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繰り返す鬱の終わりっていつ?
気がつけば、楽しいと感じていたはずのことが、楽しめなくなってしまっていた。前までの自分が、なにをどうやって楽しんでいたのかが、なんで楽しめていたのかが、分からない。楽しいことをしようとしてみても、疲れるとかめんどくさいとか、マイナスな感情が勝ってしまう。そもそも行動に移すほどの気力もない。そのうち、自分の中にあったはずの「楽しいことをしたい」という気持ちがすっかりなくなってしまった。今はただ、すべてがめんどくさく思える。
とにかく無気力で、なにもできない。身体が動かないから心も動いてくれないし、心が動かないから身体も動こうとしない。こうなるともうどうしようもなくて、毎日を屍のように過ごすことになる。ああ、こんなの生きているんじゃなくて死んでいないだけだ。虚しくなるほどにからっぽな毎日を感じる度に、ならもう死んでしまえばいいのにと自分を呪ってしまう。死にたい。けれど今のわたしには自ら死ぬ気力すらない。死にたいのに死ねないというつらさ。日に日に大きくなる希死念慮がそのままわたしのことを呑み込んで殺してくれたらいいのに、希死念慮はわたしを苦しめるだけ苦しめて、トドメをさしてはくれない。だからわたしは今日も苦しみながら生きている。生きてしまう。
病院で「しんどいです」と言うと「しんどいのはいつかかならず終わるから」と優しく励まされた。ネガティブな反論が頭に浮かんだけれど、それをのみこんで「はい」と頷く。このやりとりをするのも何度目だろう。
わたしは躁鬱だから、永遠に思えるこの鬱がいつか終わるということを知っている。今までもそうだった、長く続いた鬱もかならず終わるときが来た。だから、主治医の先生が言う「かならず終わる」に反論したいわけではない。
ただ、どうしても考えてしまう。この鬱もいつかは終わるけれど、その先には躁があり、またさらにその先には鬱があるということを。躁も鬱も永遠ではないけれど、それらを繰り返す苦しみは終わりなく続いていく。実際、今のこの鬱だって何度目だろう。終わってもまたやってくる、繰り返す躁鬱の苦しみが、わたしには永遠のように思える。
もう疲れてしまった。耐えても耐えても、本当の意味で楽になれない。鬱の先には鬱がある。その度また耐えろって、じゃああと何度耐えればいいの。耐え続けたところでどうせまた鬱が来るんだって思ったら、耐える気力もなくなってしまう。繰り返す鬱に耐えることが“生きる”ということなのだとしたら、もう生きることをやめて、すべてを終わらせてしまいたい。そうすれば、わたしは本当に楽になれる。
ベッドの上で思考の渦に溺れている毎日には苦しみしかなくて。もう耐えられないのに、死ねないから耐えるしかない。自分で命を絶たない限り、この先何十年もこの苦しみが続いていってしまうと思うと絶望する。
鬱さえ終われば、楽しいことさえできるようになれば、また見える世界も、思い描く未来も、変わるのだろうか。今はそんな希望も抱けない。わたしにとっての希望は、鬱の終わりなんかじゃなくて、すべての終わりだけだから。すべてを終わらすための気力を、勇気を、わたしにください。