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雑感記録(343)

【過去に浸り現在を生き未来を想う】


最近僕の大学時代の友人がnoteを始めた。元々僕は彼の書く文章が好きで、はてなブログから読んでいた1ファンとしては喜ばしい限りである。僕の主要なSNSのプラットフォームはnoteとInstagramなので、自分自身が主に利用しているSNSで彼の文章が読めることは喜ばしい限りである。ぜひ読んで欲しいものである。

彼の文章を読むと僕はいつも濃密な大学時代のことを思い出す。文章を読んで過去に戻れることは自分にとっては大変素晴らしい時間である。言葉に触発されて僕は旅をすることが出来る。無論、小説や映画やアニメやそう言ったものに触れて自分自身の経験と混ざり合いながらタイムスリップすることはある。しかし、それはどこか自分の肌から離れた部分での思い出すことばかりで、美化された思い出ばかりが流れて来る。

彼の文章を読むとき、良い意味でその当時の酸いも甘いも全てが僕の元に押寄せてくるのである。広大な僕の思考の海に波がやって来る。そんなイメジである。さざ波から津波まで、様々な形を以てして僕に押寄せてくるのである。僕の思考は過去のそういった波によってグルグルと掻き乱され、そして飲み込まれ海の底へと向かって沈んでいく。だが、不思議と居心地の良さを感じている。


僕は「温故知新」という言葉が好きだ。

世の中の出来事を見ていると、過去の反復みたいなことが時たま起きる訳である。例えば今では収束している訳だが、「タピオカブーム」なんていうのがそれである。2018年頃から始まった「タピオカブーム」というのは調べたところによると第3次らしいのである。僕からするとこの第3次が1番印象に残っている訳だが、ここで第3次と言うので、当然第2次や第1次があったということである。しかし、僕は第1次、第2次を知らない。事象としては過去から既にあった訳で、殊更「今タピオカブームが来ているんだ」と騒ぐ必要はなく、実は連綿とそして細々とタピオカブームは身を潜めていたに過ぎない。

あるいはファッションだってそうかもしれない。僕はファッションに疎いので詳しいことはよく分からないが、過去に流行っていたものが現在になって再び着られるようになるということは実際にあることである。よく「過去は繰返される」と言うが、特にそれは大きな物語として語られることが多い。しかし、個人のレヴェルでもそういうことが起きないとは言えないのではないだろうかと思えて仕方がない。

過去から学ぶことは多くある。僕等はそもそも過去の集積体みたいなものである。特に思考の海と言うのは正しくそれである。そう言えば、この間『ラーゲリより愛を込めて』を見たのだが、そこで二宮和也が演じた主人公の山本が「頭の中で考えたことは誰にも奪えない」というようなことを言っていた訳だが、あの言葉が思い出される。

『ラーゲリより愛を込めて』(2022年)

これは経験も含めてそうではないだろうか。つまり「自分が経験したことは誰にも奪えない」ということだ。人間が何かを思考するということは、自分の身にあったことや触発された何かがあってこそ初めて出来ることなのではないだろうか。その経験あるいは事物から考えたことの集積が現在の自分自身を存在させているはずなのだ。

思考は過去の集積である。そして、それを現在に於いて様々な出来事、例えば本を読んだり、映画を観たり、美術作品に触れたり。あるいは誰かと一緒に過ごしたり、対話を重ねたりする中で随時更新が図られる。過去の集積としての思考の海が深度を増したり、広大さを増していくのである。言ってしまえば、現在は既に過去である。過去は現在と不可分であるのではないだろうか。現在を生きるというその時点でそれは過去になる。

そう考えると「過去≒現在」であると言えるのではないだろうか。僕はここでベルグソンやドゥルーズを引き合いに出して語るつもりなど更々ないが、こういう時間と思考の感覚と言うのは何となくだが感じている。今こうして書いている訳だが、それは書かれた途端に過去として存在する。もしかしたら現在というのはその一刹那であって、現在の集積が過去なのかもしれない。

いずれにしろ、過去を考えるということは同時に現在を考えるという突飛なことを僕は考えているのである。まあ、あまりに強引な話ではある訳なのだが…。


最近僕は先々の事を考えるようになった。

これから先、何が起こるか分からないけれども、これをしたい、あれをしたいと想いを馳せる時間が増えたように思う。だが、いくら想いを馳せたところでそれが明確に眼前に現れる訳では決してない。それは過去や現在の集積としての想像でしかあり得ない。例えばだ、「未来を想像してみろ」といきなり言われた時、どのように先々を想像するだろうか。

僕は何もなしに想像することは出来ない。やはりそこには過去の経験から育み続けてきた海から想像し、創造することしか出来ない。自分がどうしたいとかこうなりたいというのはすぐに思い浮かべられるものではない。これから起こることをそう言ったものなしに想像し、創造出来るのであればそれは面白くないのではないだろうか。

昨今ではAIの台頭が華々しく、あらゆる物事がデータ化され未来予測が出来てしまえるようになっている。勿論、それはそれで良いことなのかもしれない。これから先に起こる災害とかの予測が出来ればそれに越したことは無いだろう。しかし、先にこれから起こるであろうことを機械に決められるのは人間的に何だか嫌だなと思ってしまう自分も存在していることは事実だ。

未来が完璧に予測出来る世の中になったならば、いよいよ僕等の想像力や変化する能力などが堕ちていく一方ではないだろうか。それに機械も結局、未来の予測をするのに過去の集積、ビッグデータなるものから予測することしか出来ない。だが、そこで予測される未来に果たして僕は存在しているのだろうか。これら問題については『訂正可能性の哲学』を読んでもらうといいかもしれない。

何度も書くようだが、未来を想像し、創造する為には過去と現在の集積から考えることしか出来ない。これをAIなどに任せることは出来ない。それは僕という固有名が消失したうえで予測されるからである。そこに僕は存在しない。未来を考えることは如何にその過去と現在を大切に出来るかが肝心なのではないだろうか。今ここまで書いていてそんなことをふと感じる。

綺麗ごとを書いていることは十分承知している訳だが、どれだけ辛いことや苦しいことがあってもそれが今の自分自身の思考の海を形成しているのである。その思考の海の様相は人それぞれである訳だが、そう言った過去の集積が構成し、現在が常にそれを更新し、そうして未来を考える。海は広い。どこまで行っても広い。箱庭に存在している訳ではないのだ。

しばしば、過去に囚われていることで前に進めないということが悪の様な書き方がドラマやなんかでは散見される。過去に固執するというのだろうか。それは良くないということが言われる。だが、本当に過去に固執することが悪いことなのだろうか。そして「過去を乗り越える」という表現が美化された物言いになっている訳だが、僕はそれが嫌いだ。

「過去を沈める」。僕はこの表現が適切なのではないかと考えている。自分自身の中に沈めること。思考の海の底に沈めること。何故、乗り越えようとするのだろうか。乗り越えてしまったら開かれる未来も閉じられるような気がするのは果たして僕だけだろうか。人間だから過去の出来事がふとした瞬間に思い出されることは往々にしてある訳だ。乗り越えてしまったら未来は開かれず、ただ忘却の彼方に行き、思考の海は腐って行くのではないだろうか。


僕がnoteで頻繁に過去の事を書くのは、未来を想像し、創造する為である。過去に囚われていると言われても仕方がないとは思うが、しかし乗り越えた人よりは思考の海は広いと思っている。ふとした瞬間に海の底から浮かび上がってくるその過去から広がることは沢山ある訳だ。

現に僕は大学の友人のnoteを読んで、そう言った沈んでいた過去が再び浮き上がり、それを現在と照らし更新し、そして未来を想像し、創造しようとしている。僕のnoteはそういう場でもある。「お前は過去に固執している」と言われても僕は構わない。むしろ、固執していない人に比べて僕は都度都度、思考の海を広げているのだ。

時間の迷路

 時間は
 ちぎれて歪んだ方形の連続であり
 また散乱する球形や円錐形の断片であり
 あるいは菫色をおびた白であり
 建物の翳をやどすねずみであり
 そうしたさまざまの空間がかたちづくる
 ある秩序に似ている。
 その秩序は
 じつは黒の微妙に変りゆく濃淡であり
 その濃淡に心がざわめき
 ざわめく心が見遣っているものは
 さまざまの空間の隙間から
 逃げ去ってゆく幻
 その幻が闇にみちびく迷路である。
 ああ
 その迷路の一隅に
 咲いていたはずの菫がひからび
 噴水も銹びついてもう久しい。
 街では僧侶がわめきちらしているが
 さっきまで走りまわっていたねずみたちの
 死骸が屋根裏にかくされていることは
 誰も知らない。
 あの光るものは
 火葬場で拾い忘れた
 死者の歯の金冠でもあろうかと
 死者を嘆いて
 途方にくれているとき
 私もまた
 時間の迷路の点景のひとつ
 黒の濃淡にまぎれゆく生物であることを
 知ることとなる。

中村稔「時間の迷路」『中村稔詩集1944-1986』
(青土社 1988年)P.226~228

海には様々な時間が込められ、そしてそれは様々に交錯し時間の迷路と化す。僕等は「時間の迷路の点景のひとつ」である。僕等はその思考の海に繰り出し、過去や現在を旅する。迷ったって良いじゃない。迷うからこそ沈んだ過去が微かに水面にちらりちらりと見え隠れすることを捉えることが出来る。そうして見果てぬ水平線に向かって船を漕ぐ。どんな未来が待ち構えているか分からない。

ただ、少なくとも思考の海、時間の迷路を彷徨して過去や現在を大切にするからこそ開かれる未来もある。そんなことをふと考えてしまったのである。人は今を生きようとする。勿論それはそうだ。僕等は今この瞬間を生きているのだから。しかし、その背後には僕等を支える過去の集積、思考の海、時間の迷路が存在する。それを蔑ろにして果たして僕等は進んで行けるのだろうか。

そして自分の中にしか存在し得ないものをAIや機械によって集積され、勝手に未来予測をされてなど堪ったものではない。そういうことをここ数日考えてしまっている。自分の中でもまだ固まり切っていない、まだドロドロとした状態でこれを記している。正直、自分でも何が何やらと言う感じである訳だが、これもこうして書き残すことで、いつか見返した時に1つの海を構成する栄養素として、思考の海を広大にする為に役に立つかもしれない。そんな期待を込めてこれを記す。

よしなに。

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