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雑感記録(104)

【言葉の浪費】


僕が元々使用していた部屋。今では僕の文庫本保管場所であり、荷物置き場となっている。南側。梅雨の間の晴れ間。日光が当たり眩しい。面接まであと30分ある。パソコンを開き時間を潰す。ZOOMの準備をし、YouTubeを開く。動画を丸々1本見る気力はないから音楽を聞く。

友人の曲を聞く。僕は友人の歌う曲では実はこれが1番好きだ。過去にこれについては記録した。しかし、何度聞いても良い曲だ。とこういう風に僕が書いてしまうことで、もしこの曲が本来持っている良さを陳腐なものへとしてしまうのではないかと実は気が気でない。好きなものは好きなのだからしょうがない。僕は黙っているより語りたくなってしまう。そういう質の人間である。

そういえば、ついこの間この友人から唐突にLINEが来た。彼からのLINEはいつも唐突だ。しかし、この唐突さが僕は何だかいつも堪らなく心地が良い。不思議な感覚だといつも思う。多分、トークの内容による所が大きいのかもしれないが、考えられることとしてはやはりそこに「懐かしさ」を感じるからなのかもしれない。

そこで彼から「保坂和志が書いた古井由吉への追悼文が滅茶苦茶いいから読んでみ!」とURLコードが届く。実際に読んでみて確かに凄く良かった。元々、保坂和志と古井由吉が2人揃って好きであるということもあるが、それを抜きにしても非常に良い文章だった。それで感想をお互いにちょこちょこ話た。

その時に彼が「保坂和志の本の中では古井由吉について語られることがないけど、古井由吉の作品を凄く読んでるのがよく分かるな。」と言った。それに対して僕はこう答えた。「敢えて積極的に語らないで、「ここぞ!」っていう時にバンッ!と語れるのは凄いし、よりそのものに対する愛を感じるよね。」と。

これを送ったあと、この文章は友人へ送ったが実は同時に僕に向けられた言葉でもあるとヒシヒシと感じた。僕はそもそもこのnoteを記録しているのは好きなことを好きなだけ語りたいから付けている。ただ、やはり僕は語りすぎなのかもしれないと思うことがある。


Speech is silver, silence is golden.

言葉を費やすことが全てではない。何か好きなことに対して熱く語ることも勿論良いことだと思う。その存在に対して自身の持ち得る言語を総動員して頭をフル回転させて捉えようとする行為。これも対象物に対する愛だ。

しかし、言葉を使用していると薄々感じてくることなのだが、自分の言語が枯渇する状態とでも言うのだろうか、そういった状態になることがしばしばある。僕もこうして記録を付けていて自分に苛立ってしまうこと、虚しくなってしまうことがしばしばある。

何と言えばいいのか難しいのだが、自分の言語が枯渇しているのにも関わらず言葉を捻りだそうとあくせくしている。その結果、それがよりよい方向に進んで行けばいいのだが、大体纏まりが付かずに終わる。しかも、書きたいことの60%しか書けず、残りの40%はどこか消化不良感で終えることもしばしばだ。

言語に縛られている。そして言語は言語自身によって浪費されるように仕組まれている。言葉が言葉を誘発し、あらぬ方向へ向かって動いていく。無論、それが本来の姿であり良いことだと思う。しかし、僕の場合においてはだが地を這うような、ジメジメした底をただ這っていく感じでしか書けていない。言語によって僕は苦しめられる。

もう1度ユゴーの詩を載せておく。

〔Mes vers fuiraient…〕

Mes vers fuiraient, doux et freles,
Vers vorte jardin si beau,
Si mes vers avaient des ailes,
Des ailes comme l'oiseau.

Ils voleraient, etincelles,
Vers votre foyer qui rit,
Si mes vers avaient des ailes,
Des ailes comme l'esprit.

Pres de vous, purs et fideles,
Ils accourraient nuit et jour,
Si mes vers avaient des ailes,
Des ailes comme l'amour. 

Vitor Hugo「Mes vers fuiraient…」
安藤元雄訳『フランス名詩選』
(岩波文庫 1998年)P.80~83

もしも、僕が書く文章に翼があり空間を羽ばたけるほどの力を持っていたら。僕は本当にそう思う。もしも僕が言葉を無駄な浪費することなしに、その対象物を語れることが出来たら。きっと、その奥底にある魅力を表現することが出来るはずだ。


とはいえ、翼のある文章を書くにはこういった地を這うよな言語の経験も必要であると思う。地を這っている文章を書き続けているからこそ空に憧れるのは必然の帰結だ。

言葉を尽くすことは決して悪いことではない。対象物をより対象物たらしめるためには必要なことでもある。しかし、そればかりに固執してしまうといつか段々と対象物が確固たるものとして存在してしまう。何の不安もなくそこに現出されてしまう。それはそれで面白くないし、そのもの良さがあからさま過ぎて退屈してしまう。

この世にある存在は僕個人的には全てが安定しているものなど存在しないと思っている。簡単に言えば「これはこういうもんだ」というものは表面上あるにしても、その内実は何か1点の綻びがあれば崩壊してしまうものだと。その不安定さを感じることこそが愉しみというものではないだろうか。そしてそれが対象物の良さなのではないだろうか。

言葉で何でも表現できると考えているのは我々人間の傲慢だ。僕はnoteを続けてみて、100本ぐらいの記録を残すようになって気が付いたことだ。無論、保坂和志の影響もあるのだけれども、実際に自分で書いてみて分かることもある。

あるいはまた、宇宙なり、自然なり、世界なりは、言語に先立つ。それらは言語に先立つのだから、言語によってすべてが記述可能であるという根拠は、言語の側にはいない。人間もまた言語に先立つ。人間の思考は言語によって人間らしく完成されるけど、人間は絶えず言語化しきれないものを知覚している。雲の形も風に揺れる木の形も厳密にはどれ一つとして同じものはなく、それらの一つ一つを人間は言語によって再現することはできない。しかし知覚することはできている。すべてを知覚しているのではないにしても、少なくとも言語によって再現できる範囲以上には知覚できている。(中略)私はただ「言語によって再現できる以上に知覚できないと信じているあなたは貧しい人だ。あなたはあなた自身が持っている言語観を神経症的に守るために、自分が知覚しているものに対して知らないふりをしている」としか言うことができないけれど、そんな人と関わっている時間があったら、私には雲の形を見ている方がなにがしか利益があるだろう。少なくともその時間だけ私は、言語がすべてを記述できるという思い込みが誤りであることを確認することができるからだ。
「リアリティ」とはそのような言語と世界との関係を知る人間の内面のプロセスに起源をもつはずだ。

保坂和志「「リアリティ」とそれに先立つもの」『世界を肯定する哲学』
(ちくま学芸新書2001年)P.98~99

何かを言語化することも重要だけれども、言語化することができないことを噛みしめることも重要であるように思う。心の奥底に僕だけが感じている何か。これは大切にしたいと思う。


曲を何曲か流して、時間が来たので面接に臨む。正直、この会社は転職エージェントが僕の意向とは関係なしに選んだ会社なので行く気はさらさらない。僕はこのエージェントに嫌な思いしか抱いていない。この面接も乗り気ではないが、断ることも出来ないので受ける。

本当にこの転職エージェントはとてもいい加減だ。面接の前日、つまり昨日の夜22:30ぐらいにメールをよこし、会社の概要やら面接のポイントやら、終いには「これは答えられるようにしておいてください」と項目が何十個…。面接前日に送ってくる馬鹿が何処にいるのか。しかも面接は午前中。アホか。徹夜しろと?

しかも、このメールがあまりにも長い。というか切り貼りしたような文章であることは一瞬にして分かった。文末が「た」とか「でした」とか何だかしっちゃかめっちゃかだし、そいつの言葉ではなく機械的な言葉がズラリと羅列している。正直、これだったら前もってメールできたろ!というようなものであった。(何なら書類選考通ったの2週間も前で、その時に送って来いよ!という話なんだが…まあ今更だけど)

僕はこのエージェントに腹が立ちすぎて、面接を終え電話した。溢れんばかりの言葉が僕の頭の中をぐるぐる駆け巡り、自分が何を言ったのかも覚えていないくらいだ。僕は言葉をただ浪費した。それも無意味に。

僕は基本イライラしたり、腹が立ったりすると黙り込んでしまうタイプの人間だ。その代り顔にめちゃくちゃ出るのだが…。何よりもそういう人たちに対しては「なんて言えば伝わるか」あるいは「どう言えば傷つかずに伝えられるか」「こっちにも悪いところがあったはずだ、どこだろう…」と言葉を厳選し適格に伝えたいからこそ黙る。しっかりと伝えたいことは伝えたいからだ。

しかし、このエージェントの場合はそんな事すら考えることなく頭に駆け巡る言葉がただ只管に口から出て行った。そのくらいには腹が立っていたということなのだろう。ただただ無駄な時間と同時に、こんな奴に言葉なんぞ選ぶ方が勿体ないと思ってしまったのだろう。だから何を言ったか記憶にない。覚えているのは電話越しにただ「すみません」とぶっきらぼうに言われた音だけだ。


言葉の浪費と僕は題した訳だが、総じて言いたいことは先にも書いた通りこれに尽きる。

Speech is silver, silence is golden.

ただ僕が今出来ることは地を這うような文章を書き続けながらも、空に対する憧れを捨てずに、そういった文章にもチャレンジすることだと思う。故に雑感記録(101)と(102)に関しては散文めいた形になってしまった訳だ。(個人的に。どう思われたかは知らんが。)

色々と試行錯誤しながら翼を持った文章を書いてみたい。

よしなに。







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