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885-930年[在位 897-930/34年]
父:第59代 宇多天皇 母:藤原 胤子(内大臣 藤原高藤の娘)
妻-子:
 藤原 穏子(藤原基経の娘・中宮)-朱雀天皇・村上天皇
 為子内親王(宇多天皇の妹)
 他 多数


❶臣籍から復帰

臣籍降下していた源 定省(後の宇多天皇)の長男・源 維城として生まれる。父の即位とともに皇籍に復帰した。

第50代~第77代までの天皇系図

❷突然の即位

897年 藤原氏の要職の専横を抑えたいという理由などから、宇多天皇が突然退位し第60代 醍醐天皇として即位。父の希望通り、藤原 時平と菅原 道真を左右大臣にまつりごとを開始する。

律令制に戻そうと荘園整理令を発布したり、試みを次々と打ち出した。ただ、政治システムが律令制に完全に戻ることはなかった。

この頃より平仮名が広まり、初めての勅撰和歌集(天皇の命で編集される和歌集)である「古今和歌集」を編纂した。これより勅撰和歌集の序文は仮名と漢語で書かれるのが定番となった。

また、自身が母の縁で聖宝によって安産祈願されたことから、聖宝開山の醍醐寺を勅願寺とした。下醍醐(醍醐山の麓の寺院)の伽藍を建立して整備し、朱雀・村上両天皇の誕生を祈願させた。

醍醐寺 金堂(京都市伏見区醍醐東大路町)

❸昌泰の変

901年 宇多法王菅原 道真が、醍醐天皇の弟・斉世親王(妻は菅原 道真の娘)を次の天皇にする画策をしていると噂が流れる。醍醐天皇は道真を大宰員外帥として大宰府に左遷し、息子たちや関係者もこれに連座した(昌泰の変)。2年後、道真は大宰府で亡くなる。

その後 909年に藤原 時平が死去、923年には時平の娘・藤原 穏子との皇子・保明親王が死去、次の皇太子の慶頼王もその2年後に亡くなった。醍醐天皇は亡くなった道真を右大臣に復し正二位を贈った。

しかし930年、清涼殿落雷事件が起こり、数名の公卿が清涼殿・紫宸殿で雷に被災した。3ヶ月後、病がちだった醍醐天皇は状態が悪化し崩御する。

醍醐天皇陵(京都市伏見区醍醐古道町)
醍醐天皇陵から見える醍醐山

『京都遠足』(P28)
https://www.worec.jp/03kyoto.html