第59代 宇多天皇
❶即位までの経緯
第55代 文徳天皇-第56代 清和天皇-第57代 陽成天皇と続いたが、陽成天皇の母・藤原高子と兄で摂政・藤原基経の不仲などから、陽成天皇は退位させられ、第58代 光孝天皇が即位した。光孝天皇は自分の譲位後の皇統は陽成天皇の子孫に戻ると予測して、自身は一代の天皇であるという表明で子供達を臣籍降下させた。
しかし光孝天皇が崩御まぢかになった際、藤原基経らは光孝天皇の第7皇子の源 定省(みなもとのさだみ)を推挙。20歳の定省は出家を願っていたところ急遽皇族に復帰し、887年第60代 宇多天皇として即位した。
❷藤原氏と菅原氏
宇多天皇は臣籍にあった間、聖宝の開いた醍醐寺を援助していた宮道弥益の孫娘と婚姻しており、息子の維城もいた。即位してすぐに阿衡事件などで想像を超えた藤原氏の勢力争いに直面する。対抗するため宇多天皇は他の氏族の学者などを役人にとりたて、中でも菅原 道真を抜擢して重用した。
宇多天皇は897年 突然退位して上皇となり、ともに皇籍復帰した息子の維城を第60代 醍醐天皇に即位させる。13歳の醍醐天皇に藤原時平・菅原道真を左右大臣にするよう指示し、自らもまつりごとに意見した。
宇多上皇は父の光孝天皇が勅願した仁和寺の完成や、東寺で受戒しての仏教修行に情熱を傾けるようになる。醍醐を開き修験道を再興した聖宝にも帰依し、初めての法王となった。一方、901年の菅原 道真の大宰府左遷に際してはこれを止めることができなかった。宇多法皇は仁和寺に御室を造営して移り住み、 930年 醍醐天皇が崩御ののち第61代 朱雀天皇を後見し、931年に亡くなった。
❸宇多源氏
宇多天皇の子孫は宇多源氏と呼ばれ、近江国を本拠地として佐々木氏・六角氏・京極氏などになり武士として繁栄した。これは宇多天皇の第8皇子・敦実親王の息子・雅信が、法王没後臣籍降下して源を名乗ったことに始まる。
【関連の史跡】
福王子神社(京都市右京区宇多野福王子町)
宇多天皇の母の班子女王(第50代 桓武天皇の孫)を祀る。周山街道へとつながる五差路にあり、仁和寺の鎮守でもある。境内には氷室から宮中へ氷を運ぶ役夫を祀る末社がある。
『京都遠足』(P45)
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