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【読書感想文】ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~御田寺圭(白饅頭)|⑤障害者編|
「ただしさに殺されないために~声なき者への社会論~」。
私は、こちらの本を著者ご本人から、無料でプレゼントしていただいた。
「ただしさに殺されないために」、略して”ただころ”とは、連日のように事実陳列罪を犯し、さらには白饅頭フォロー罪、白饅頭RT罪、白饅頭購読罪などを犯す罪人を世に放ち続ける、白饅頭尊師の著書である。
![](https://assets.st-note.com/img/1666182388005-clrIqqtuRG.png?width=1200)
本書の帯には、このように書かれている。
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社会を引き裂く事件の背後に何があるのか。
ただしさと承認をめぐる闘争が日常と化したSNS時代に宿る<狂気>を解き明かす。
多様性の名のもとに排除し、自由、平等を謳って差別する
美しい社会の闇の底へー-
言葉を奪われた人びとの声なき叫びを記す30篇
本書は人のやさしさや愛情が社会に落とす暗い影の記録である。
私たちは、自分の中にある「悪」にまるで気づかなくても自覚的にならなくても生きていける。そんな平和で安全で快適な社会で暮らしている。自分たちが狭量で排他的な人間であることから、ずっと目を逸らしていける、配慮のゆきとどいた社会に生きている。
ひとりひとりが抱える心の傷と痛み
だれもが内に宿しているちいさな差別心…
世界が複雑であることへの葛藤を手放し
だれかを裁くわかりやすい物語に吞み込まれた
感情社会を否定する
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まるで、「フェミニスト」や「リベラル」、「人権活動家」などが闊歩する「インターネット世論」に、中指を立てるかのような紹介文だ。
このような暗黒の書籍を読んでしまって、本当によいのだろうか。
世間の「ただしさ」に迎合してそれらしく振る舞っていた方が、楽に生きられるのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
しかしだ。「ただしさ」に迎合したとして、それが本当に世界を明るくするのだろうか。
私の考えは否だ。
よって私は、「ただころ読破罪」へと歩みを進めた 。
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「ただころ」は、序章・終章を含む全7章、30節によって構成されている。
本来であれば全章について詳細に語っていきたいところであるが、有料の書籍であるからそういうわけにもいかない。
そこで、少しだけを抜き出して語っていきたいと思う。
(注)「引用箇所(出典あり)」以外の記述はすべて私見であり、御田寺圭氏の思想とは何ら関係がないことをここに明記しておく。
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だれしも暖かい気持ちになり、心を揺さぶられてしまう物語がある。
すなわち「発達障害/コミュニケーション障害というハンディキャップを抱えながらも、そうした障害を持つ人ならではの鋭い感覚を活かして仕事に就き、自分らしく働いている」という物語だ。
第2章 5|輝く星の物語より
美しく、前向きで、希望にあふれ、だれも傷つかず、赦しを与えてくれるような物語には、影の表情がある。
すなわち「なんらかの困難や弱者性を抱える人は、努力を重ねて卓越した存在とならなければならない」といった社会的メッセージが含まれてしまうことだ。
第2章 5|輝く星の物語より
私には3歳下の妹がいるのだが、彼女はダウン症と心臓病を抱えている。
ダウン症候群(ダウンしょうこうぐん、英: Down syndrome)またはダウン症は、体細胞の21番染色体が通常より1本多く存在し、計3本(トリソミー症)になることで発症する先天性疾患群である。多くは第1減数分裂時の不分離によって生じるほか、減数第二分裂に起こる。新生児にもっとも多い遺伝子疾患である[1]。
症状としては、身体的発達の遅延、特徴的な顔つき、軽度の知的障害が特徴である[2]。平均して8 - 9歳の精神年齢に対応する軽度から中度の知的障害であるが、それぞれのばらつきは大きく[3]、現時点で治療法は存在しない[4]。教育と早期ケアによりQOLが改善されることが見込まれる[5]。
ダウン症は、ヒトにおいてもっとも一般的な遺伝子疾患であり[3]、年間1,000出生あたり1人に現れる[2]。
「ダウン症」と「発達障害」は似て非なるものだが、本件においてその点は重要でない。
「『発達障害/コミュニケーション障害というハンディキャップを抱えながらも、そうした障害を持つ人ならではの鋭い感覚を活かして仕事に就き、自分らしく働いている』という物語」と聞いて、真っ先に思い浮かべるものは何だろうか。
私は「24時間テレビ」を思い浮かべた。
書道に秀でたダウン症の人間やその他、一芸に秀でた障害者を取り上げ、涙を誘う。
障害を抱える子どもにさまざまな経験をさせ、涙を誘う。
これらを否定するつもりはない。
努力をし、結果を出した人間が称賛されるのは素晴らしいことであるし、子どもに貴重な経験をさせてやるのは素晴らしいことだ。
しかし、この24時間テレビが放送された翌日から、必ずと言ってよいほど「周囲の大人による(無自覚)攻撃」が始まる。
「書道に秀でた障害者」が取り上げられれば、「妹ちゃんにも書道をさせてみたら?」と。
「ダンスに秀でた障害者」が取り上げられれば、「妹ちゃんにもダンスをさせてみたら?」と。
彼ら彼女らに、きっと悪意はない。
善意による思考・発言なのだろう。
「妹ちゃんが才能を見つけ、活躍できるようになったら 」と。
しかし、私はこのような思考・発言に、「差別意識」を感じる。
たとえば、「書道に秀でた男子小学生」がテレビで取り上げられた際、いったいどれほどの人間が、近所の男子小学生に「書道をやらせてみたら?」と言うだろうか。
「ダンスに秀でた女子中学生」がテレビで取り上げられた際、いったいどれほどの人間が、近所の女子中学生に「ダンスをやらせてみたら?」と言うだろうか。
このような発言をしない背景には、「人はそれぞれ。得意・不得意、才能や好き嫌いも違うもんね」という認識がある。
しかし、対象が「障害者」となった途端、その認識から外れるのだ。
彼ら彼女らは、おそらく障害者を「同じ人間」として認識していない。
私は決して、それを咎めはしない。
「障害者」と密接に関わってこなかった人間が 無意識のうちに そう認識してしまうことは、理解できないことでもない。
私だって、「すべての属性に対して差別意識を持っていないと断言できるか」と言われれば自信がない。
また、ことダウン症においては、「健常者と遺伝子構造が違う」ということもある。
本能的にそう捉えてしまう理屈も理解できる。
ただ、「自分がそう考えているのかもしれない」ということに関しては、一度、己を探ってみてもよいのではないだろうか。
「障害者」に限らずだ。
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私は、妹にとっては「厳しい」存在であると思う。
「障害者だから」と特別扱いをしないからだ。
世の中には、「障害者だから」と意味もなく甘やかしたり、邪険に扱ったりと、「特別扱い」をする人間が大勢いる。
私は妹に対して、そのような「差別」は絶対にしない。
もちろんだが、「得意不得意」や「発達段階」に応じた適切なサポートは必要だ。
しかし、それは健常者も同じこと。
私は塾でのアルバイトをしていた時期があるが、同じ学年でも発達に差があったり、極端な得意不得意のある生徒たちを何人も見てきた。
その個人個人に対して、「個別最適化」されたサービスを提供する。
もちろん、障害を抱える妹と健常者とでは必要とする支援のレベルが違うが、根本は同じことである。
私は妹を「ひとりの人間」として扱い、ときには号泣するまで𠮟ったり、「ギリギリ手が届く」レベルのことを要求したりしてきた。
そのかいあってか、妹はよく成長してくれている。
「障害者だから」と妥協せずにきてよかったと、心の底から思う。
我が家は父親が家事・育児を放棄してきたので、金銭や契約を除いた「お父さん」の役割は、私が担ってきたという自負がある。
母の認識も同じだ。
「お父さん目線」から見て、「娘」の成長には涙を誘うものがある。
もちろんだが、私は妹に 気持ち悪いレベルの 愛情をたっぷりと注いでいる。
妹のために死ぬことは厭わないし、妹の成長を世界一、信じている。
ただし、本節の冒頭にて引用した、「『なんらかの困難や弱者性を抱える人は、努力を重ねて卓越した存在とならなければならない』といった社会的メッセージ」は持っていない。
「卓越した存在になってほしい」とは微塵も思わない。
もちろんだが、妹になにか「卓越した才能」が見つかり、それを伸ばすことを妹が望むならば、私は全力でそれを支えよう。
私が妹に望むのは、「妹なりに成長し、幸せな人生を送ってほしい」ということだけだ。
とはいえ、ある程度の「礼儀」や「マナー」、「常識」などは持ち合わせておかなければ、ただでさえ白い目で見られやすい「障害者」は、より酷い扱いを受けることになる。
悲しいかな、これは紛れもない「現実」だ。
そのため、そういったことがらについては、とくに厳しくしつけてきた。
「妹ができていないと自分が恥ずかしい」などの、「私の世間体」はどうでもよい。
そもそも、私自身が「世間体」なんてあったものではない存在なのだから。
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私は、妹に対して多くを要求してきた。
何度、厳しい言葉を投げかけてきたか。何度、号泣させてきたことか。
しかし、それでも妹は私を好いてくれている。
彼女は人の「愛情」を読み取ることに長けているので これは人生に大きくプラスの影響を与えてくれることだろう 、私の愛情もきちんと理解してくれている。
「なぜ自分にそれを要求しているのか」も。
コミュニケーションの根本は愛情である。
これは、「障害者」も「健常者」も変わらない。
一応であるが、決して「DV加害者と被害者」のような関係ではないことは述べておく。
彼女は気遣いが そこらの大人よりよっぽど 素晴らしいので、そういったことはあるが、私に怯えて「ご機嫌取り」をするところは見たことがない。
これまでの人生で、何度妹に殺意を抱いたことか。
萎縮しているDV被害者がそのような行動をとるだろうか。
「障害」という特殊な特性があろうとも、いわゆる「普通」の兄弟関係なのである。
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「『人間の差別意識』が世界から消えてなくなる」だなんて、小学校の道徳ではなまるを貰えるような考えは、あいにく持ち合わせていない。
多くの障害者と関わり、多くの「差別意識」に触れ、ときに抵抗し、ときに声を挙げることもできず、そうして生きてきた。
そのような人生だったので、「差別」を目の当たりにしてからというもの、「差別はなくならない」と考えて生きてきた。
しかし、「減らす」ことはできるはずだ。
ひとりひとりが少しでも、己の「差別意識」と向き合うようになれば。
世界は幾分か過ごしやすくなるはずだ。
本記事が、その一助になれば嬉しく思う。
※妹になにか危害を加えた者は、私が社会的に or 物理的に殺すのでそのつもりで。いやマジで。
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私は本記事において、「障がい者」ではなく「障害者」と書いた。基本的に、私が「障がい者」と記すことはない。
それどころか、私は「障がい者」との表記に嫌悪感を抱いている。
「『害』の字を避ける」という考えの根底には、「ショウガイシャは社会の『害』であるが、社会的な『ただしさ』の手前、『そんなことはない』としなければならない」という認識が透けて見えるようにしか思えないからだ。
障害者家族として妹や多くの障害者(障害児)と関わってきた私は、「人生という『障害物競走』において、『障害者』には健常者よりも多くの『障害物』が存在する」と考えている。
つまり、「障害者の『害』の字は、『生きていく上で障害となる物事が多い』というだけのことに過ぎない」ということだ。
「生きていく上でショウガイとなる物事が多い」と書く場合、わざわざ「障がい」などと書くだろうか。
そういうことである。
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冒頭にも述べたが、"ただころ感想文"については、"ただころシリーズ"としていくつかの記事に分割して公開しようと思う。
読書感想文を書きながら"ただころ"を読み進めていたところ、半分ほどしか読んでいない段階で、文字数が10,000字を超えてしまったからだ。
ひとつ言えることは、「ただしさに殺されないために」は近年まれにみる良書である、ということだ。
ページをめくる手が止まらない。
2,200円と、書籍としては若干値の張る代物だが、金額以上の価値は十二分にあるだろう。
ぜひ、1冊。可能であれば、ご家族やご友人にも1冊と、お手にとっていただきたく思う。
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