「「絶対的なもの」の崩壊を目の当たりにすることは重要か 【海と毒薬/遠藤周作】」
遠藤周作、海と毒薬。
小説を読むこと。
歴史を知ること。
きっと私が想像する何倍も何倍も大切なことなような気がする。
この作品を読んで本当に強く感じだ。
厳格で立派な存在として眼差しを向けてしまう父親や医者も
もちろんそういう一面も備えているとしても、
どこまで行っても矛盾や歪みを孕んだ一人間ということからは逃れられないということ。
誰もが同じように性格があり、それぞれに歴史があるのだ。
それはどんな華やかで立派な業績や肩書でもかき消すことはできないものとして、あり続けるのである。
「個々の人間は1つの性格を完全な形で持ち得るものではありません。それでは生きることができないでしょう。生存するためには、人は雑多な性質を持たねばなりません」
「 われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれは立 派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。仮面や 外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは皮膚とシャ ツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。モンテーニュ」
「矛盾するその間で自分がおろおろしてしまう、引き裂かれてしまう状態が命のリアリティである」
「われわれは雑談をした。アジアからの留学生の中には、とても貧乏な生活をしている若者たちがいる。三人でアパートを借りて、一緒に夕食を作って食べないと経済的にやっていけない現実があるのだ、と。
しばらくして、食事の準備が整った。しかしながら、テーブルのまわりには、なんとも気まずい雰囲気が漂っていた。誰もが、箸を取るのを一瞬ためらった。凍り付いたような時間が、少しだけ流れた。
やがて何事もなかったように、誰からともなく食事が始まり、テーブルは談笑に包まれた。
私はワインを飲みながら快い気持ちに包まれていた。
いま思い出してみて、私は不思議な気分に襲われる。われわれは留学生たちの苦しい食生活を話題にしていたのに、食事を始めはじめたとたんに、さっと頭を切り換えて楽しい宴会を楽しむことができた。
では、あの凍り付いたような時間は、嘘だったのだろうか。
いや、それは嘘ではなかっただろう。人間良心の呵責を本気で感じながらも、自らの快だけはきっちりと味わおうとする、そういう存在だという当たり前のことが証明されたにすぎないのだ。」
「本当に人を救う尊い仕事をしている男が、ある朝交差点で世にもHな汚姉さんの後ろ姿に勃起し、さらにその日のうちに幼い娘に八つ当たりし、妻と話しあって高次の愛に接したら、それはみんなその人で、その混沌が最高なのにみんな物語が好きだから、本人も好きだから、統一されたいと願ったり、自分をいいと思ったり悪いと思ったり、大忙しだ。」
私は少し厳しい家庭に育った。
その環境が私にとっては生まれたその時からの「普通」だった。
さらに、マイペースというか、少し発達が遅かったと思う。
色々な要素が相まって、その厳しさに自覚的になるのがかなり遅かったと思う。
もちろん父は1人の人間として人格者であり、立派な存在であると思う。
ただ、それよりも強いものとして私の中に存在していた。
絶対的で、完璧な存在だったのだと思う。
だからこそ、私は心からの安心を得られたいたとも、いま振り返って思う。
どこまで意図的であるかはわからないが、母と父は演じてくれていたのかもしれない。
そして、幼く素直な私は小さな疑いも持つことなく、母と父のもとで安心しきっていたのだ。
宗教的なものと通うものがあると感じた。
でも、やはり、「神」的な絶対的な存在は生きていく上での安心材料として大切なものなのだと思う。
はじめ、親というのはそうあるものなのではないだろうか。
ただ、君臨し続けるにはきっと無理があるし、ゆがみが出てくると思う。
なにせやっぱり親も沢山の矛盾をはらんだ一人の人間なのだから。
絶対的なものとしてい続ける親も偽ること、隠すこと、演じること、本来の自分との乖離は苦しいだろうし、歪みや矛盾をたっぷり孕んだものを絶対的なものとして従う子供だって苦しくなってくるだろう。
その反面、ただただ自分の頭を働かせるということをせずに従い続けるということは、ある意味とても簡単で楽なことだ。
はたまた、自分の思い通りに動かせること、無条件に信じて崇拝してくれる存在がいるというのも、きっと快楽的な刺激を得られるだろう。だから、その快楽を得るということを目的に動き始めると、更に大きなゆがみが生まれる。
そんな両義的なのもを孕みながら親子というものは関係を築くのではないだろうか。
私にとって完璧で絶対的な父親像が崩れていったタイミングがあった。
本当に困惑したし、何よりも凄く悲しかった。生きる世界に「正解」が突然なくなってしまったようだった。途方に暮れた。
ずっとずっと涙が止まらなかった。
宗教というものに興味がある。
絶対的なものの存在は安心感を与えてくれる。
きっと必要なものなのだと思う。
現代、キリスト教が崩れていっていたり、父性というものが薄れ、全体的に「全てを包み込み肯定していく」という母性が肯定されはじめているという。
絶対的なものの崩壊だ、と感じた。
絶対的なものに疑問を感じること、
そこに歪みや矛盾を抱くこと、
対立すること、
絶対的なものの崩壊を目の当たりにし途方に暮れること、
そして、
そこから自分の足で立ち上がること。
事柄は多面的であり、一概に言えることはなく、だからこそ「絶対的」なものは存在しえない。
矛盾や欠点と同時に、きっと改めて羨望や偉大さを見出すことができるだろう。
そして沢山の葛藤や苦労を担いながら自分にとって「絶対的」なものとして存在してくれていたことに感謝の気持ちが芽生えることもあるかもしれない。
そして問題なのは神や親なのではなく、思考を停止し、無知であった自分にあったのだと、気づくかもしれない。
そうすると、「絶対的」なものではなくて、「対等」な関係を築くこともできるかもしれないと思う。
新たな関係を築き始めるのだ。
それでは、そもそも絶対的なものが存在しないところから始まると一体どうなっていくのだろう。
「安心」がないということ。
「不安」がベースになるということ。いつでも不安が付きまとう。
何か別の大きな歪みや不安がたちがってくるのではないだろうか。
過程を省いてしまうと、どうなるのだろう。
宗教、親のあり方、こんな視点から改めて捉えなおしていきたい。
新しい課題。