花緑青

毒性の涙

花緑青

毒性の涙

最近の記事

  • 固定された記事

改めて、わたしと病気のこととか

以前「わたしのこと」という題で自己紹介をしましたが、それから半年ほどが過ぎたので、改めて自己紹介をしようと思います。 今回は、前回から変わったことと、患っている病気のことについて詳しくお話するつもりです。もしよければ、前回の記事にも目を通していただけると幸いです。 改めまして、花緑青(ハナロクショウ)と申します。 昨年の秋に無事誕生日を迎え、20歳になりました。 19歳だったときのわたしは十の位が変わってしまうことにすごく怯えていたけれど、変わってしまったのは数字だけで、

    • 眠剤が効くまで

      死にたい気持ちが消えない。強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったり、濃くなったり薄くなったりはするけれど、消えることはないし消えてくれない。つらいときはもちろん、幸せなときですら心のどこかにはずっと死にたい気持ちがいて、多分これは消えることがないんだと思う。わたしが死ぬまで、一生一緒なんだと思う。 わたしはわたしを救えない。誰かに救いを求めたくなる度、自分のことは自分でしか救えないことを思い出して絶望する。死にたいわたしが生きて救われる道はある? 死ぬことでし

      • さよならハタチ

        「20歳」と書いて「ハタチ」と読む、その特別感が好きだった。わたしは今日、ハタチという称号を失い、21歳になる。ニジュウイッサイ、という響きにはハタチのときに感じたときめきはなくて、もうハタチを名乗ることはないのかと思うと少し寂しい。 20歳の誕生日は、閉鎖病棟の中にいた。 また生き延びてしまったな、と思いながらひとりで過ごす誕生日を寂しく憂鬱に思っていたけれど、入院中に仲良くなった友達や看護師さんたちが「おめでとう」とお祝いしてくれて嬉しかったのを憶えている。バースデーケ

        • 人生のハッピーエンド

          「死」という遠いようでなによりも身近なものについて、誰しも人生で一度は考えを巡らせたことがあると思う。死後の世界があるのかどうか、死んだ人間はどうなるのか。何も分からないからどの考えが正しいとか間違いだとかもない。今から話すのは、そんな「死」というものについての、わたしの一意見だ。 良い人生とは、どんな人生のことだろう。 この問いにわたしがひとつ答えるとするのなら、最期の瞬間に幸せだったと思えることだと考えている。人生の終わり「ああ、幸せな人生だった」と思えたらそれは、とて

        • 固定された記事

        改めて、わたしと病気のこととか

          生きているだけで無理

          「無理しないで」 よく聞くし口にもする言葉だ。わたし自身、言ったこともあるし言われたこともある。その言葉が優しさや思いやりからくるものだとは分かった上で、思うことがある。 「無理をしなかったら生きていない」と。 そう、わたしは生きているだけでかなり無理をしている。 生きているというより耐えているだけのような人生だけど、耐え抜き生き延びるためにたくさん無理をしてきた。踏ん張らなくては乗り越えられかった瞬間なんて数え切れないほどあった。 だから、生きている以上 無理をしない

          生きているだけで無理

          苦しみの先に

          ずっと抱えてきた生きづらさに「双極性障害」という名前がついたのは、高校3年生の秋だった。そのときから気づけばもう、3年の月日が経過したらしい。 この3年間、病気を意識せず過ごせた時間はほとんどない。それくらい、病気に支配された生活を送ってきた。 永遠のように思える長い鬱と、束の間の軽躁。浮き沈みと言っても、鬱鬱鬱躁鬱鬱鬱というような波の中で、わたしは溺れてばかり。 通院もした、薬も飲んだ、しかし波は容赦なくわたしをのみ込んでいく。わたしはこれ以上どうすればいいの? 激しいア

          苦しみの先に

          自傷行為のような努力

          腕を切る、薬をたくさん飲む、髪を抜く……様々な自傷行為がある。身体的なものだけではない、その中には精神的な自傷行為も含まれていると思う。あるときのわたしにとって、頑張ることは自傷行為のようなものだった。 昔のわたしは、なんでも頑張れることが取り柄だった。 学校生活にアルバイト……多忙だとしても、多少しんどくても、それ以上の充実感を得られていたあのとき。努力を苦に思わなかったのは、自分は「頑張っている」という実感が、自己肯定につながっていたからだと思う。 このときのわたしは頑

          自傷行為のような努力

          頭と心

          頭の中で洪水のように溢れている思考を言葉にしてみたらどうなるだろう。そんな興味で今、キーボードを叩いている。 これを書きはじめた只今の時刻はAM5時。朝に弱い本来の自分なら寝ているであろうこの時間に、わたしの目は冴え渡っていて、眠たくなる気配すら感じない。それでも薬を飲めば多少は眠れるのだろうけど、寝たくないなと思ってしまって今日に居座っている。(寝るまでが今日ですよね) わたしの中で、寝るのがもったいないと感じるのは躁のサインだ。大体いつも気分が上がり始めると夜更かしを

          永遠はないから

          8月がはじまったばかりの、とある朝。いつものように目が覚めたけれど、ベッドから起き上がるのがしんどかった。7月末から浮き沈みを繰り返していたわたしの心が、その日は少し重く沈んでいるのを感じた。 そのうち上がってくるだろうと思っていた心の調子は、上がるどころか日に日に下がっていった。 まず分かりやすく気力や意欲が失われていった。朝に起きれなくなって 昼まで眠るようになり、起きても身体も心も重いからと 日中のほとんどをベッドで過ごした。 動かないのに食べる量だけ増えて、お腹も空

          永遠はないから

          あの夏の日、そして今

          2021年のあの夏の日、薄れゆく意識の中で心に抱いたのは、もうずっと感じられていなかった安らぎだった。「やっと楽になれる」わたしはひとり、瞼を閉じる。もう二度と、目が醒めないことを願いながら。 あれからもう3年、だろうか。それともまだ3年、だろうか。 わたしがこの先の未来に期待することをやめた日、終わりの見えない苦しみに終止符を打つことにした日。 人生最後になるはずだったあの日から、3年。一度は諦めたこの命で、わたしは今も、本当は来るはずのなかった未来を生きている。

          あの夏の日、そして今

          こわい

          選ぶのがこわい。 選んでしまえば、正解か間違いかが決まってしまうから。正解を選びたいから、なにかを選択するのがこわくなってしまう。怖気づいて選べずにいる。 自分が選んだものが正解だよ、という言葉がある。だけどわたしはどうしてもそうは思えない。過去の選択が今を作っているのだとしたら、これまでの選択を正しかったと言えるような今を生きていないから。わたしは過去の選択を正解にしてあげられなかった。そんな生き方しかできなかった。 もう間違いたくない、後悔したくない。 そう思うほど、選

          揺れ動く

          自分はどうしたいのか、どうなりたいのか、どうするべきなのか、何も分からない。分からないけれど、誰かが教えてくれるわけじゃない。結局 本当に分かってあげられるのは自分自身だけだから、ひたすらに考えて考えて、もっと分からなくなっていく。 死にたいと思ったり、生きてみようかなと思ったり、その狭間でずっと揺れ動いている。揺れ動いているというのは、つまりどっちも選べずにいるということだ。選ぶことのできないわたしは、死ぬことも生きることもできずにいて、どっちつかずのまま時間だけが過ぎて

          揺れ動く

          救われないね

          はじめて精神科に足を踏み入れた日から何年が経っただろう。あの日から人生が変わった、と言ったら大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、何も大袈裟じゃないくらい、精神疾患はわたしの人生に多大な影響を及ぼした。どこまでがその病気のせいで、どこまでが自分のせいなのか、いくら考えても分からないしもう考えたくもないけれど、あるときからわたしの人生は、生活は、精神疾患とともにあった。 この病気になってどれだけのものを失っただろう。当たり前のように手にするはずだった幸せとか、日常とか、未来とか

          救われないね

          夢のおわり

          上の記事でも書いたように、わたしは5月末から躁状態に入っていた。入ったばかりのときは、この状態が躁状態と言えるものなのかどうか(もしかしたらただの元気ではないだろうか…)と思ったときもあったが、今なら自信を持ってはっきりと言える。躁状態だったんだよ、と。理由は明白、躁状態が約3週間続いた今、わたしの気分が落ちていくのを感じているからだ。毎日、躁状態の終わりを痛感している。 躁状態というものは決して永遠に続くものではないこと、ちゃんと分かっているのに、渦中にいるとまるで永遠じ

          夢のおわり

          くもりのちはれ、躁のち鬱

          長く続いた鬱が終わった。 わたしは春のはじまりである3月〜4月は体調を崩しやすく、例年通り今年もひどい鬱状態に陥った。自分はこの時期に落ち込みやすいということもちゃんと自覚していたし、それなりに心構えもしていたつもりだったけれど、それでもだめだった。 希死念慮にすべてのエネルギーを吸い取られ、一日中横たわっていることしかできない毎日。起きている間は「死んでしまえ」「なんで生きているんだ」「早く死ぬべき」というような思考が四六時中、片時も静まることなく生きているわたしを死へと誘

          くもりのちはれ、躁のち鬱

          死にたくてもいいよ

          死にたい、と思うことがある。これは今に始まったことではなく、ずっと昔からそう思うことがあった。だから、はじめて死にたいと思った日のことはもう覚えていない。いつの日からか、死にたい気持ちが心に芽生え、気づいたときには喜怒哀楽と同じくらい“感じて当たり前のもの”になっていた。 だから、いわゆる普通の人は死にたいと思わないということを知ったとき、心の底から驚いた。それと同時に、自分が普通ではないということをぐさりと突きつけられたような気がしてショックも受けた。死にたいと思わないっ

          死にたくてもいいよ