光る君へ 第十四回の感想〜中宮と皇后~
第十四回、観ました。
道兼無残
兼家が、後継者を定めましたね。
当然の事ながら、長男の道隆となりました。
激怒する道兼。
「さっさと死ね!」
参内もせず、飲みふける道兼。
挙げ句の果てには、奥さんと娘さんに、逃げられちゃいましたね。
まあ、史実では、これより前に別れているみたいですが、ドラマ的に面白くしたんでしょうね。
それにしても、自業自得とはいえ、可哀想でしたね。
輝かしき日々
兼家が、寧子の前で、蜻蛉日記の歌を読みましたね。
ドラマとはいえ、兼家が、蜻蛉日記を引用して、輝かしき日々であったと語るのは、少し感動しました。
実際の兼家は、蜻蛉日記について、何も語ってないんですよね。
なので、ドラマとはいえ、兼家の口から、蜻蛉日記の事が語られたのは、とても新鮮な感じでした。
兼家と月
月を見て、兼家は笑いましたが、次の瞬間、月が赤く染まっていきましたね。
兼家から笑顔が消えたあと、死が訪れたようです。
今まで殺めてきた者たちの血で、月が染まったのでしょうか?
前回からつづく、明子女王の呪詛によるモノなんでしょうかね?
もしかしたら、くも膜下出血などで、兼家の視界が血で真っ赤になったのかもしれませんね。
一方、明子女王は、呪詛の影響で、お腹の子が流れてしまいましたね。
気遣う道長に、こんなはずじゃなかったみたいな顔をする、明子。
心境の変化が訪れているんでしょうかね?
リアル筑前守
藤原宣孝が、筑前守に就任しましたね。
演じる、佐々木蔵之介さんは、前回の大河で、羽柴秀吉を演じていました。
ついに、リアル筑前守になったわけですね。
親友の宣孝が去ったあと、ヒロインの父、為時は、涙を流します。
親友との別れが悲しいのか、親友と比べて、うだつの上がらない自身が情けないからなのか、親友に心配させてしまい、申し訳ないからなのか・・・。
いろんな感情が混ざっているんでしょう。
中宮から皇后?
さて、道隆が、意味不明な事を言いました。
「中宮の遵子様には、皇后にお上がりいただき、定子様を中宮になし奉るつもりじゃ。」
当時、皇后の事を中宮とも呼んでいました。
別の言い方くらいの感覚で、別の役職という概念は有りません。
今で言うなら、岸田総理には、首相になっていただき、私が総理になるつもりだ・・・みたいな事です。
並び立つはずがないんです。
前例が有るとか無いとか関係なく、ただただ意味不明な内容なのですが、詳しく語ると、ドラマのテンポが悪くなるからでしょうか、そのまま話が進んでいきましたね。
さて、では、中宮とは何か?
これを説明するには、西暦701年に制定された、大宝律令から話さねばなりません。
律令制が導入された際、皇后・皇太后・太皇太后の世話係の役職が設けられました。
それが、中宮職です。
ちなみに、皇后とは、天皇の妻という意味です。
これは、みなさんも御存知ですよね。
そして、皇太后は、前の天皇の妻となり、太皇太后は、前の前の天皇の妻となります。
それらの后妃の世話役が、中宮職だったのです。
ところが、律令を制定して間もなく、不測の事態が発生してしまいます。
文武天皇が、25歳の若さで崩御してしまったのです。
皇子は、まだ幼かったので、文武天皇の母、阿陪皇女が、中継ぎの天皇となります。
元明天皇の誕生です。
その後、文武天皇の姉、氷高皇女が、元正天皇となり、女帝が二代続く事となりました。
その間、中宮職は、全く機能していませんでした。
しかし、西暦724年に、聖武天皇が即位すると、状況は一変します。
ちなみに、聖武天皇は、文武天皇の皇子です。
この時、聖武天皇は、生母の藤原宮子を皇太夫人としましたが、その世話役に、中宮職を抜擢します。
皇后も、皇太后も、太皇太后も存在していなかったので、可能だったんですね。
その後、西暦729年に、藤原安宿媛こと、光明皇后が、聖武天皇の皇后となりますが、中宮職は、藤原宮子を世話していましたので、新たに、皇后宮職が設置されました。
これ以降、皇太夫人の世話は、中宮職がおこない、皇后の世話は、皇后宮職がおこなう流れとなりました。
それから、しばらくすると、皇太夫人の事を「中宮」と呼ぶようになっていきます。
総理=首相のように使われ始めたのです。
ですので、奈良時代においては、中宮とは、皇太夫人の事を指す言葉でした。
その後、皇太后が現れると、皇太后宮職が設置され、太皇太后が現れると、太皇太后宮職が設置され、別個に、お世話する運営方式へと転換されていきました。
ところが、平安時代に入り、しばらくすると、皇后に立てられる女性が現れないという状況が続いてしまいました。
理由は定かではありませんが、とにかく、皇后が存在しない時代が、百年ほど続いたのです。
そして、西暦923年、醍醐天皇が、女御(天皇の妃)の藤原穏子を皇后に立てた事で、久々に皇后が復活しました。
そして、この時、穏子の世話係となったのが、中宮職でした。
中宮職が復活したのです。
これ以降、中宮職は、皇后の世話をする係となり、人々の間では、中宮と言えば、皇后の事を指すようになっていきます。
そして、ようやく、ドラマの時代・・・。
西暦990年は、定員オーバーの状況になっていました。
太皇太后の席には、冷泉天皇の皇后だった、昌子内親王が着いていました。
皇太后の席には、一条天皇の生母で、吉田羊さん演じる、藤原詮子が着いていました。
そして、皇后には、藤原遵子が着いていたのです。
そもそも、円融天皇が、藤原詮子を皇后としていれば、こんな問題は起きませんでした。
詮子が皇后であったなら、一条天皇即位の段階で、詮子が皇太后となる事で、皇后の座は空席になったのです。
ところが、兼家が嫌いな円融天皇は、藤原遵子を皇后にしてしまいました。
そのため、変な状況が発生してしまったのです。
でも、道隆は諦めませんでした。
そこで、生み出されたのが、世話役を変更させる作戦でした。
それまで、皇后の藤原遵子を世話していたのは、中宮職でした。
しかし、道隆は、担当部署を皇后宮職という新たな部署に変えてしまったのです。
そうなると、中宮職には、世話をする相手がいない状態となってしまいます。
そこに、定子を当てようじゃないか・・・という、意味不明な事を強引にやってしまったんですね。
今で言えば、岸田総理には、首相になっていただき、丸の内あたりに、首相官邸を建てて、そこで暮らしてもらい、私は、総理として、総理官邸で暮らす・・・みたいな話です。
貴族たちが、反発するわけです。
道隆は言います。
皇后が二人になったけど、世話係が別だから、大丈夫!
貴族たちが言います。
そういう問題か?!
どちらも皇后ですが、区別しないと、ややこしいので、中宮職の世話を受ける定子の方を、中宮と呼ぶようになったわけですね。
そして、これが、道隆死後、ブーメランとなって返ってきます。
弟にしてやられるとは、道隆も、想像していなかったでしょうね。