吉備津彦の物語から製鉄の歴史を探る
欠史八代 第十一話 第七代 孝霊天皇 ③
今回は、吉備津彦の物語から「製鉄」を考えてみたいと思います。
あらすじ
阿曽の里人々が幸せに暮らしていたところ、百済の王子である温羅がやってきて、足守川流の新山に城を築き岩屋に住みついた。温羅は悪行の限りを尽くし、里人たちを苦しめた。そこで、里の人々は朝廷に陳情し、吉備津彦が派遣された。吉備津彦は吉備の中山に陣を据え、西に石の楯を築いた。そして温羅との戦いに勝利し、再び阿曽の里に平和が戻った。というお話です。
この物語では製鉄について直接は言及されていませんが、この地には日本最古の製鉄遺跡があり、温羅はしばしば「製鉄技術を持ち込んだ渡来人」として語られます。
吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子で、彦五十狭芹彦命の別名です。皇紀では紀元前、私の想定では2世紀後半〜3世紀始めの人物です。
吉備津彦が石の楯を築き防戦準備をした「楯築遺跡」は、2世紀後半に築造された吉備の王墓です。
「温羅」の本拠地である「鬼ノ城」(新山)は古代の山城で、築造は吉備津彦から約500年後の7世紀後半です。「白村江の戦い」のあとに築かれた防衛施設の一つと考えられています。もっとも、城が築かれる前に「温羅」のモデルとなる者がそこに住んでいたかもしれません。それはおそらく日本最古の製鉄遺跡「千引カナクロ谷遺跡」で製鉄を行った民であったと思われます。
千引カナクロ谷遺跡pdf
https://infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1002kinojyo02.pdf
日本で砂鉄と木炭を用いて純度の高い玉鋼を生産する「たたら製鉄」が始まったのは6世紀と考えられています。
ここまでをまとめると、吉備津彦を祀る「吉備津神社」、古代山城「鬼ノ城」、日本最古の製鉄遺跡「千引カナクロ谷遺跡」、弥生時代最大級の墳丘墓「楯築遺跡」、百済救援の為派兵し大敗を喫した「白村江の戦い」。吉備の名所と歴史上の人物・出来事を網羅した時空を超えた説話であるものの、歴史目線では矛盾があると言わざるを得ません。
鉄の話し
鉄は紀元前3世紀頃には鉄製品が日本列島に伝わっていましたが、国内では原料となる鉄鉱石を産出しませんので鉄の生産は行われていません。砂鉄と木炭を用いた「たたら製鉄」が始まったのは6世紀以降です。それにもかかわらず、弥生時代や古墳時代の各地の遺跡からは鉄製の武器・農工具が出土しています。一体どのように素材を調達して作られたのでしょう?
その答えは『魏志東夷伝』の「辰韓伝」にあります。
辰韓は、古代に朝鮮半島南部にあった部族連合の一つで、その中の斯蘆国が後に新羅となります。その辰韓では鉄を産出したようです。「鉄が産出され、韓、濊、倭はみな許可を得てこれを取っている。市で物を買う時に、中国では銭を用いるように、ここでは鉄を用いている。また、楽浪・帯方の二郡にも供給している」と『魏志東夷伝』の「辰韓伝」に記されます(意訳)。
貨幣としても用いられていたようですが、日本には鉄素材として運ばれ、各地で確認されている鍛冶工房で武器や農工具に加工していたと考えられます。それが下の画像の「鉄鋌」です。
以前の記事でも書きましたが、3世紀以降、朝鮮半島南部の遺跡からは、山陰・瀬戸内・九州南部の土器が出土します。
『後漢書』は、桓帝・霊帝の在位期間(146~189年)に倭国で大乱があったと記します。
倭国で大乱があって、その後朝鮮半島南部の遺跡から出土する土器が北部九州以外の地域に広がるわけですから、倭国大乱とは、鉄をめぐる争いだったのではないかと想像します。
つまり、『魏志倭人伝』に卑弥呼を共立しておさまったと記される倭国大乱は、実際は鉄をめぐる争いの結果、鉄の権益を共立国にも認めたことで戦いがおさまり、各国が辰韓へ取りに行くようになった。それで朝鮮半島南部で各地の土器が出土するようになったと考えるのが自然ではないでしょうか。そして、卑弥呼を共立した国々は、北部九州・出雲・吉備・九州南部の国々であったと考えられます。ちなみにこの頃近畿や東国の土器は出土しません。
吉備の話しに戻します
2世紀後半、吉備では弥生時代最大級の墳丘墓「楯築遺跡」が築造されました。吉備の王墓です。
古代吉備は、北部九州・山陰・北陸・近畿・東海ともつながる「瀬戸内海を本拠とする海人族」であったと考えられます。『記紀』が記す「吉備津彦」の時代を、私は「楯築」の王墓が築造された頃(2世紀後半)か、もう少し後(3世紀初め)だと考えています。そして倭国大乱も2世紀後半の事と中国史書が記します。
以下は私の妄想です。
各地と交易を行い、弥生時代最大級の墳丘墓を築造するほど繁栄していた吉備がなぜ大和政権に組み込まれたのか?『記紀』記述と、各遺跡の遺物から考え創作してみました。
吉備の偉大な王(楯築に眠る王)が亡くなると、その機に乗じて出雲が吉備に侵入してきました。吉備はかねてより交流のあった大和へ助けを求めます。大和は初代神武天皇以来奈良盆地の出雲勢力と血縁を深め、次第に頭角を現していました。この頃には奈良盆地の出雲勢力は衰え、大和政権内部では物部氏・尾張氏らが台頭。大和は第七代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命を吉備に派遣し、吉備から出雲勢力を追い払いました。彦五十狭芹彦命はそのまま吉備にとどまり、「大吉備津彦」と称えられ、子孫も代々「吉備津彦(吉備の王)」となって吉備国の発展に尽力しました。
神武天皇東征の折、吉備で東征準備を整えたと『記紀』は記します。そして奈良盆地の弥生遺跡からも吉備との交流を示す外来土器が出土します。長い間友好関係を保ってきた吉備に、大和の支配が及ぶきっかけになったのが楯築に眠る王の死だったのではないかという仮説で、友好国の吉備を助けるために大和が吉備へ侵攻したと妄想しました。
出雲が吉備に侵攻したと記す文献はありません。ですが、出雲が吉備に侵攻したために、その出雲を討伐する目的で大和から吉備津彦が派遣された。そして吉備津彦が出雲勢力を打ち破り吉備を平定した(大和政権に組み入れられた)と考えることは可能だと思います。冒頭の「吉備津彦の温羅退治」物語の「温羅」を「出雲」に置き換えてみると面白いです。物語では吉備津彦は逃げる温羅(出雲)を必要に追いかけます。出雲には、吉備津彦が出雲に侵攻してきたとする地元伝承があります。そして『日本書紀』は吉備津彦が出雲振根を誅殺したと記します。
大和政権に組み込まれた吉備は、全国4位の規模を誇る前方後円墳(造山古墳)や後続の作山古墳が築造されるなど、5世紀中頃まで栄えます。5世紀末、雄略天皇の御代に「吉備の反乱」がおこるまでは。
造山古墳
大吉備津彦の御陵
最後までお読みいただきありがとうございます。欠史八代シリーズ次回は第八代孝元天皇です。