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雑感記録(362)

【僕に‟売れる文章”は書けない】


最近自分自身のnoteを読み返しながら常に感じる所である。

これは僕のプライドとかそういうこと関係なしに、単純に読ませる技術がないなと思う。勿論、自分自身で書いているのだから読めないことは無い。それは読めば自分が実際に考えていることである訳で、僕の存在と密接な文章であるから、余程のことがない限り「読むに耐えない」ということは殆どない。しかし、これは良くないことだなと自分で思う時がある。

 本屋の棚の前でパラパラと立ち読みして、買わずに帰ってゆくお客さんの背中のあたりを見ていると、読者ってこういうものなんだなあと思う。つまり読者というのは、他人と同義語だ。だから自分の中にも常に読者はいるわけね。読者を対象化することはできない、本の売れた数を数えることはできても。読者は目に見えないものだと思うんだ。
 自分の中にどれだけ他者をかかえこめるかという形でしか、作者は読者とかかわれないんじゃないかしら。自分のために書くのか、ひとのために書くのかという二元論は、ぼくは成り立たないと思ってます、それは結局同じことだから。
 どんなに熱心な読者でも、読者は不人情なものですよ、だって本を通してしかむずびついていないんだから。手を握ったわけでもなし、なぐりあったわけでもなし、奇妙な人間関係だね。本屋さんにとっても、作者にとっても、読者はお客さまだと考えたほうが、まだすっきりすると言えばいいか。

谷川俊太郎・和田誠「読者①」『ナンセンス・カタログ』
(大和書房 1982年)P.24

僕は過去の記録で、このnoteについて「自分の為に書いている、だから他の奴らは関係ない」みたいなことを書いている訳だが、しかし果たして本当にそうなのだろうかとこれを読んで袖を正される思いである。「自分のために書くのか、ひとのために書くのかという二元論は、ぼくは成り立たないと思ってます、それは結局同じことだから。」という文章を僕はもっと吟味しなければならないのだと改めて反省している。

自分自身のこれまで書いたことに責任を持つということに対して、実は僕は懐疑的である。勿論、自分が発した言葉や書いた言葉に対して責任を持つということは重要である。しかし、人間存在そのものが常に矛盾を抱えている生き物なのだから、言うことがコロコロ変わって行くのは至極自然な流れの一部だと僕は考えている。思考の軸はブレなくとも、そこから派生する枝葉は様々な方向へ行くはずだ。「前書いたことと矛盾しているじゃねえか」と言うことが実は僕の記録は山のようにある。だが、僕はそれで構わないと思っている。


しかし、今は何だかそういうことが許されない時代で、何か間違えたり矛盾したりすると責められることが殆どだ。それが「笑い」や「喜劇」にはなり得ず、ただ悪として存在して糾弾の対象とされてしまうのが関の山である。加えてもっと辛いのは、それを「訂正」しようとしてもそれはどこか許されざる行為みたいな様相を呈している。

山口 …私の感じでは諷刺とかくすぐり笑いとか言う場合に、われわれが前提とする生活は何かのっぺらぼうとして一つの論理でいく生活のイメージを持っていて、それをちょっとずらすとくすぐり笑いというのは比較的軽く扱われると思うんです。ところがわれわれの現実の奥には別の現実があり、その奥には……ってことであってその現実の間には跳び越えが行なわれるとそこを自由に行き来している時に成立するような笑いってものもね、あると思うんですよ。そういう時にもう恐怖でも何でもいいと思うんですが、要するに重箱式にどんどん積み重なっている現実の中の笑いっていうのは、いわゆる諷刺的な一元的な現実とは違うものであって、先ほどから後藤さんのおっしゃっている自然発生的な笑いっていうのはそういうところから出て来ているんじゃないかって感じがしますし、そこが今まであまり煮詰まっていなかったんじゃないかって感じもするんですね。ただ日本の近代批評の宿命みたいなものの中にはできるだけ笑いを排除しようというものがあって、それが文学史の中でも、坂口安吾みたいな作家が出て来て、もっと別の批評家がいたら、もっと違ったタイプの作品を書いたんじゃないかと思わずにはいられない。

後藤明生・山口昌男「失われた喜劇を求めて」
『アミダクジ式ゴトウメイセイ 対談篇』
(つかだま書房 2017年)P.109

ちょうど今日、積読の中にあった『アミダクジ式ゴトウメイセイ』を引っ張り出しこの対談を読んだ。僕としてもこういう「笑い」を目指している部分が実はある。この引用にある「近代批評の宿命」というのは何も批評だけでなく、読者という立場でも現れている部分なのではないかなと思ったりすることがある。何かを語る時に「笑い」という部分を欠いてしまったらば、自分自身も面白くない。自分の中に居る「読者」という他者が愉しめない。それはよろしくないことである。

文章のユーモア、それは自分自身の文章の技術もあるだろうが、身の回りに起こること、書いていることの中に「笑い」を発見させることなのではないかと思われて仕方がない。僕にとってそれが「矛盾」であるということである。様々な記録(と言っても大概似たような内容しか書いていない訳だが)を読み返す中で「矛盾」を見付け、セルフツッコミ的な文章が書ければいいなと常々感じている所である。

ところが、これというのは中々難しいものであって、それを「笑い」に変えようとしても、それを「笑い」とする技術が僕にはなくて、「訂正」ばかりしてしまうのである。「あの時はこう考えていたけど、今思うとこうだった」ということぐらいしか出来ない。そこに対する「笑い」に真摯に向き合うことが出来ていない現状がある訳だ。ただ、これは自分を卑下するような「笑い」では決してなく、前向きな「笑い」を書きたいと思っている。しかし、これが中々難しい。


僕の中で考えている所謂”売れる文章”というのは、「笑い」や「ユーモア」に基づくものであると考えている。それは何も単純な笑いではなくて、考えることで深化していく「笑い」である。しかし、これが中々難しい訳である。何故ならば、こういう風に「笑い」などと言うものは作為的に出来るものではなく、その流れの中で生まれるものだと思うからだ。

それにだ。この「笑い」と言う感覚はどうも個人的感性に依拠してしまう部分がある訳で、一概に「これが笑いだ」と提示できるものではないからだ。だから、普遍的な「笑い」を描くことが出来ない僕にとっては、恐らくだが”売れる文章”などは書けるはずもないだろう。

 人にほめられたことを書こうと思う。けなされたことはすぐに忘れるが、ほめられたことはいつまでもよく憶えているものだ。ナルシシズムと呼ぶにも及ばない人情というものだが、ひとつにはほめられるのは一言ですむが、けなされるとなると、ここがこうだから駄作であるという風に、いちいち理屈がつく。それが面倒くさくてつい忘れてしまうのであろう。妙なもので、非常に精密にけなされても、それは何か自分の或る一面を衝かれているにすぎないと思うくせに、ほめられると、それがただの一言であっても、自分の全作品全生涯をほめられたように感ずるのである。一度でもほめてくれた人に対して、私は一生のあいだ変わることのない感謝をささげる。

谷川俊太郎「ほめられることはほむべきかな」
『一時停止』(草思社 2012年)P.116

僕が谷川俊太郎が好きなのは、詩でもエッセーでも、どことなくその底には「笑い」や「ユーモア」が潜んでいながらも、その本質に迫る何かがあるからだと読み返して思う。そういう作品はやはり読んでいて面白いし、これこそ”売れる文章”なのかなと思う。現に谷川俊太郎の著作は売れている訳なのだから。

僕がお手本にしている作家として、ここ最近は後藤明生と谷川俊太郎である。彼らの文章に共通しているのは、やはり「笑い」という部分なのだ。それも様々な「笑い」である。直接的な題材、つまり話の筋に於ける「笑い」も勿論だが、文章を読んで音として耳に入る言葉の「笑い」や、ジワジワ思い返すと笑えるという「笑い」とあらゆる種類の「笑い」を2人は持っているように思う。僕も彼らのような文章が書きたいとヒシヒシと感じている訳だが、今は読者として甘んじてしまっている訳である。

別に僕は自分の文章を売り出そうとは決してあり得ないことだと思っている訳だが、しかしSNSという媒体であらゆる人に読まれるということを考慮するならば、そういう”売れる文章”を意識するということをしても良いんじゃないかなとも思い始めている、そんな今日この頃である。

よしなに。


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