聖宝(理源大師)はもともとの名を恒蔭王(つねかげおう)と言い、讃岐国(現 香川県)の塩飽諸島本島で出生したとの伝承がある。第38代 天智天皇の子で吉野の盟約に参加した志貴皇子の子、第49代 光仁天皇の玄孫と伝わる。
16歳で京の貞観寺(現在の京都市伏見区深草にあった)で空海の実弟・真雅のもとで出家した。東大寺など南都(奈良)で円宗・三論宗・法相宗・華厳宗を学び、真雅から密教を学び、大峰に入って山岳宗教を学んだ。
44歳の時に、貞観寺から見える醍醐山に庵を建立する(上醍醐)。この際手伝った遍照から『この山に仏法は永く伝わるであろうが資金が乏しく存続が難しいのではないか』と言われたと伝わる。
その後、聖宝は飛鳥の弘福寺(川原寺)や東寺の別当を歴任する。
醍醐寺を援助した郡司・宮道弥益の孫娘が嫁いだ源 維城が、皇籍に復帰して第59代 宇多天皇となったことから、聖宝は皇室の安産祈願に携わる。第60代 醍醐天皇は醍醐寺を御願寺とし、多くの堂宇を建立した(下醍醐)。
聖宝は、役小角以来衰退していた入峯修行を復活させ、柴燈護摩供(屋外での護摩)を始めるなど山岳宗教のダイナミズムを残しつつ顕教・密教を統合して整理し、後進が行を取りやすいよう、この国に合った形に修験道を再編しまとめ上げた。
『京都遠足』(P34)
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