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登場人物

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京都を中心にした人物に関する地歴ポイントを紹介しています。全国の関連する史跡も掲載しています。
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記事一覧

第74代 鳥羽天皇

生まれて間もなく母が亡くなり、祖父の白河法皇の元で育てられた。父の第73代  堀河天皇が29歳で崩御したため、5歳で即位。政治は祖父の白河法皇が行い、白河院政が本格化した。 1118年、白河法王の養女・藤原 璋子(後の待賢門院)が入内し、26歳までに5男2女をもうけた。皇子の2人が病弱に生まれたこともあり、火災で焼失した内裏が再建される間、里内裏(臣官らの提供する屋敷など)を火災や占断で移動しながらも多くの時間を供に過ごした。移動には白河法皇の意向が常に入った。院政となった

小野 篁

小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。 小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学

第62代 村上天皇

藤原 穏子が42歳で生んだ第60代 醍醐天皇の第十四皇子で、兄の第61代 朱雀天皇とは3歳違いだった。兄弟とも聖宝の安産祈願を受けて生誕した。兄は病弱だったため母の勧めで17年で退位し、弟の村上天皇が21歳で即位した。 朱雀天皇の代に起きた承平天慶の乱への対応で朝廷の財政がひっ迫したため倹約政治が行われた。それまで律令制度に戻そうとさまざまな施策がされたが、村上天皇の治世頃には土地や税の制度が破綻し、戻せなくなっていった。一方、和歌や音楽などが振興された。 960年、平安

第61代 朱雀天皇

❶出生朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子で、中宮の藤原 穏子が39歳で生んだ。朱雀天皇と村上天皇は、醍醐山を開山した聖宝によって安産祈願された。年の離れた兄と皇太子に立てられていたその皇子が早世し、醍醐天皇が崩御したため、わずか8歳で即位することとなった。藤原 忠平が摂関として政治を取り仕切った。 ❷時代の変わり目と天災第50代 桓武天皇の子孫が臣籍降下して平氏を名乗り、関東に根付いた一族である平将門が935年から5年間、身内の争いから始まり、新しい国王を名乗るまでの反乱が起

第60代 醍醐天皇

❶臣籍から復帰臣籍降下していた源 定省(後の宇多天皇)の長男・源 維城として生まれる。父の即位とともに皇籍に復帰した。 ❷突然の即位897年 藤原氏の要職の専横を抑えたいという理由などから、宇多天皇が突然退位し第60代 醍醐天皇として即位。父の希望通り、藤原 時平と菅原 道真を左右大臣にまつりごとを開始する。 律令制に戻そうと荘園整理令を発布したり、試みを次々と打ち出した。ただ、政治システムが律令制に完全に戻ることはなかった。 この頃より平仮名が広まり、初めての勅撰和

第59代 宇多天皇

❶即位までの経緯第55代 文徳天皇-第56代 清和天皇-第57代 陽成天皇と続いたが、陽成天皇の母・藤原高子と兄で摂政・藤原基経の不仲などから、陽成天皇は退位させられ、第58代 光孝天皇が即位した。光孝天皇は自分の譲位後の皇統は陽成天皇の子孫に戻ると予測して、自身は一代の天皇であるという表明で子供達を臣籍降下させた。 しかし光孝天皇が崩御まぢかになった際、藤原基経らは光孝天皇の第7皇子の源 定省(みなもとのさだみ)を推挙。20歳の定省は出家を願っていたところ急遽皇族に復帰

聖宝

聖宝(理源大師)はもともとの名を恒蔭王(つねかげおう)と言い、讃岐国(現 香川県)の塩飽諸島本島で出生したとの伝承がある。第38代 天智天皇の子で吉野の盟約に参加した志貴皇子の子、第49代 光仁天皇の玄孫と伝わる。 16歳で京の貞観寺(現在の京都市伏見区深草にあった)で空海の実弟・真雅のもとで出家した。東大寺など南都(奈良)で円宗・三論宗・法相宗・華厳宗を学び、真雅から密教を学び、大峰に入って山岳宗教を学んだ。 44歳の時に、貞観寺から見える醍醐山に庵を建立する(上醍醐)

第95代 花園天皇

❶一代限りの天皇として即位花園天皇の時代には、天皇を譲位した上皇、または上皇になって出家した法王がまつりごとを行う”院政”が慣例となっていた。さらに、先々代から持明院統と大覚寺統の2つの系統が交互に天皇となるようになり、大覚寺統の第94代後二条天皇の急死を受けて、兄と兄の皇子の間を繋ぐ一代限りの天皇(自分の皇子を天皇にしない・自分が院政をしかない)として花園天皇は12歳で即位した。 ❷学問を修めた背景24歳で後醍醐天皇に譲位するまで、5年間は父の伏見上皇が、後半の5年間は

北朝初代 光厳天皇

❶光厳天皇の生まれた時代光厳天皇は、鎌倉幕府滅亡の20年前の1313年に生まれた。両統迭立になってから40年、持明院統を継ぐ者として帝となるべく育てられ、特に叔父の第95代 花園天皇から、厳しくも手厚い教育を受けた。 ❷1333年5月9日 20歳での壮絶な体験叔父の花園天皇は大覚寺統の第94代後二条天皇が早くに亡くなり天皇となった(実際の政は院政により上皇が執り行った)。花園天皇が譲位した第96代後醍醐天皇は12年天皇の座にあったが、譲位するのを渋り、1331年三種の神器

最澄

❶比叡山の西麓に生まれる生源寺(滋賀県大津市坂本) 誕生した三津氏の館に、最澄が自ら建立した寺。最澄は14歳で近江国分寺で得度して、奈良の東大寺戒壇院で受戒し僧になった。 ❷比叡山を拠点にする延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) 最澄は20歳で比叡山に草庵を結び、一乗止観院と名付けた。遣唐使で渡った唐から帰国した後も、第50代 桓武天皇の許可を得て比叡山を拠点に、唐から持ち帰った天台宗を広める活動をした。亡くなった後に、開創した時の年号をとって延暦寺とされた。 ❸4か所目の戒壇

菅原 道真

菅原氏は大王の喪葬儀礼に従事した土師氏一族であったが、住んでいた地にちなみ改名した。道真の3代前から中国史を中心とした学者の家系となり、「菅家廊下」という私塾を運営。菅原 道真は藤原家の勢力に対抗する第59代 宇多天皇の信任を受け、多くの官職を歴任した。第60代 醍醐天皇の代では右大臣を務めるが、昌泰の変で大宰府外帥に降格され、2年後の903年、大宰府で亡くなった。連座して子息や関連の文官が処罰を受けた。 ❶住んでいた場所菅原院天満宮神社(京都市上京区堀松町) 菅原 道真

坂上 田村麻呂

坂上田村麻呂は4代の天皇に仕えた。第50代 桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられて陸奥鎮守府に赴き、蝦夷の首長・阿弖流為を連れ帰京した。 ❶ 田村麻呂の氏寺、清水寺にある阿弖流為の碑(京都市東山区清水) ❷ 山科の墓所(京都市山科区勧修寺東栗栖野町) 平安京を守るように立ったまま東を向いて埋葬されたと伝わる。 【全国の史跡】 ❶ 鎮守府兼陸奥国府 多賀城政庁跡 (宮城県多賀城市市川城前) 724年築城。 ❷ 伝 阿弖流為・母禮の塚 (大阪府枚方市牧野阪) 片埜神社隣

空海

空海は讃岐国から都に出て、おじの元で勉強し官僚になるため大学に入るが、中途で辞め、私度僧になる。東大寺戒壇院で得度し、遣唐使となった。 ❶ 唐から帰国し逗留した神護寺809年、京に入ることを許された空海は和気氏の氏寺・高雄山寺に逗留した。第52代 嵯峨天皇との距離も近く、交流が始まる。先に高雄山寺で講義をした最澄とのやりとりの舞台ともなった。824年に寺名を高雄山寺から神護寺に改める。 808年に十住心論を清書した堂宇が新京極通にある。十住心院と言われていたが、後に第55

和気 清麻呂

和気氏は第11代 垂仁天皇の子・鐸石別命を祖とする氏族。曾孫の弟彦王が第14代 仲哀天皇の皇后・神功皇后に反逆した忍熊王を和気に関を作り滅ぼした功により、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)を与えられて土着し、代々郡司などを勤めた。その12代後裔が広虫・清麻呂となる。 郡司の子息は朝廷に仕えるのが習わしで、まず姉の広虫が采女として平城京に行き、第46代 孝謙天皇に仕えた。後を追い武官として仕えた清麻呂は、769年道鏡が皇位に就こうとした際、否定する信託を宇佐神宮から持ち帰り流