雑感記録(181)
【谷川俊太郎の詩を読む】
古本屋で谷川俊太郎の詩集を購入した。
別に何か大きな理由があった訳でもなく、正直読みたいかと言われたら「読みたいけれども、そこまで…」というようなレヴェル感である。装丁が良かった訳でもなく、金額が安かった訳でもなく、良いところがあった訳でもなく…。気が付いたら手に取ってレジに並んでいた。こういうことがあるから古本屋は恐怖であり、沼なのである。
そんなくだらない話はさておき、僕は谷川俊太郎だと『生きる』という詩が好きである。この詩については過去の記録で語っているので、その記録を参照して頂けると幸いだ。一応、『生きる』の詩を引用して色々と思うことを書かせてもらった。単純なことが書かれているようで、実は色々な意味を発し続けている良い作品なのではないかと僕は勝手に思っている。谷川俊太郎自身も語っているが、「よくできなかった詩だからこそ、多くの人に親しまれるようになったかもしれない」ということなのだろう。
ところで、谷川俊太郎と聞くと何を想像されるだろうか。
僕は「谷川俊太郎」という名前を見聞きした際、まず頭の中に湧いてくるイメージは「教科書」である。次いで「合唱曲」「絵本」「子ども」…という言葉が頭の中に浮かんでくる。僕にとっての「谷川俊太郎」はこのような感じである。
「教科書」と言うのは、僕の過去の経験に基づく。「合唱曲」も同様である。小学校か中学校か…いずれにしろ高校時代ではないことは確実である。国語の教科書の見開きに谷川俊太郎の詩である『春に』が掲載されていた記憶が微かにある。桜の木の花びらが見開きに舞っている光景と、その上に文字が羅列されているという画面は覚えている。確か…中学生の頃の「教科書」だったはずだ。そんな気が強くしてきた。
と言うのも、僕らは中学校2年生の時に合唱祭?かなんかで谷川俊太郎の『春に』を歌ったと記憶しているからである。その記憶もあり、確か「教科書」に『春に』が掲載されているのを見てクラスメートがいきなり歌いだしたような…ないような…。そんな光景も覚えている。どうやら、谷川俊太郎は僕にとっては学校にゆかりのある人なんだなと感じられる。
「絵本」については、それこそ僕が好きな『生きる』という詩は、実際に絵本になっているのを元々知っていたということが大きいので、その言葉が真っ先に出てきたのではないかと思う。と同時に、それにつられて「子ども」という言葉も一緒に現れたのかもしれないなと、連想ゲームみたいな感じなのだ。
僕がここまでで何を導出したいのか。それは、「谷川俊太郎の詩」と言うと、どうも「子どもが読む作品」あるいは「子ども向け作品」みたいな印象を受けてしまうということである。現に、僕は(と言ってもあくまで個人的経験の域を出ないので世間一般がどうかと言うのは知るところではないが…)そういう印象を谷川俊太郎に少なくとも感じてしまっているのである。しかし、谷川俊太郎の詩は果たしてそういう詩ばかりなのか?と個人的に気になってしまったのである。
これはいい機会だと思い、『谷川俊太郎詩集』『谷川俊太郎詩集 続』を自宅へ持ち帰り、読むことにした。何というか純粋に「詩」として読むことを心掛けて丁寧に見て行くことにした。
この引用は大岡信との対談集である『詩の誕生』からである。この対談集を読むのはこれで3回目ぐらいになるのだが、谷川俊太郎の詩意識というものを確認する為には非常に良い作品となっている。この作品を読むと、僕等の抱いているある種の谷川俊太郎像みたいなものが少し変わる。僕は詩を読んで勝手に「感性的な詩を書く人」と思っていたが、かなり緻密にそして深度のある思考の上で書かれており、僕は「この人は感性で書いている訳じゃない。」と感じたのである。
作品のタイトルが『詩の誕生』であり、『万葉集』や『古今和歌集』へ遡行し話が展開されるのだが、実際文量は少ない。読んで頂くと分かるが、大岡信と谷川俊太郎の詩的言語感、詩意識がお互いの対話を通じて延々と語られる。そして読み進めるにつれて、両者とも「言葉」という問題にぶち当たっている所が面白かった。ぜひ読んでみると良いだろう。
僕はとりわけこの引用の最終部が興味深かった。「言葉によらず風景によって、自然のある状態によって喚起された感動」という箇所である。確かに谷川俊太郎の詩を一通り読んでみると風景的な詩もわりと多く見られる。それこそ先に挙げた『春に』という詩もある種の季節を詠んでいる訳で、情景が詩を読むことで喚起されるというのは分からなくもない。試しに僕が好きな谷川俊太郎の詩を引用してみよう。
この作品は谷川俊太郎のデビュー作でもある『二十億光年の孤独』に収録されている詩である。僕は個人的にこの詩の「ヒヤシンス/思想はない/しかし感情がある」という一連が好きである。僕の勝手な想像だが、これは作品のタイトルにある通り、「机上」の風景をそのまま言葉に落し込んでいる感じがする。この言葉の足りなさという部分が僕にはよりリアリティを持って僕の方へやって来る。
僕は谷川俊太郎ではないので、「机上」に風景を見てどのような感動をしたのか、その原体験たるものは知らない。しかし、少なくともこの詩にはそれが表現されてると思われる。この詩の何よりも面白い所は、この谷川俊太郎の見た風景を追えることにある。と言うよりも、自分自身の身に寄せて読むことができるという点にあるのではないかと思う。
僕等が何かを書く、それは仕事の関係でも趣味でも、あるいは日記を書くときでも何でもいい。とにかく机に座って何かを書くという行為を想定して貰えれば良い。まず何かを書くとなったら、書くものが必要だ。それは紙でもよければノートである。続いて着々と書き続ける中で分からない語や調べなければならないことは当然に出て来る。辞書が必要になる。書いているとインクが無くなる。これは今ではシャーペンやらボールペンなどがあるし人によって異なるから何とも言えない。これは谷川俊太郎の原体験そのものである。しかし、いちいちインクを使ってたらそれは当然に面倒になる。ペンに走る。
恐らくスタンドをつけるのは夕方ぐらいの頃なのだろう。書いているうちに時間も忘れて書き続ける。そして暗くなってきたことだけは看取し、手元の明かりを灯す。スタンド付近には1本のヒヤシンスがあったのだろう。それをふと眺めて考える。しかし、ヒヤシンスは植物であって思惟することは無い。だけれども、ヒヤシンスがもしかしたら少し萎れていたのかもしれない。そこに感情を読み取ったのだろう。そして最後に時計を見る。「ああ、もうこんな時間か」という中で、それでも書き続けるかどうかというある種の悩ましさがここに表現されているのではないか。
とここまでは僕の勝手な想像である。
着目すべきは、この一連に於ける目の動きが連動しているということにある。一見繋がりが無いように見えて、「机上」で線上になって置かれている物たちの繋がり。僕等の視線と谷川俊太郎の視線が交錯するというと些か変な表現にはなるのだが、何故かシンクロしているような気さえするのである。いや、シンクロではないな。僕の場合は、そこにある美しさと言ったら些か表現が変になってしまうのだが、「そこにはあって、ここにはない」という美しさが僕を襲う。それが僕を「感動」の渦に巻き込む。少し具体化してみよう。
僕は以前記録で『【デスク思考体系】』と称して、自身のデスクから始まる物語的なことを何の脈絡もなく書いた。そこにも書いたように、僕の机は好きな物しか置いておらず、仕事の用具というか道具なんてのはパソコンぐらいしかない。物に溢れている机である。そこには美しさの欠片も何もなくて、ただ自分が「好き」という感情だけ任せて置いたもので散乱している。要はごちゃごちゃしているのである。
この谷川俊太郎の『机上即興』を読むと端正な机が僕には想像される。それは「ヒヤシンス」が机上にあるのだから、まず以てその時点で「風景としての美しさ」がそこにはあるのだ。僕のデスクにはそんなものはない。何より、線的に捉えられている一連の風景の端正さに僕は感動したのかもしれないと書いて思ってみたりもする。僕の机では点としてでしか捉えられない。そこに何の脈絡のないそこにある「事物」として片付けられてしまう。何と言うか、僕はこの詩にある種の「生命」みたいなものを感じるのである。
そう、そうなのだ。谷川俊太郎の詩を読むと、そこには当然ないはずの「生命」というか「命」の繋がりみたいなものを感じることが出来る。僕にとって谷川俊太郎の詩が好きなのはここにあるのではないかと思われて仕方がないのである。
実は谷川俊太郎の詩には『生きる』と名の付く詩が2つある。これは僕の好きな『生きる』という詩よりも以前に掛かれたものである。しかし、この詩も個人的にはかなり好きである。比較して考えてみよう。
前者の詩の方がより抽象度を持っているのに対し、後者はより具体性を持って眼前に現れる。そして何よりもまず僕が感じたのは後者の『生きる』はどこかテレビで見ている風景を描いているという印象を受けるのである。前者では「死んだ魚」や「死神」と言った言葉が並び、これらは字のごとく「死」を連想させるものであり、一見すると「生」とは正反対のように思える。
しかし、僕も常々感じていたことだが、「死」にも「生」はあるということである。誰かの言葉の真似事になってしまうが「生きることは同時に死ぬことで、死ぬことは同時に生きることでもある」ということである。僕はそれを祖父の葬儀の時に感じていた。それがこうして詩として今までは何となく「ふーん」と言う感じだったが、肌感を持って感じられるのである。
僕はいつも感じていることだが、生きるということは常に死と向き合って生きていかなければならないことであると。僕等は常に死に向かって生きている。僕の細胞は日々死に、そして日々生きている。生と死は両生しているのだ。祖父が亡くなったことは悲しい。実際に物理的な死を迎えた。しかし、祖父は僕や家族、そして関わってくれた人たちの中で記憶として生きているのである。
とこういうように書いてみると、僕にとって実感できるのはやはり前者の『生きる』という詩の方かもしれない。ある種の具体性を持って僕には現れるのだ。特に「死んだ魚が生かす/雨に濡れた仔犬が/その日の夕焼が私を生かす」と言うのは僕の心を震わす。僕等の周りにあるものは繋がっていて、命の円環としてそこに存在しているということをまざまざと見せつけられるのである。その繋がりの発見に僕は感動する。
しかし、僕は先にも書いたが、後者の『生きる』も好きである。どちらかいうとこちらの方が抽象度というか実感が湧きにくい観念上での「生」というものが表現されているような気がしてならない。無論、この詩は当然に好きだが、谷川俊太郎自身が「この詩は不完全」という意味がここで何となくだけれども看取される。つまりは、「風景→実感を持った生」と「観念的な生」との対称性があるのではないかと僕には思われる。
後者の『生きる』は先にも書いたが、テレビで見た映像としての風景をそのまま書いているような印象を受け、遠近感覚がバグる。谷川俊太郎の眼とテレビの映像という複雑なフィルターを通したうえでの「生」という感じがしている。特に「いまどこかで兵士が傷つくということ」という1文がその印象を強めているような気がしてならない。何と言うか、ここに具体的な名前が羅列されるが、その物との距離感がどうも遠い。
ただ、これが子どもむけの絵本として出ているということは非常に興味深い。例えば前者の方の『生きる』を絵本にしたらそれを読ませる親の立場からしたら堪ったものではないだろう。ある程度の距離感を持って書かれた詩の方が当然良いに決まってる。「死んだ魚」なんて普通に食卓に出て食べる訳だし、「雨に濡れる仔犬」も見る機会は多い。だが、「ピカソ」はいないし、「ヨハン・シュトラウス」もいない。それに「アルプス」や「傷ついた兵士」なんてテレビで見るぐらいしかない。
谷川俊太郎の詩が何故、子ども向けというか小さい子に対して多く読まれるかが何となく分かる気がする。それは今書いたことの反復になるのだが、要するに言葉に対応している事物との遠近感がバグるためある種柔和な形で肌感を持って感じられるということが大きいのかもしれない。言葉の抽象度を考える上では重要なことである。だから僕は小さい子にこの両者の『生きる』という詩を読ませて、それぞれでどういう印象を持つか調べてみたいと思っている。
僕は谷川俊太郎の詩も好きだが、吉岡実や吉増剛造とはまた違った意味で好きであるということをこの際だから言っておく。谷川俊太郎の詩を読むと、先の繰り返しになるが言葉の「生命」というものを肌感を持って感じられるので、何と表現したらいいのか分からないのだが「優しい気持ち」になることが出来る。言わば、僕にとっての心の処方箋みたいなものである。
しかし、吉岡実や吉増剛造などは違う。そもそもそういった視点で読んでいないというのも当然あるが、言葉のごつごつさみたいなのが全然違う。ハッキリ言えば硬い印象を受ける。例えば僕の吉岡実の好きな詩である『告白』を引用してみようと思う。
まず以て日常ではあまり使わない言葉が使用されていることに気付かされる。「石膏」だったり「煙突」「マッス」…。通常に生活していればあまり馴染みのない言葉ではある。言葉自体にもそういうものはあるが、印象として語りがお堅い感じがする。詰まるところ、吉岡実の場合は言葉から幻想を経由して現実に戻るというようなややこしい経路で以て僕等の眼前に現れるのである。
谷川俊太郎の場合は彼が言うところの「風景」から始められるので、僕等もその情景から喚起される感動と言うものを看取しやすい。ところが吉岡実の場合は現実に風景を言葉に書き換えて現実から1度遠ざけて、幻想を挟むことでその現実が浮遊した世界を構成している。僕はその幻想世界に心奪われてしまった。想像したくてもそれを拒むような言葉の羅列、彼の作り出す世界に現実を見出すそこに面白さがある。しかし、これは言ってしまえば回りくどい。
これは僕の好みもあるだろうから一概に言えないが、僕は過去の記録でも残してある通り、「生活から出発する芸術」というのが好きである。当然に両者も生活から始まる詩であることは間違いのない事実ではあるのだろうが、そこを変換する装置が異なるというだけの話である。谷川俊太郎はそこが僕等のより近い所に居て、吉岡実はそれが遠いというだけの、つまりは現実との遠近感の問題であるように思えてきた。
言葉の、ある意味での形而上的な部分での面白さで言えば吉岡実の方が僕は断然好きである。だが、自分の生活に根差してより肌感を持って感じられるという点に於いては谷川俊太郎の方が好きである。ただそれだけの話であるかもしれない。
吉岡実は言葉で風景を創りだすが、谷川俊太郎は風景から言葉を創りだすのだ。
これは『詩の誕生』の最終部である。それこそ僕は最近、吉増剛造や吉岡実、田村隆一の詩集を読んで言語学に興味を持ち、言葉について考える機会が多くなったように思う。とりわけ、この引用部の冒頭は非常に耳が痛い話である。
従前から僕は「何でもかんでも言葉にして表現することが全てではない」と半ば保坂和志の受け売りみたいな形で書いている。その考えは変わらないが、しかし僕等が何かを感じるということは何もなしに感じるということは出来ない。例えば、眼前で繰り広げられる光景について「何かを感じた」というその時点で既に言語化されているのである。それを仔細に言語化しなくとも「何か」という言葉で表現しているではないか。「言葉で表現し得ない感動」と言う言葉で既に表現してしまっている。
意識がアプリオリにあるのではなく、やっぱり言語が初めてあってこそ、意識が生まれるのではないかと思う。だからこうして、詩人が「俺は感性で書いてる訳じゃない」というようなことを書いてくれるのは有難いなと思う訳である。
昨今、読書する人間が離れている訳で、詩なんて小説よりも読まれなくなってしまっている現状にある。しかし、今こそ僕は詩を読むべきじゃないかなとさえ書いていて思った。特に詩の古典と言われるものである。谷川俊太郎は今も現役で書いているようだ。もう90歳ぐらいだろう。そんな彼の作品を「古典」と呼ぶのは失礼な気もするがぜひ読んでみることをオススメしたい。
今日は谷川俊太郎への愛を語る。
よしなに。