それは、自分の考えを膨らませる能力のことです。

三宅香帆「感想を書くのに、読解力や観察力はいらない」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.44

 たとえば、ライブの感想に「最高!」という言葉しかでてこないという悩みは、ライブの「どこが」最高だったのかを言えたら解消されます。ライブで「この曲が」演奏されたのが嬉しくて、「この歌詞が」あらためて響いて、「この演出が」自分の心を揺さぶった。そんなふうに、最高だった点を細分化さえできれば、じつは語彙力なんてなくても、あなたのオリジナルな感想になり得るのです。

三宅香帆「感動ポイントを「細分化」すべき理由」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.81

それじゃあ、聞くが。あなたはどうやって「自分の言葉」を作って来たんですか?どうやって「妄想力」を培ってきたんですか?と。何も手放しに「自分の言葉」などというものを創造できた訳ではないでしょう。だって、日本語で書いてるし、表現だって皆同じ言葉を使っているではないか。それは「自分で心に秘めた核みたいなもの」をずっとそれだけを大事にしてたら「自分の言葉」が生まれるのか。それだけで「自分の言葉」が生まれるのならば畢竟するに、世の中に本など不要である。そう言いたいのか、もしかして。

 …すると、自分と同じすぎる意見がSNSにアップされている。じゃあもう、私がSNSにわざわざ書き込まなくてもいいんじゃない?と思えてきて、書くのをやめてしまう。そんな経験はないでしょうか?

三宅香帆「SNS発信のコツは「自衛」のみ」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.147

そして前提としての問題設定自体が僕からするとよく分からない。結局これは「語る」「書く」ということとはまた別の話で、一種の「宣伝」の仕方を説いた本であるという印象を受けた。もっと纏めて言うならば「マーケティングの本」だ。書き方も何だか凄く僕は嫌で、どこか「考えなくてもこうすれば面白い文章が書ける、読まれる文章が書ける」というものが目の前に広がっていて、こういう本が売れてしまうことに僕はいつも危機感を覚える。

いつだったかの記録でも書いたが、僕は「自分自身から考えることを奪う本」というのは罪深いなと考えている。それでまだ「その通りにやれば出来る…なんて思わないでください」とかわざとらしく書いているのは…ムカつくけどまだまだまだマシで。そういうことを書かないで「エッヘン、凄いだろ」みたいな書き方をされるのが腹立たしい。そういう本にはうんざりである。

と書いたところで、今あらゆる世代に読まれる本というのは幸か不幸か、そういった類の本ばかりである。別に今更それを嘆いたところで、今すぐ同行なるものではない。それに僕自身「文学の復権を!」なんて仰々しく言える程の人間ではない。そういう気持ちもあって、きっとこういうnoteでチマチマと文学について書いたりしているのかもしれないなと思ってみたりする。まあ、そんなことはさておきだ。いずれにしろ、今の世の中的に文学というものが消滅しつつある。

厳密に言えば、あるけどないみたいな感じ。そうだな…ドラえもんの「石ころぼうし」みたいなものだ。石ころぼうしを被った文学。いや、待てよ。そもそも文学などというものが果たして現存しているのかということも…と書き出したらキリがないので辞めようじゃないか。

ただ、何より解せないのが、何度も書くようだが、「文学評論家」と仮にも名乗る人間が逆説的に文学をどんどん落としていっているということを僕は感じざるを得ない。僕自身、大した人間でないので本当ならばこんなことは書くに値しないかもしれない訳だが、しかし!やはり!許せない!というか、納得がいかない。と騒いだところでどうにかなるものでもない。これが現実である。


僕はこういう書き方指南の本でやっぱり良いなと思えるのは保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』である、先の繰り返しになるが、保坂和志イズム的なものに洗脳されている部分もあるだろうが、しかしこの本の終りは秀逸であると僕には思われて仕方がないのである。

これについては、まあ読んでもらうことにして。このぐらいこの作者にも言ってほしかったものである。というよりも、そういう気概がある方が読んでいて面白い。むしろ、最初あるいは最後にこのように書いていてくれたのならば僕も「おいおい~」ってまだまだにこやかに読めていたかもしれない。それと僕は単純に書き方が「ですよね~」みたいな書き方が終止気持ち悪かった。同意を求める感じの軽さみたいなものが僕には受け付けられなかった。それは前の著書でも全く同じ感想を持った。

何か凄く全体を通してヘイコラヘイコラしている軽さが耐えられない。まだ少し前に読んだ『なぜ働くと本が読めなくなるのか』の方がマシだった。『バズる文章教室』はもはや論外なのだが、それから比べるとまあ幾分かはマイルドかなという感じである。いずれもオススメは全く以てしない。ただ、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』(長い!サブタイトルなんか付けてられない。どれも!)は面白くは無かったが、まだ今までのよりかはイライラせずに読めた(実際イライラはしていたけど)。

あ、それで今書きながら思い出したんだけれども、もう1個めちゃムカつきポイントがあった。どこだったかな…文章の書き方指南みたいなところ。あそこの章の殆どが僕にとっては受け入れがたいというか…もう唖然としてしまった部分があった。これはまあ、賛否両論あるだろうけれども適宜使い分けることが大切だと思うのだけれども、っていうような断わり文句の1つや2つ欲しいものだなと思った。

 文章のゴールとはなにか。それは、

①想定した読者に
②伝えたいことが伝わること

 どんな文章もこれがゴールです。
 文章とは、なにかを伝えたいから書くもの。伝えたい読み手に対して、伝えたいことが伝わること。それが文章のゴールなのです。

 小説みたいな創作物ですら、同じです。ゴールとして伝えたいことは、言語化された明確なメッセージじゃないかもしれませんが、ふわっとした「こういう雰囲気」とか「こういう読後感」みたいなゴールは必ずあります。それが読み手に伝わらなかったら、意味がない。

三宅香帆「書き始める前にやるべきこと2つ」
『「好き」を言語化する技術』
(ディスカヴァー・トゥウェンティワン 2024年)P.165,166

まあ、これは中々大きく出たなって思う。どの小説も最終的に言いたいことは絞っているって、それってあなたの感想ですよねと言いたくなってしまう。何を以てそれを言えるのだろうかと僕は不思議に感じる。例えば、谷崎潤一郎なんかは『陰翳礼讚』で「夏目漱石の『吾輩は猫である』は厠でおしっこしてる時に思いついた」みたいなことを平然と書いている訳だ。確かこんなような感じだった。大概こんなようなものなのではないか。

何かを書く時、それは無論「これを書きたい」と思って書き始める訳だが結局書く言葉に任せて書く訳で、何処にどう向かうかなんていうのは自分自身でも分からない。実際僕はそれを感じる。と偉そうに気取ってしまうのは良くないが肌感として持っている。それをただ「既にゴールを決めて書いている」など思い上がりも甚だしくはないだろうかと僕には思えてしまう。ニーチェやらバルトを読んだことがあるのだろうか。

 すでに示唆しようとつとめてきたように、この授業は、自己の権力という宿命にとらえられた言説を対象とするのであるから、実際問題として授業の方法は、そうした権力の裏をかき、権力をはぐらかすか、あるいは少なくともそれを弱めるための手段に関係する以外ありえない。そして私は、書いたり教えたりしながら、次第に確信するようになったのだが、このはぐらかしの方法の基本的操作はといえば、書くときは断章化であり、語る時は脱線、または貴重な両義性をもつ語を用いて言うなら、遠足=余談(excursion)である。それゆえ私は、この授業において互いに編みあわされてゆく発言と聴き取りが、母親のまわりで遊ぶ子供の行き来に似たものとなることを望みたい。子供は、母親から遠ざかるかと思うと、つぎには母親のもとにもどって小石や布切れを差し出し、こうして平和な中心のまわりに、ぐるりと遊びの輪を描きだす。その輪の中では、結局のところ、小石や布切れそのものよりも、それが熱意のこもった贈物となる、ということのほうが重要なのである。

ロラン・バルト『文学の記号学』
(みすず書房 1981年)P.52,53

何だかもうほとほとこの部分で嫌気がさしてきてしまって、読む気力すら失せてしまった訳だ。というか冷静に考えて、こういう本が売れることでSNSで愉しく読んでいる記事の書き方が画一化されてしまう事態が起こりかねないということである。結局、「自分の言葉」というものの成立過程などが一切語られない訳で、ただ漠然と自分の感情と思考を大切にってそんなの分かり切っている。要はそこを「どう表現するか」という技術が知りたいのだ。

そういえば最近、谷川俊太郎について書いた。

やはり、文章云々の前に僕等は言葉との関りみたいなものをもっと真摯に考えるべきではないのか。「自分の言葉」「自分だけの言葉」と筆者はひっきりなしに繰り返す訳だが、そもそも「言葉」って何なのという部分から考え直した方が良いのではないかと僕には思えて仕方がない。言葉そのものから離れた技術など諸刃の剣、いや、それ以下である。少なくとも僕はそう思う。谷川俊太郎が居なくなったことが本当に惜しまれる。


もう書きたくないのでここまでにしよう。

よしなに。

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