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高堂つぶやき集。
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#茶道

昔この庭を眺めながら、よく空手家と坐禅をしていた。一般的に坐禅は無になりきれと云われるが、私の場合は坐禅後に「もっとよく考えなさい」と先生にお叱りをうける始末で、無思考にもほどがあったようだ。歳を重ねると無に拍車がかかり、身勝手になった。身だけ美しければよしとするのが躾なのだ。

秋に横濱三渓園でお茶を点てさせていただく。客は障がい者の方々が多く、実際に彼らがつくった茶碗や和菓子をおだしする。下見の際、蓮華院は三渓が最も愛した茶室であったと教えていただいた。障がい者人材育成というと技術に焦点があてられがちだが、実際は教養のほうが大事でなのではないだろうか。

ハンガリーの博物館で茶を点てた際、収蔵まえの茶碗を使わせていただいた。ご夫人が逝かれたあとに師が焼いた黒茶碗で、現地の客にも愛でられていた。それから三年後の暮れ、師も急逝し、茶碗だけがその博物館に今も収蔵されている。願わくば百年おきくらいに蔵からだし、一服点てて欲しいものである。

昔の日本人は湯氣に蚯音や蟹眼、連珠、魚眼、松風、雷鳴そして雷鳴の頂といった名をつけ、その聲を愛でた。湯の聲に耳を傾けなくなって久しい。電氣のなかの出来事に名をつけるのに忙しかったからであろう。今はもうたしかな湯の聲をだす釜も釜師も少ない。それでも私たちは湯の聲を聴くべきなのだ。