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雑感記録(359)

【そこにてのみ輝くもの】


芝生

 そして私はいつか
 どこかから来て
 不意にこの芝生の上に立っていた
 なすべきことはすべて
 私の細胞が記憶していた
 だから私は人間の形をし
 幸せについて語りさえしたのだ

谷川俊太郎「芝生」『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』
(青土社 1975年)P.5

恐らく、人間生きていれば誰しも(と書くと語弊がある訳だが、ある一定数の人間にとって)「あの頃に戻りたいな」と思う瞬間がある筈だ。それがほんの一瞬の時間であったり、あるいは一定の長さを以て現れることもあるかもしれない。そうして「今、ここ」という場から逃避したいという願望を抱くこともあるのではないだろうか。

僕は過去の記録で何度も書いている訳だが、「現在」というのは「過去」の集積である。「現在」ですらすぐさま「過去」になり得るのだ。僕等は「現在」を生きていると思っているかもしれないが、然しそれは結局のところ点的なものでしかないのだ。「過去」に執着することがどうも悪いことのように捉えられがちだが、僕からすると「過去」に執着することが出来ない人間が「現在」「未来」を果して生きることが出来るのだろうかと疑問である。僕の好きな言葉は「温故知新」である。

そういう訳で、僕は先週の土曜日に大学の友人たちと飲みに行って来た。

と色々と書いて行こうと思ったのだが、僕にとってはあまりにも濃密でそして僕自身でさえも手に余るような、素晴らしい時間であった訳で。それをこのnoteで書ききれるのだろうかとおよそ数日考えていた訳なのだが、しかしどうもうまい具合に纏まらない。実はあの日から何遍も何遍もnoteに書いては消して、書いては消してをくり返していているのだ。だが、あまりにも書きたいことがありすぎるのと、人間はどうしても忘れてしまう生き物なので、日を追うごとに徐々に記憶が欠落しつつあるという現実がある。それが非常にもどかしい訳である。はてさて、どう書いて行こうか…。


僕の中で1番面白く、記憶に残っていることを書こう。

僕が凄い面白いなと思ったのは、各々の《創作》に対する感覚、言葉の身体性についてである。少しこの話をするにあたって、登場人物(僕も含め)を書いておく必要がある。以下、非常に簡素だが素描しておこう。

①友人A:以下記録の友人である。毎度僕の記録ではお馴染みである。

②友人B:大学1年~4年まで一緒。コースも同じで近代文学を専攻。現在は会社員をやっている。

③友人C:大学2年からの付き合い。滅茶苦茶面白い感性を持っている友人。現在は某有名サイトにてライターとして在籍。

④僕:常にキレ気味。現在は会社員をやっている。


〈1〉言葉の記述方法

友人B以外は各々が各種媒体で文章を創作している。僕で言えばこのnoteであり、友人Aで言えばnoteやはてなブログ、友人Cは実際にライターとして様々なことを書いている。そんな話をしていた時、ふと友人Cが「いつも何でその媒体に書いているのか」ということを聞いた。僕と友人Cはパソコンを利用して書いているが、友人Aは基本的にiPhoneで書いているらしい。何となくだが、僕の中では何か文章を綴るという場合には基本的にパソコンであることが多い。

それは単純に仕事でパソコンを利用しているからその延長線上ということもあるだろうが、何よりスマホで書くことよりも早くタイピングが出来るという言ってしまえば効率的な部分で採用している部分が多い。これは恐らくだが友人Cも同様なのだろうと思う。友人A曰く「スマホで書く方が身体に馴染む」のだという。そこで友人Cが「いや、でもフリック入力とか難しくない?」と聞いた。僕もフリック入力があまり得意な方ではないのでその質問は中々面白いと思った訳だが、友人Aは「慣れればまあ…」といった感じであった。

そこで友人Aは続ける。「普段俺らはスマホで色んなことをするじゃない?パソコンは言ってしまえば‟仕事”という印象が強い。だけれどもスマホはそこから離れて自分の感覚に凄く馴染んだものなんだよね。単純にパソコンの大画面で眼が疲れるということもあるけれども、身体として馴染むのはスマホなんだよね。」というようなことを言っていた。僕はなるほどなと思いつつ、中々自分には無い感覚だったので面白いなとも思う。

昨今の作家でもスマホで作品を書くということが見受けられるらしい。これも友人Aが言っていたことだ。僕は最近の文学的な動向など殆ど知らないから「へえ」という感じだった訳だ。僕はここでちょうど2周目に突入していた『新記号論』のフロイト「不思議メモ帳」の話が頭の中にフワフワと浮かび上がってくる。

 ここで述べられているように、不思議メモ帳は、いちど下に書き込まれて溜まっていったものを呼び戻すことはできない。書かれたものは一方的に溜まっていくだけです。それに対して心は、思い出す、記憶を再生することができる。この点が不思議メモ帳という比喩の限界だとフロイトは考えているわけです。
 ところが、iPadにはそれができます。フロイトの説を延長するなら、現代人は、iPadのような完璧な「心の装置」の補助具を携えて、つねにメディアに結び付き生活していることになります。
 われわれは外部世界からの刺激情報をメディア端末を通して受け取り、意識にとどめて表象を生み出しては、記憶の層へつぎつぎに送り込んでいる。現代人の「知覚―意識」に現れる現象は、心の装置の蝋板へと送り込まれると同時に、コンピュータやサーバーのメモリに送り込まれて蓄積され、それぞれの記憶の層から呼び出されたり消去されたりしつづけているわけです。

東浩紀・石田英敬「不思議メモ帳という「心の装置」」
『新記号論』(ゲンロン 2019年)P.104,105

詳細については『新記号論』に譲るとして、とかく僕が考えたのはこの「スマホで書く」という行為と「パソコンで書く」という行為の差は何かということである。この引用箇所ではフロイトの「不思議メモ帳」という言ってしまえば「心の装置」が現代に拡張して話をするならば、我々が普段忘れてしまう記憶や経験をそのiPadに集積できるということである。しかし、ここでの例示にもある通りあくまで「iPad」での話である訳だ。

確かに、iPadであれば専用のペンがある訳で、そこに現出するメモ帳に直接書込みデータとして蓄積されることになる訳だ。最近だとご丁寧にペンで書いた文字もデータとして、ゴシック体の纏まったデータとして蓄積される。自身の手で書いた文字が、機械的な文字へと変換されデータとして(厳密には010101というようなデータなのだろう)蓄積される。ところが、これがパソコンあるいはスマホだとどうなるだろうか。

パソコンだと単純にローマ字入力で文字を打ち込んでいく。無論、そこに打ち込まれる言葉は最初はアルファベットで書かれ、ヘボン式のローマ字の組み合わせ表と対応したかな文字に置き換えられ、最終的にそれらを変換し、漢字かな混じりの文章を作成していくことになる。しかし、スマホの場合は恐らくだが(とここで示すのは稀にスマホでもローマ字入力をしている人も居るからである)基本的にかな入力が主流ではないだろうか。3×3マスの中でかな文字を選択し、変換予測から選択し漢字かな混じりの文章を作成する。

そう考えてみると、「スマホで物を書く」というのはある意味で理に適っているのではないかと思えて仕方がない。パソコンで書く際には先の繰り返しで恐縮だが、細かく順を辿れば①アルファベット→②ヘボン式ローマ字→③かな文字→④言葉→⑤変換(かな→漢字)という形になるだろう。ところが、スマホで入力することを考えるとこの①と②が省略可能である。僕等は普段からパソコンでの業務に慣れてしまっているから意識上に出てこないだけの話であって、確かにパソコンで文字を打つという行為は些か奇妙である。

まず、前提として僕等は日本人として生きて、日本語で物を考える訳だ。無論、異なる場合もあるだろうが日本に存在していれば基本的には日本語で物を考えるだろう。例えば何か目の前の物事に対して表現をしようと考えた時、何もまずローマ字に分解して考える人間はあまり居ないだろう。いや、居ないんじゃあないのか。そう考えてみるとスマホの3×3の入力は既に「かな文字」が選択できる訳であって、より僕等日本人の思考に寄り添った形での入力方法になっているような気がしている。

なるほど、友人Aがスマホでnoteやはてなブログを書く理由は何となくだけれどもこういう所にあるのかなとも思ってみたりする。そう考えてみると、友人Cは一旦置いておくにしても、僕は仕事でも何でもないのにこのnoteという媒体をパソコンをわざわざ開いて立ち上げて書いている訳だ。もしかしたら、僕はこのnoteを仕事と捉えているのかもしれない。僕自身はそんなこと1ミリも考えたことは無いのだけれども、実際そういうことを暗に含んでいるのではないかということを思ったという話である。


〈2〉言葉の身体性

上記に関連して、言葉と身体性の話になった。きっかけは友人Aが文章を書く時に格好つけてしまうという所から話が始まった…気がする。既に何日も経過しているので断片的な話になってしまうが「踵を返す」という言葉だけは鮮明に覚えている。

確かに僕と友人Aはわりかし似ている部分があって、その時々で読んだ本や見た映画などに影響されることが多い。その為、所謂「日常的には使用しないけれども、限定された場所で使われる言葉」をこういう場では多用しがちである。現に僕はこうして何だか格好つけて書いてしまっている訳だが、これも一種の影響であることは言うまでもない。そんな話の例示として友人Aは「踵を返す」という言葉を確か言っていたのだと思う。友人Aは続けて、僕にとっても大事な問題提起を友人Cに投げかける。

「文章を書く時の1人称ってどうしてる?」

僕が偉そうに言えたことではないけれども、これは非常に大切な問題意識である。僕はどちらかというと、その1人称に続く助詞について拘りを持ちたいと考えている人間だが人称そのものについてはあまり考えてきたことは無かったように思う。だが、冷静に考えて重要な問題意識である。例えば会社で自分のことを指す時に「俺」というかあるいは「僕」、はたまた「私」と表現するかで相手に対する印象というのはかなり変わってくる。「俺」というのはどこか横暴でどことなく粗野な感じがするし、かといって「私」というのはどこか仰々しくて文章そのものに固い印象を与える。

更に加えて言うならば、男性・女性によっても変化するものである。例えば「私」と「あたし」というのでは大分印象は異なる訳だ。男性が「あたし」と使えばどことなくふざけているような印象を僕は少なくとも持つ訳だが、女性が「あたし」と使っても別にさしたる違和感などはない。逆に女性が「僕」という1人称を使うとほんの少しだが違和感を抱く。それこそあのちゃんは1人称が「僕」である訳だが、あれは言ってしまえば平仮名の「ぼく」であって漢字の「僕」ではないと思っている。

これは恐らく音も関係してくるのではないだろうかと僕は考えている。やはり書き言葉と話し言葉で印象が変化するというのは当然にある訳だ。そういったことも考えなければならないと思っていたところで、友人Cが面白いことを言う。「俺はあんまり書く時に気にしたことないな…。勿論「僕」も「俺」も使うし、「自分」も使うな…。あまり拘ったことが無いんだよな」と。僕は「え」と思うと同時に、彼の文章の魅力にはある意味でここが関係してくるのでは無いかと思えて仕方が無かった。

 散文のスタイルとして、すぐに文学者の、しかも作家の文章を考えるのは、悪い偏向である。小説の文章は、散文として特殊なものと思わなくてはならない。主観と客観の関係が、世の一般と比べて、なんと言っても特殊にすぎる。いざ現実の関係の中では、表現の手本とはならない。このことはあまりにも文学的な文章、あるいは現実解体的な文章についてのみあてはまる事柄でもない。いわゆる成熟した、平明にして簡潔と言われる作家の文章こそが、あまりにも作家風で、実際の人間関係の場で物事の表現の手本とはとうていなり得ないのだ。たとえば会議の席などで、だれかがああいうたっぷりした、人生の奥まで透徹したみたいな口調で報告をはじめたら、はたが困惑して目をそらすことは、文学青年が舌足らずのことを口走りだした場合と、そうそう変りあるまいと思われる。

古井由吉「文体について」『言葉の呪術』
(作品社 1980年)P.70

僕自身はこのnoteでは「僕」と統一している訳だが、実際に話す場合については勿論「僕」も使うし、「私」も使うし「俺」も使う。そう考えると、僕は書くことと話すことに自分自ら陥没地帯を作っているのかもしれない。つまり「話す/書く」という二項対立を無意識下のうちに作成していて、そこで書く時には「僕」、話す時は臨機応変に変えると区分けしているのである。だが、友人Cに於いてはそれは区別されるものでは無いとのことのようである。

僕はここでふと「言葉と身体性」という言葉が思い浮かぶ。僕は以前と言ってもかなり前だが「話すように書きたい」ということについてくだらぬ記録を残した。その時は古井由吉の『杳子』と久生十蘭の『昆虫図』を引き合いに出してやってみた訳だけれども、これがどうも中々難しい。自分が話す言葉と書く言葉が乖離しているその部分にこそ何か新しい可能性が開かれているのだと分かってはいるけれども、うまい具合に出来ない。引用した古井由吉の「文体について」が身に染みる。

言葉と身体が密接に関係している。それが友人Cは出来ているから文章が面白いのだと僕は確信した。文学的な文章という点に於いては、その世界の中だけで語るのであれば、「踵を返す」という表現もありだろう。しかし、僕らがこうして書いている媒体というのは幸か不幸か、あらゆる層の人々が見ている訳で、誰しも文学に聡いという訳ではない。僕だって聡くはないのだから。もしも、今後「文学を切り開く」という観点から考えるのであれば、友人Cのように「話すように書く」という姿勢が実は1番求められていることなのではないだろうかと思う。

僕はしばしば「作品の表現が稚拙だ」ということで作品を揶揄することもある訳だが、裏返してみればそれは個人の領域を出ず、ただ自分の中の「文学」という狭い領域をただ死守したいという邪な気持ちから来るものなのではないだろうかと思い始めている。もしかしたら、その稚拙だと思う表現はその作家にとっては馴染む言葉なのかもしれないのだ。友人Cのお陰で袖を正された思いである。


〈3〉「創作」とは?

そういう話をしていく中で、ふと友人Bがいきなり「凄いよな。俺何にも書いたり作ったりして無いからな。」と言う。これはお世辞抜きに書く訳だが、彼は僕の中では仕事がめちゃくちゃ出来る人間であると思っている。有体に言うならば「優秀」である。それは大学時代からどことなくその片鱗はあった訳で、容量が良く全体像を掴むのが早いと思っていた。そして何よりも言語化するのがうまいなというのは感じていた訳だ。

そんなことを思い出していると、彼は続けて言う。「何か物を創作するというよりも、与えられた文章を読んで、自分の言葉に落し込むことが好き。それが俺にとっての「創作」なんだよな。それが愉しい。」と。僕はそこで自分が如何に傲慢であるか思い知らされる。今までのことの総決算みたいな形で僕に多大なるインパクトを以てしてやってくるのである。

 いい文章を書くために必要不可欠な唯一の条件はと言うと、これは個人的な見解にすぎないのですが、芸術的センスを持っているということです。
 それを持っていない人にも、もちろん文章はいくらでも書けますし、ベストセラーなども充分に書けます。
 書けはしますが、そうしたものを私は読むに足りないものと考えているわけです。しかし、そう考えるのは私の個人的な見解ですから、人は、むろん、芸術的センスが無く文章が凄く下手でも、いくらでも文章を書いてよいのです。

金井美恵子「文章を書くことの困難」『重箱のすみ』
(講談社 1998年)P.35

僕が「創作」という言葉を聞いた時に思い出されるのはやはり「文学」や「芸術」という分野に固定されてしまう。例えば小説であったり詩であったり、そういったものが最初に出てきてしまう。あるいは絵画であったりインスタレーションであったり、音楽であったり…。そういったものがパッと頭に浮かぶ。だが、仕事に於ける文章を「創作」という意識を以てして考えていなかったということが明らかになる。

言ってしまえば、僕は「創作」という言葉に胡坐を掻いていたのである。

そう‐さく[サウ‥] 【創作】
解説・用例

【一】〔名〕

(1)新しいものを最初につくりだすこと。ものを生みだすこと。また、そのもの。創造。
*真理一斑〔1884〕〈植村正久〉九「人類の進歩を以て学術の発見及び機械の創作にのみ帰する論者は」
*帰郷〔1948〕〈大仏次郎〉霧夜「議論の勢ひで新聞記事になる危険を創作して了った」

(2)芸術作品を生みだすこと。また、その作品。特に純文学などの小説をさすことが多い。芸術的創造。
*海潮音〔1905〕〈上田敏訳〉嗟歎「人をして宛然自から創作する如き享楽無からしむ」
*近代批評の意義〔1906〕〈島村抱月〉「蓋し批評が創作と異なる最大理由は」
*新らしい言葉の字引〔1918〕〈服部嘉香・植原路郎〉「創作 創めて作り出すといふこと。また飜案・飜訳によらず、自分の創造力から作出りして作ること」
*暗夜行路〔1921~37〕〈志賀直哉〉三・一九「謙作は久しく離れて居る創作の仕事に還り、それに没頭したい気持になったが」

(3)つくりごと。うそ。

"そう‐さく[サウ‥]【創作】", 日本国語大辞典,
JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-10-16)

うーむ…『日本国語大辞典』でも「芸術作品を生みだすこと」と表記されている訳だが、「ものを生みだすこと」ともある訳だ。この手の話をすると「芸術とは何か」というようなそもそも論に向かって行ってしまうし、それでこの記録はお終いである。僕はやはりそういういい加減な気持ちで終わらせたくはないから続ける。

「ものを生みだす」という観点から考えれば、芸術に何も凝り固まる必要はないのである。僕にとっての問題は「創作」という言葉が「芸術」に直結してしまうことそのものにある。辞書には「芸術作品を生みだすこと」とある訳だが、しかし用例を見るとまあ、中々新しいのだ。とはいえ、最初の意味の用例が1884年初出で、もう1つの意味の初出は1905年である訳だ。せいぜい21年である。今では後者の方がどことなく優位性を持っている気がするのは果たして僕だけだろうか。

人間というのはしばしばこういうことが起こる。言葉の自動化というものなのだろう。言葉を見ると自動的に「これだ」というように決まったレールが敷かれていて、それに沿って行かねばならないと勝手に言葉に締め付けられることが往往にしてある訳だ。勘違い?と言えば可愛いのかもしれないだろうけれども、ここの齟齬が大きいと画一的な側面でしか捉えられなくなってしまうのではないかと思われて仕方がないのである。

とここまで書いておいて、僕はロシア=フォルマリズムの重要性がヒシヒシと思い返されるのだが、ここにはまだ書けない。もう少し詳しくおさらいしたい部分ではある。ただ、1つここに置いておくとするならば、言葉そのものが表す意味をその言葉を使わずに表現するという謂わば「異化作用」については日常生活にも必要な考え方であるように思われて仕方がない。友人Bとの会話でそれが思い返された。これもまた袖を正される思いであった。


〈4〉「あそび」=「余裕」

話は打って変わって、「弱さ」と「強さ」の話になる。

簡単に纏めてしまうが友人Cが「自分の「弱さ」を見せることは同時に自分には「それを曝け出せるんだぞ」という「強さ」である。」という話をし始めたのである。僕はこの話を聞いていて正しく僕が考えている「あそび」というものに相通ずるものが在あると勝手に感じ感動したのである。

僕の記録を読んでくれている人にはしつこいことこの上ないが、僕が考える「あそび」という概念はこの2つの記録にほぼ集約されている。つまり、二項対立は元を正せば鈴木大拙が指摘するように「渾然として一」という状態なのだ。1つのものを語りやすくするために便宜上敢えて2つに区分けして考えるのである。それぞれの立場で自分の意見を主張するということが恐らくどの場面でも起こり得る状態である。

しかし、こんな経験をしたことは無いだろうか。例えば「善/悪」という話をそれぞれの立場で、どちらに優位性があるかという話をしたとしよう。それぞれの良さであったり特徴であったり概念であったりをそれぞれが議論している内に気が付くと「あれ、今まで僕は「善」という立場で語って来たのに「悪」を語っている気がする」ということがないだろうか。結局どちらか一方の立場で語っているのにも関わらず、気が付けば両方について話しているということがある訳だ。僕はわりとこういうことがある。

そこで、友人Cが最終的に「やっぱりね、自分に「余裕」があるかどうかの話だと思うよ」と言った。僕はこの「余裕」というものが「あそび」そのものではないかということを考えてしまったのである。この「余裕」という概念もまた俎上に上げて考えねばならない問題なのではないだろうかとヒシヒシと思っている。

これに関しては今後の僕自身への課題としてここに記すことにする。


はてさて、駆け足で書いてしまった感が否めないが、実はもっと書きたい話があった。とは言うものの、最初の方にも書いた訳だが、人間という生き物は忘れっぽい生き物である。本当は〈4〉についてはもっと書きたかったのだが、如何せん僕の記憶力が限界であまり書けなかったというのが実際の所である。恥ずかしいったらありゃしない。

また、定期的にこういう場所を設けたいと思っている。

いま!

 空一めん 星だらけの星の中
 あちらの あの一つの 星にでもなく
 そちらの その一つの 星にでもなく
 どちらの どの一つの 星にでもなく

 ここの この地球の 星に
 ぼくたちは 生きている

 イヌや
 チョウチョウや
 夕やけや
 友だちや
 森や
 にちようびや
 やまびこなどと いっしょに

 どんなに遠い近い 昔にでもなく
 どんなに遠い近い 未来にでもなく

 落ちつづける たきのように
 ごうごう ごうごうの
 いま!

まど・みちお「いま!」『まど・みちお詩集』
(岩波文庫 2017年)P.182,183

よしなに。

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