雑感記録(281)
【風の歌を聞く】
今日も早起きしてしまった。
朝5:00ぐらいに目が覚めてしまい、時間を持て余した。とりあえず歯を磨き、ルーチン化している服薬を済ます。カーテンを開け、窓を開ける。今日もいい天気だと心の中で思いながらタバコを1本吸った。タバコを吸うと内臓が動き、便意が催される。1本吸い終えトイレに向かい、ただ無音の中で集中して座り込んだ。
今日は先日の記録でも少し書いたのだが、水回りの掃除をしようと決めていた。トイレを済ませ、その流れでトイレ掃除をした。僕はトイレ掃除が好きである。これは変態的な趣味から来るものではなく、純粋に便器が綺麗にピカピカになるのが自身の中で爽快なだけである。掃除の良いところは自身が一所懸命にした場所が目に見えて「綺麗になった」という事実が可視化されることにある訳である。とりわけ、水回りは特にそれが顕著になる。その中でも更に1番やりやすいのがトイレ掃除である。
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、西洋のトイレ、詰まるところ我々が現在使用している所の便器を挙げて「これはいかん」という訳だ。日本の古来の厠が美しいと突飛なことを言う。さらには夏目漱石は恐らく厠で良い小説を考えていたに違いないと馬鹿なことを言い始める。「陰がある方が美しい」というのはどことなく分からないでもないが、しかしそれを厠に求める辺りはやはりおかしい。
申し訳ないが、僕は西洋の便器の方が好きだ。それは先に挙げた理由でもある。陰ばかりあると、自分が綺麗にしたかどうかが分からない。人間、中々自分が努力した結果が見えないと苦しくなる。結果が全てではないとは思うが、それが少しぐらいは可視化されないというのは辛い。別に評価なんかされたい訳ではなくて、自分で満足するだけなのだから良いのだろうけれども…。そんなこんなでトイレ掃除を黙々とした。
その流れで浴槽の掃除もした。僕は湯船に冬以外は浸からないのでさして大変ではなかった。と言うと語弊がある。1人暮らしの部屋なのだから、余裕のある浴室ではない訳で、腰痛持ちの僕からすると中々どうして捗らない。逐一休憩を入れないと腰をビキっとしてしまう。休み休み、上手い姿勢を探り探りしながら浴槽をスポンジで擦る。ただ換気扇の音と僕の吐息と擦る音だけが響く。
シャワーで浴槽を流し、バスタオルで浴槽と自分の脚を拭く。暖かくなってきたとは言え、冷たい水での掃除は辛いものがある。そしてバスタオルを洗濯機に投げ入れ、そのまま着ていたパジャマも入れる。「今日は天気が良いから蒲団シーツとか帽子も洗濯するか」と思い立ち、蒲団からシーツを剥ぎ、枕カバーを剥ぎ、そして帽子を手に持ち投げ入れ洗濯機を回す。
とはいえ、まだ時刻は朝の7:00くらいだ。
とりあえず拭き掃除をして掃除機を掛けた。それにしてもいい天気だなと思い、外を眺めタバコを吸う。天気が良いと家に閉じこもっているのが勿体ない気がする。そういえば、大学の時は「天気が良いから授業をサボる」ということを何度かしたことがあった。だが、あれはよくよく考えてみるとサボってはいなかったんだよなと思われて仕方がない。
サボっても結局、神保町に行って本を買って、カフェに行って本の話や哲学の話をして1日を過ごしたりしたのだから。ある意味であれも授業みたいなものである。というよりも、ああいう時間があったからこそ今の僕が形成されたということは言うまでもない。あの時に戻れたらな…と思っているうちに手元のタバコが揺れる。おっと、もう終わりか。だが次の1本に既に手を出している。
南側。太陽の光が眩しい。眼を細める。そして辟易とする。
やることも大概やってしまったし、あとは本を読むだけだが、時計を見ても7:40ぐらいである。「早起きは三文の徳」と言うが、やることが極端にない人にとっては時間を持て余してしまう。とりあえず、本を読むことにした。積んである本の中から適当に1冊を取る。それで谷川俊太郎の『ことばを中心に』というエッセー集を読み始めた。
目次を見て、漱石の『草枕』マインドで「よし、ここから読もう」と適当なページを開き読み始める。だが、本の書評であった。僕はどうも書評が好きではないらしい。選択のし直しだ。そうして今度は「言葉」という章を読み始める。これがまた面白かった。そうして読み続始めようとすると洗濯機が鳴る。くそ、読み始めようとしてたところなのに…。
洗濯機からしなしなに萎れたものをエイヤっと取り出す。ドラム式洗濯機にすれば良かったなとも思うが、1人暮らしの僕にそんな贅沢など出来る訳もない。それに今日は天気が良いのだ。洗濯物を広げパンパンと音を立てながら上下に振る。この作業が面倒くさい訳だが、シワシワの服を着たくはないので我慢して降り続ける。世の中の母親はやはり偉大だなと思う。
網戸を開け、ハンガーを通した服や蒲団シーツや枕カバーなどを続々と干していく。しかし、洗濯竿も無限に広がっている訳ではない。一部は仕方がなく部屋干しすることにした。いい天気なのにな…と思うが、これは僕の力ではどうすることも出来ない。自分自身だけの力だけでどうにもならないことをクヨクヨしている時間は無駄である。さっさと干して、本の続きを読もう。あ、その前にもう1本…。
時刻は8:00を過ぎたあたり。外から子供の甲高い声が聞こえてくる。
若いってのは良いなあと思いながら、その声に集中してしまう。僕は元々、子どもがあまり好きではない。しかし、友人の子ども遊んだり、姪っ子などが生まれてからどことなく抵抗が無くなったように思う。それまでは本当に騒がしい生き物だったとしか思わなかったけれども、彼らも彼らなりに一生懸命に生きているということを知ると、ある意味で僕等よりも大人なんだなと思うようになった。そう、彼らは僕等よりも実は大人なんだ。
話を聞いていると、これからお友達と野球をしに行くらしかった。
野球か…。僕の幼稚園の頃の夢は野球選手だったらしいが、幼少期の僕。ごめんよ。こんな汚い大人になってしまったよ。それに運動が嫌いな大人になってしまった。あの頃はあんなにアクティヴだったけど、今じゃお家大好き人間だよ。ごめんね。と謝った所で今更どうにかなるものでもない。僕は僕自身に居たたまれなくなり、もう1本タバコを吸う。どこまでもこうして堕ちていくんだろうし、それを望んでいる自分が居る。
何だか子どもの声を聞いたら、外に出たくなった。それに天気も良いし、勿体ない。それで何処へ行こうかと考えあぐね始める。そう言えば、今日サーキュレーターが届くんだった。延長コード欲しいな。よし、買いに行くか!と外出の口述をでっち上げた。
そう言えば、さっきから僕はパンツ一丁だ。服を着て身支度を整える。延長コードを買いに行くなら…そうだな…新宿の……。いや、行きたくないな。秋葉原まで歩いて行くか?それ良いな!よし行き先は決めた。そしてズボンのベルトを探す為に押入れを開けて探していると、「あれ、ここに箱に入った新品の延長コードが…」という訳で僕の外出は失敗に終わった。
—完—
いや、待て待て!せっかく外出用の服を着たのだ。それに天気も良いんだ!しかし、どこに行こうか…。そう言えば、キムチが無くなりそうだし、めんつゆが無くなりそうだ。これからそうめんの時期がやってきて、ちょうどこの間、仕事帰りに買い物でそうめんを買ったばかりではないか!?めんつゆがなければお話にならないぞ。ということで、自宅から歩いて10分ぐらいのスーパーに行くことにした。そしてせっかくなので遠まわりして再び散歩することにした。
僕は昨日と同じようなコースで歩くことにした。自宅から江戸川橋まで行き、そこから神田川沿いを歩き、高田馬場まで出る。そして再び折り返して目的地のスーパーへ。しかし、直接スーパーまでは10分しか掛からないが、恐らくこのコースで行けば1時間30分、いやそれ以上だな。確実に掛かる訳でコスパは最強に悪い。だが、コスパなどクソくらえである。
トートバッグにエコバッグ、そして谷川俊太郎の『世間知ラズ』、財布、マスク等々を入れ玄関を後にした。
やはり、僕は神田川の小路が好きである。
今日は昨日に比べ人が多かったが、桜の季節の神田川を経験しているのだ。あれに比べれば屁でもない。僕は神田川のあの生臭さが好きである。川の独特の匂いとでも言うのだろうか。実際、臭いには臭いのだが、あの匂いを嗅ぐと祖母の家の目の前にある川を思い出す。神田川なんか比べ物にならないぐらいデカイ訳だが、しかし、漂う匂いが僕を郷里へ一瞬だけ連れて行ってくれる。
ヘッドホンからは曲が流れて来る。
新緑に染まる桜を眺めながら僕は黙々と小路を歩く。
木漏れ日が眩しい。生臭い川の匂いは僕の鼻孔を刺激し続ける。一瞬も重なればそれは立派な時間である。時間の積み重ねというものは一瞬一瞬の積み重ねである。塵も積もれば山となるなら、刹那が積もれば時間となるのは至極当然の帰結のような気がしなくもない。
ヘッドホンから流れる風の曲たちに包まれながら僕は神田川沿いの小路を歩く。神田川にはあらゆる物語がある。そして、あらゆるものは物語を持っているのだなと風を聞いて思った。かぐや姫の『神田川』もそうだが、それを聞いたうえで風の『22才の別れ』を聞くとより鮮烈に聞こえてくるのである。僕は小路の途中にあるベンチに腰掛け、曲に集中する。
少し説明しておくと、この風というバンドは元々かぐや姫に所属していた伊勢正三と猫というバンドの大久保一久からなるフォークデュオである。かぐや姫の解散コンサート前にデビューしており、いきなり『22才の別れ』で大ヒットをぶちかます。1975年から1979年の活動休止に至るまで非常にいい曲を残している。何より歌詞が非常にシンプルのわりに要点はがっちり抑えている感じがする。
僕は『22才の別れ』も好きだが、僕が好きなのは『君と歩いた青春』と『お前だけが』の2曲である。特に『君と歩いた青春』の歌詞の最後の部分は本当に秀逸だと思う。恐らくだが、昨今蔓延っている所謂「クソ・フェミ」たちに言わせると怒りを買ってしまうかもしれないような歌詞なのだが、僕は個人的に「なるほど、そういう表現の仕方で哀しさを現前させるのか」と思わず唸ってしまったものである。
風の凄い所は、とにかく男性と女性を歌詞で上手く使い分けている所だと思う。しかも、どちらの立場、つまり男性側の視点か女性側の視点で歌われているのかが分かるのは最後のワンフレーズである。それが顕著に現れているのが『22才の別れ』と『君と歩いた青春』である。ちょこちょこ、こっちっぽいなというのを匂わせる訳だが、最後にトドメの1発でしかもバチンとキマるフレーズで締める。一言で言えば最高である。
僕は風の歌に酔いしれながら神田川の小路を歩き高田馬場へ着く。
さて、折返し地点に着いた。
暑いからいっそのこと電車を使おうかとも思ったのだが、この風の曲の余韻に浸りたくて結局再び歩き始める。それにしても人が多いな。すれ違う人々。きっと彼らも様々な物語を抱えて生きているんだろうな。
街には記憶が残る。そして人にも記憶は残る。僕等はそれをどことなく感じるのだろう。しばしば、「この場所にはノスタルジーを感じる」と表現することがある。でも、それってそこに住んでいないし縁も所縁もない人が郷愁を感じることであって、そこには何かがあるんだと思う。僕にとっては神田川の匂いであったり、風の歌でどことなくそういうことが思い出される。
些細なことで思い出される何かがある訳で、人は皆、物語を抱えて生きている。人だけではなくて街もだ。そんなことをヒシヒシと感じ、高田馬場を後にした。
「こんなお店あったっけか?」
これもまたこれで1つの物語である。
よしなに。