空海は讃岐国から都に出て、おじの元で勉強し官僚になるため大学に入るが、中途で辞め、私度僧になる。東大寺戒壇院で得度し、遣唐使となった。
❶ 唐から帰国し逗留した神護寺
809年、京に入ることを許された空海は和気氏の氏寺・高雄山寺に逗留した。第52代 嵯峨天皇との距離も近く、交流が始まる。先に高雄山寺で講義をした最澄とのやりとりの舞台ともなった。824年に寺名を高雄山寺から神護寺に改める。
808年に十住心論を清書した堂宇が新京極通にある。十住心院と言われていたが、後に第55代 文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿后)の安産祈願により第56代 清和天皇が生まれたため染殿院と呼ばれるようになった。
810年、薬子の変に際しては、高雄山寺にて修法し、東寺にある鎮守八幡宮に八幡神を勧請して嵯峨天皇側の戦勝を祈願した。薬子の乱は坂上田村麻呂・藤原冬嗣・空海らがそれぞれの分野で協働し、嵯峨天皇側が勝利した。空海は平城天皇の皇子を弟子にするなど、事後の処理も請け合っている。
❷ 乙訓寺の別当を命じられる
811年、嵯峨天皇より早良親王が幽閉された乙訓寺の別当に命じられる。伊予親王の変の際、藤原吉子と伊予親王が幽閉された奈良の川原寺(奈良県高市郡明日香村川原)も嵯峨天皇より賜ったと伝わる。平安京への移転に至るまでに起こった政争の現場を任される。
❸ 都や行事を整えた軌跡
90日間の祈祷と民間信仰
京都市北区西賀茂辺りは御所の瓦職人の拠点だった。上賀茂神社の神職が1217年寺院を創建した寺院に42歳の時に90日間逗留した。眼病平癒や、空海が伝えたという疫病を封じる「きゅうり封じ」が伝わる。
葬送地を供養
811年頃、小倉山を金剛界、曼荼羅山を胎蔵界に見たて石仏を埋めて、曼荼羅川に五智如来の石仏を建て、葬送地の供養をしたという伝承がある。
「五山の送り火」も空海に由来するという説があり、節の過ごし方などに影響を与えた。
❹ 東寺を給預される
823年、嵯峨天皇より東寺を給預された。東寺は平安京の官寺である(西寺には現在跡碑のみが残る)。空海は東寺を教王護国寺と号し、10年余りここに住して、国の政事や、真言密教の整理や表現、種智院大学の創設などに携わった。
❺ 請雨教法を修した神泉苑
824年全国で日照りが続き、第53代 淳和天皇の命で請雨教法を修した。
この時空海と法力比べになった僧に襲われた伝説が、羅城門のわきにある。
❻ 離宮から大覚寺へ
大覚寺は嵯峨天皇の離宮に空海が五大明王を安置したことに始まる。818年、飢饉に際し空海は嵯峨天皇に写経を勧め、現在心経殿に奉安されている。天皇没後に寺院となり、両統迭立の時代には大覚寺統の御所になった。
❺ 高野山と入定
816年、高野山に密教の道場の建立を朝廷に願い出て許可されていた。空海が多忙であったことや都から離れていること、官寺ではなく氏寺であり財源に苦労したことなどから、完成を見ず東寺から高野山へ移動してわずか数か月で亡くなった。奥の院は空海の墓所となり、後に参道に歴代の武将の墓が並ぶこととなった。(和歌山県伊都郡高野町高野山)
【全国の史跡】
❶ 生誕地
善通寺(香川県善通寺市善通寺町)
❷ 若い頃の修行の伝承
宮島の弥山で空海が行をとったと伝わる。その他、全国各地に伝説がある。
❸ 藤原氏との関わり
813年、藤原冬嗣に進言し藤原氏の氏寺・興福寺に南円堂を設計、鎮壇法を修した。冬嗣とは大学で同世代で、同じく嵯峨朝で力をふるった。
『京都遠足』(P34)
https://www.worec.jp/03kyoto.html
『阪神遠足』(P60)
https://www.worec.jp/04hanshin.html