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高堂つぶやき集。
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2021年4月の記事一覧

ジョン.C.リリーという贔屓のイルカの博士がいる。ドラッグの助けを得ながら、彼はもっともらしい論文をいくつか発表しているが、最も重要なことは秘したと云われてきた。そのひとつにイルカのたったひと鳴きにおそろしいほどの情報量が組み込まれているというのがある。本来、字も一字でよいのだ。

ウランバートル郊外の草原にはところどころ頂に神が祀られてある。一見、神だとはわからない容貌だけれども、たしかに独特な靈氣を放っている。案内してくれたモンゴル人はシャーマンの末裔で、己自身が神殿なのに改めてそれを外界に置く意味がわからないという哲學の持ち主であった。人こそ神なのだ。

引き寄せの法則をはじめとした潜在意識がらみの投稿だけではなく、それを阻害するものに関する書籍も多く見受けられる。それほどまでに潜在意識が一般的に実現化していない事例が多いのであろう。ここだけの話、潜在意識は身体のリラックス状態に大きく左右される。躾られた者こそ、ほしいままなのだ。

古来、禅が侍に愛されてきたのは斬りあう前からすでに勝敗は決まっており、それ故に闘う必要がまったくない境地があるためになる。現代では効率的に物事を選択していく風潮がある。こちらも同様、正解を選ぶのではなく、選択したものが真理となっていく境地があるわけで、こちらを目指された方が早い。

日本に華道ができたのは「花も我が身もともに儚し」という内觀があったからだが、私は櫻よりも水木の花に儚さをまいとし感じる。櫻の散りは儚さの代表だけれども、それ故にどこか衒いが生じてしまうのだろう。対照的に、水木には散りをどこか秘した儚さがある。兎にも角にも、花は儚く散るから美しい。

なみだ巻という觀光用の巻物がある。なみだとは山葵の隠語で、つまりは山葵しか入っていない巻物のことである。涙を流させようと一所懸命山葵を擦る鮨屋があるが、本来は觀光用といえども山葵は切って巻かれるものになる。過日、沼津港の古川でなみだ巻を家人と食したが、こちらはたしかな涙であった。

勤めを終えた眼下の駅を眺めていると、改めて駅の静かさのよさを感じる。あくる朝になれば都会の喧騒が再びやってくるのだろうが、それまで静寂は踊り狂うのか。兎角、静かだ。品川もつまらぬ開発に堕してしまったものの、ふと昔を思い起こさせる深夜には、たしかに品というべき大河が流れてはいる。

銀座九兵衛の大将に握ってもらった際、醬油皿に鳥が二羽飛んでいた。その折は「あゝ、鳥だ」と感嘆しただけであったけれども、今その一葉を見返すと、なぜ人はこれを鳥と視るのかとおもってしまう。否、おそらく十中八九は鳥として認知されるだろうが、実際は筆でさっと書いただけのものなのだから。

昔この庭を眺めながら、よく空手家と坐禅をしていた。一般的に坐禅は無になりきれと云われるが、私の場合は坐禅後に「もっとよく考えなさい」と先生にお叱りをうける始末で、無思考にもほどがあったようだ。歳を重ねると無に拍車がかかり、身勝手になった。身だけ美しければよしとするのが躾なのだ。

私は櫻よりも椿の散りが好みだ。よく武士道で云われてきたような花ごとおちる潔よさに惹かれているのではなく、その後のうつ伏せぶりにそこはかとなきよさがある。うつ伏せは概して顔を左に向ける等、呼吸の確保に走るところがあるが、こと椿においては、花の正面を土にぶつけて睡る始末。至極よい。

キュランダ高原鉄道の車窓から目についたのは、意外にも鉄道そのものであった。曲がり狂った線路のためであろう。かなり向こうまで乗車中の鉄道そのものが見えた。人も鉄道も相当曲がりでもしない限り、なかなか己がわからないものである。逆に己が視えているのは、今大きく舵を切っているからなのだ。