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雑感記録(374)
【それでも、けんめいに…】
冬と言う季節は好きだ。これは以前も書いたが、どこか「ここに在ること」ということが眼前に嬉々としてやって来るからだ。しかし、それは紙一重である。何かが生起しているということ、在るということはその裏には底知れぬ暗いジメジメしたものもあるのだと思う。冬という季節はそういったことも露見させる。いい塩梅とでも言えば良いのか、そのバランス感覚が揺さぶられやすい季節でもある。だが、それでも冬という季節は好きである。
今日も天気が良かったので散歩をすることにした。
自宅を出て空を見上げる。雲1つない空。何だかありきたりな表現だが、全てを見透かされているような気がした。空と言うのは僕にとって時たま畏怖の対象として現れることがある。僕は「空」と言うものに対して何故か「死」というものを連想してしまう。これは小さな頃からの文化的刷込みなのかなと思ってみたりする。人は死ぬと「天国」へ行く。そんなことは物心つく頃には何となく、理由も考えず了解事項としてある。
字面からも「天」とある訳で、この文字は「空」とは違うけれども、「空」よりも遠い、遙か向こうの「空」という感覚が僕にはある。「空」の見えない深淵みたいな印象である。人は死ぬと「天国」へ行くというが、果たして本当にそうなのか。僕はここ最近違うと思っている。最近と言っても、もう1年も前になる訳だが祖父の死に直面してそれを感じた。今思えば、この歳になってより複雑に物事を考えたいお年頃から来るものなのだろう。
状況をしっかり把握できる程の理性を持ち得てしまうというのは中々悩ましいことである。そこに生起していること、そこに在ることに対して理由を常に探してしまう。あたかも「因果関係」が在るように取って付けたものをこじつける。僕の中で「死」という言葉から連想されること、自分が眼にしてきたことというのは「墓」「地面」「自然」である。「天国」へ行く、行かねばならないのに「地」に埋める。「天国」とはまるで真逆である。天と地。その空間には何か大きな隔たりがある。
「死」とは僕の感覚として、「自然」に還ることだと思う。この「還る」という字の通り「還元される」ということである。僕等は地面に足を付けて生きている。あらゆる(というと語弊があるかもしれないが)ものは地面に接して立つ。厭らしい高層ビル群も然り、あらゆる建物、乗り物、植物、動物、そして人間。地に足付け生きている。「空」に足付け生きている訳ではない。生命の在るべき場所に還る。再び「自然」として皆の元へ還元されるというのが現状の僕の「死」に対する感覚である。
だが、「空」は無限の広がりを持つ。言ってしまえば僕等を包括するような存在である。こんな僕の考えすらも無力化するような、明け透けにされている感覚になる。きっと「空」には僕等のあらゆる存在を空虚化する力が在るのだと思う。どれだけ何かを考えて心に留めておいても、全て無力化され太陽の光で射貫かれる。きっとそういう意味で、僕は「空」に対して「死」「無」ということを連想してしまうのだろう。
そんなことを考えながら池袋に向かって歩いて行く。
今日はジュンク堂へ池袋に向かった。
先日たまたまTwitterを覗いていたら、タイムラインに「ソフィ・カル」という文字が僕の眼に入って来た。僕はその言葉を眼にした瞬間、何だか懐かしさ、原初的なものを思い出したからである。
あれは何年前だったか。大学生の時分であるということは覚えていたのだが、具体的な日付やら何やらは思い出せない。だがこの「限局性激痛」という文字列には心当たりがある。大学の友人と一緒に原美術館に赴き、同名の展示を見に行った。あの展示の衝撃というのは未だに忘れられない。数々に並ぶ写真に紡ぎ出される言葉に心打たれた記憶。言葉というものの存在感も然り、それに劣らない写真の触発。あの感覚が心の底から湧き出てくる。
僕は元々文学畑の出身なので、あまり美術に興味関心が無かった。大学生当時の僕にとって美術というとまず真っ先に「絵画」が連想され、そこに文字情報などというものは介在しないと考えていた。どこか自分の中で明確な区分けがされていて、「言語芸術=文学」という何故か確固たる確信みたいなものがあった。絵画や写真やインスタレーションなどに言葉は不要だと思っていた。今思えば相当な思い上がりな訳だが。
だが、実際にソフィ・カルの展示を見た時に写真と共に言葉が添えられていた。それはキャプションではなく、言葉も1つの作品として「渾然として一」で存在していた。その時の衝撃はまだ心の中に存在していて、言葉だけで成り立つ文学というものだけに凝り固まって見るのは良くないということをいつも思い出させてくれる。そして、このソフィ・カルの展示を見に行ってから僕の美術館巡りという第2の趣味が生まれたのである。
この『限局性激痛』はソフィ・カルの日本滞在の話でもあり、同時に愛する人との別れが写真と共に語られる。その出来事から自分自身を解放するための一連の作品群である。日を追うごとに文量が徐々に減少して行く。写真では定点的なものでしか表現できないが、言葉によってその時間性が表現される。写真が時間を持つ。生き物として僕等に訴えかけてくる。僕は初めて作品が向こうからやって来る瞬間というものを知った。
この『限局性激痛』がこの度、書籍化されるとのことでこれは買わねばなるまいと思った。僕の芸術的感性の原点である『限局性激痛』。大好きな作品の1つである。ここに綴られる言葉の数々はどこか「生」と「死」の狭間に在る。この季節に発刊されるということの意味みたいなものを僕は無理矢理こじつけながら期待感を膨らませジュンク堂に向かって行く。
ジュンク堂に着き、真っ先に9階のフロアに向かう。
ソフィ・カルの本を探したのだが見当たらない。フロアを縦横無尽に歩き回るが見当たらない。こういう時、中々もどかしいなと思う訳だけれども、遠回りも人生のうちである。書店の、特にこういう大型書店の良いところは本を探すための遠回りが既にデフォルトで設定されていることである。そういったことが全面的に肯定されている場所である。
人間は「死」に向かって生きる。それが例え「そうではない」という意識を持っていた所で、帰結する部分としては「死」という終着地点である。だが、そこに向かって線的に進んで行くということはあり得るのだろうか。よく僕等は人生の流れみたいなものを数直線上で表すことがある。左側からの「→」。だが、冷静に考えて僕等の生は果たして直線的に表現することが出来るのかというように僕は常々疑問を抱いている。
少し話は脱線するが、銀行員時代の話である。
銀行員は何もお金を貸すことや窓口業務だけが仕事ではない。最近では投資信託やら保険なども販売する。僕も実際、投資信託や保険の販売をしたことがある。その際に「老後の資金」という観点で若い方に説明する時に使用するパンフレットでは常に「→」の流れに沿ってライフイベントが掲載されていたり、そこに必要な資金がどれぐらいかということが掲載されている。だが、僕は説明する際にいつも違和感を持っていた。
僕等の一生は果たしてその数直線上に綺麗に整理されることなど出来るのだろうか。その都度都度で予想外のイベントが発生する。数直線上からはみ出したものが存在するのではないか。そう考えていた。だから毎回お客さんに説明する時に、一応は「まあ、人生って大体こんな感じで行くじゃないですか」と説明していた訳だが、納得いかない部分がいつも心のしこりとして存在していた。
直線で表される「生」は「死」でしかない。結局その矢印は直線でもなく、半直線でもなく線分である。始まりがあり終りがある。ここにただ乗って生きる事も勿論それはそれで愉しいのかもしれないだろう。だけれども、「俺の生はそんなもんじゃない。そんな線分で表しきれるものじゃない。」という気概を持ってほしいものだと思う。なぜ遠回りさせてくれないのだろうか。「平均的」人生などというものは唾棄すべきだ。
遠回りすることの意義ということについては、この【これまでの総括と定点観測】の中で書いた「1.ニーチェと僕」という箇所を読んで頂くのがいいかもしれない。これは言ってしまえば「死」というものが中心点として措定されているというように置き換えて考えて貰えると分かりやすいのかもしれない。いずれにしろ、遠回りが許されない社会に僕は疑義を持っており、それが許される書店はある種の救いの場所である。書店が時代の流れと共に消えている。それは阻止せねばなるまいと僕は心ひそかにヒシヒシと感じている。
はてさて。それで歩きに歩き回って様々な本を見て回ったのだが、見当たらない。置いてあるらしき本棚の所に来て見ていたら、棚の横に小さなポップが貼ってあった。「ソフィ・カルの『限局性激痛』が欲しい方は9階フロアの書店員に声をお掛けください」とある。僕はすぐさま書店員の方に話しかけ本を持って来てもらった。僕はその本を携えレジに向かおうと思ったが、他のフロアも見ることにした。
といっても大概僕が見るコーナーなどたかが知れている。哲学か文芸である。しかし、この間の古本まつりで哲学系で欲しい本はあらかた見ているので、今回は文芸を中心にみて回ることにした。そして数冊見繕いレジに向かいジュンク堂書店を後にした。
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ジュンク堂を出て再び歩き始める。
一歩外に出ると大勢の人が歩道を歩いている。種々雑多。様々な様子をした人が縦横無尽に歩く。しかし、その大半が手元のスマホあるいはiPhoneに集中し前を向いていない。下を向き、そこに広がる世界に集中している。信号待ち。僕のとなりに立った若者は手元のデバイスで動画を見ている。青信号になったにも関わらずそこに留まり続ける。僕は辟易とする。
別に僕の見知らぬ人間が外で何をしようが全く以て関係ない。それは各々の自由なのだから僕が何も言う権利はない。しかし、どう考えても他の歩行者の迷惑になることは事実である。若干の腹立たしさと辟易を抱えながら僕は流れて来る音楽に耳を傾けながら鬼子母神に向かって周囲を見渡しながら歩いて行く。ビルの間から差し込む陽の光。雲1つない青空。またもや、僕は見透かされ「無」へと昇華されていく。
この怒りにも似た感情は全て明け透けにされ、「無」へと行く。だけれども、忘れたくない感情もある。清廉潔白を求められる苦しさ。「空」は僕が僕であることを忘却の彼方へ連れ去る。僕という存在の確かさは消えてなくなる。今歩いているのは僕なのか。果たして今僕という僕は存在しているのか。そんなことを考えてしまう。
おだやかに
追い求めると
楽しみには哀しみしか残らない
甘えると
苦しみはいつまでもうずく
失うもののないこころには
喜びが流れこんでくる
怒りが閉ざす
こころを閉ざす
うぬぼれがしばる
こころをしばる
おだやかにあれ こころよ
のびやかに しなやかに はれやかに
『すこやかに おだやかに しなやかに』
(佼成出版社 2006年)P.38,39
僕は世界を愛したい。だけれども僕は世界に見放されているような気がしている。この広がる「自然」を目の前にして僕という存在は消えかかる。雲散霧消。だが、冷静に考えて。世界はたかだかたった1人の「僕」という存在の為に在るのではない。それは皆共通しているのではないだろうか。だからこそ、芸術家と呼ばれる人たちは自分たちの世界を構築するのだ。それが写真でも文学でも絵画でも。あらゆる方法で世界を捉え、自分なりの世界を構築していくのだろう。
歩くたびに「空」は僕に迫って来る。しかし僕だけに何も迫って来る訳ではない。今こうして僕の前を歩く人や後ろを歩く人、横を歩く人にも同じであるのだと思う。それをどう捉えるかの問題であるはずだ。僕は「空」に対してやはり畏怖の念を拭いきれない。そう考えてみると、やはり「地」に還るということは理にかなっている、人間の本能なのかもしれないと僕は勝手に想像する。
自宅付近の坂を上って行く。
「空」はどんどん迫り、太陽は爛爛と輝いている。僕はその美しさの前にただ手をこまねいているちっぽけな存在である。僕は何処へ向かって歩いているのだろう。僕は今どこに居るのだろう。様々に揺れ動く季節である。
「おだやかにあれ こころよ」
よしなに。