日本の天文学(古代)
前回、40年ぶりにX線分析を使って天文に関する壁画が見つかった、という話をしました。
キトラ古墳で見つかった最古の天文図について、その歴史的背景について補足します。
きっかけとして考えられているのが、外部環境の危機感です。
時代は7世紀。朝鮮半島では新羅・百済・高句麗の三国時代で、中国大陸では隋が崩壊して唐という統一国家が出来た時代です。
日本もやっと中央集権である大和政権が確立し、上記の異国(渡来人)からの文化を取り入れます。例えば仏教もこのころに百済から伝えられたとされています。
ただ、三国の争いが激しくなり、当時支持をしていた「百済」を助けるべく兵を送りますが大敗してしまいます。俗にいう「白村江の戦い」です。
朝鮮半島を統一したのは、唐の支持を受けた新羅でした。
大和政権はその後、唐・新羅からの脅威を防ぐために、防衛と外交に努めます。
このあたりは、8世紀に作られた日本最古の歴史書の1つ「日本書紀」で確認することが出来ます。
余談ですが、日本書紀には「ハレー彗星」ではないか?と思われる記載があります。下記の個所です。
「箒星(ほうきぼし)、西北に出づ。長さ丈余」
672年に壬申の乱に勝利して測位した天武天皇は、上記の脅威に備えて都を飛鳥に戻し、政権を整えるべく唐の律令制を参考に新制度を導入します。
その1つが中国で生まれた「天文による占い」で、国内初の天文観測所「占星台」を造り、専門組織を配置します。
「陰陽寮(おんようりょう)」と呼ばれる役所で、「天文博士」という専門家がここで登場します。
「陰陽」と聞くと、呪術使い「安倍晴明」を連想するかもしれませんが、実際中国の「陰陽五行説」を元にしており、上記の関連組織で占いを専門に職務遂行していたのが「陰陽師」と呼ばれる人たちです。
後世の平安時代にそこから台頭した1派閥が「安部」家であり安倍晴明です。広義の解釈では、彼も天文学者というわけですね。
話を飛鳥時代、特にキトラ古墳に戻します。
前回触れた通り、発見のきっかけは近場の「高松塚古墳」です。
遺体が置かれた部屋(玄室)の天井に「星座」が書かれていたことが20世紀末の発掘で明らかになります。
太陽・月に加えて、中国の神話に基づく東西南北を示す四神の一部(なぜか南の朱雀だけ未発見)も描かれています。
タイトル画像はその1つの「玄武」です(Wikipediaより引用)
その後に、付近の「キトラ古墳」でも同じように天文図が見つかり、四神が揃っています。
しかも、上記が儀式的な表現に対して、キトラ古墳では、天体の配置についても赤道や黄道(太陽の通り道)などが正確に描かれていました。
これらは中国で生まれた宇宙観から来たものとみられています。
特に、高句麗で過去に同じような古墳が見つかっているため、おそらくはそれをやや日本風にしたものではないかと推測されています。
このあたりがまずは日本の天文学勃興期にあたり、国内の文化・思想とさらに交わって独自の色が彩られていくわけです。
<本文引用以外での参考リソース>