令和の時代に、義務教育・高等教育が果たすべき役割についての考察
戦後日本社会や教育の価値観の変化
まず、昭和・平成・令和の時代の変遷とそれに伴う教育と時代背景の変化について、キーワードを挙げてみる。
私は、急激な人口減少が続く日本の現状を考えると、教育、特に義務教育、高等教育をデザインし直さなければ、日本の国力を維持回復させる人材を育てられない、という危機感を強く感じている。ここではその理由についてまとめておきたい。
日本の公教育について一義的な責任を負うのは文部科学省である。文科省には、戦後旧文部省が定めた「学習指導要領」という全国一律の指導マニュアルが思いのほか機能し、国民の基礎学力の向上に寄与し、諸外国から称賛された、という成功体験がある。
文科省はいまだにその成功体験の延長線でしか教育行政を考えられないので、時代が激しく変化している令和の時代においても、相変わらず学習指導要領に法的な拘束力をかけて、全国一律の指導を義務付けている。
およそ10年に一度の学習指導要領の改訂に伴って、細かな修正は行われてきたが、これを抜本的に見直す議論はされていない。
私はこの学習指導要領に縛られたカリキュラムこそ、義務教育、高等教育の現場を疲弊させ、不登校児童生徒の激増を招いている原因だという仮説を持っている。ここではその仮説に基づき、現在の義務教育、高等教育の問題点を検証したい。
義務教育に求められるものは
誰でも経験してきたことであるが、小学生たちは皆好奇心の塊である。 小学生に虫眼鏡を渡して校庭に連れて行けば、彼らは歓声をあげながら様々な発見をし、飽きずに探究し続ける。小学生時代は見るもの聞くこと全て初めてなのだから、義務教育段階では、新鮮な感動体験を重視したい。
同時に、いわゆる読み書きそろばんといった基礎基本はしっかりと身につけさせなければならない。筆者は昭和40年代に小学生時代を過ごしたが、先日50数年ぶりに当時の卒業文集を開いて愕然とした。皆字が大変きれいで文体も整っていて読みやすいのである。
一方で筆者が中学校の教員であった平成後半、卒業文集の編集には苦労した。まず原稿用紙のマス目通りに文字を書けない生徒がいる。そして内容も中学時代の感想を述べる物が多く、まるで日記を読んでいるような印象であった。自己の内省や、将来の展望、願いや希望を書いている生徒は少数派で、中には文が書けずに、イラストや絵でごまかしている生徒も多かった。
昔とどこが違うのか考えてみると、昭和の時代、小学校の国語の授業と言えば「書き取り」が中心であった。漢字はもちろん、詩や短文など、板書や教科書をひたすらノートに書き写した経験が多かった。今思えばそのような書き写した体験を通して、日本語の基礎を叩き込まれていたと感じる。
活字文化、読解力崩壊の危機
スマホ・タブレットネイティブの現在の子どもたちは、活字ではなくどっぷりと動画に漬かった生活をしている。放課後の時間帯はYouTubeとTikTokに支配されているのである。
今は新聞を取らない家庭が多いので、彼らが活字に触れるのは、学校の教科書だけなのである。そして圧倒的に「書く」経験が足りない。大学生に論文を書かせても、字が汚くて読めない学生が一定数存在する。やはり小学校時代に学力の基礎基本である「国語力」「読解力」は徹底的に鍛えておくべきだと確信している。 午前中は基礎学力を徹底的に鍛え、午後は各自の興味関心に応じて好きな事を深彫りさせるようなカリキュラムが必要だと感じている。
また英語に関しても、今は小学校3年生から教科として指導しているが、実際に社会人になって、英語を母国語とする人間とコミュニケートできる人物は少数派である。8年~10年教科としての英語教育を受けていてもこのありさまである。
英語教育に関する様々な学会でも義務教育段階での指導法について様々な議論が行われていると聞いているが、例えば都立高校の入試では4技能(読む・書く・話す・聞く)を全て課すように変更されたが、その制度変更に伴い、中学校現場の負担が増えていて教員が疲弊している、という話も聞いている。入試に出るから勉強させるのではなく、英語が楽しいと思える仕組みづくりが必要なのではないか。
高等教育に吹く風
今中学校を終えた段階の若者たちやその保護者の支持が急拡大しているのが、新しいタイプの通信制の高等学校である。以前からサポート校などと連携し、単位を取得することで高卒の資格が得られるという通信制の高校はあった。その対象は、主に中学校で不登校だった生徒や、一度は高校に進学したが、なじめずに中退した生徒達であった。
しかし今注目されているのは、インターネットとICTツールを活用し様々な体験活動を重視した通信制の高校である。KADOKAWA・ドワンゴが運営するN高等学校・S高等学校・R高等学校(2025年4月開校)や堀江貴文氏が主宰するゼロ高等学校などである。
これらの高校では、座学ではなく行動をテーマに、様々なコースを展開している。eスポーツやダンス、投資や起業、語学やファッション、農業や酪農など様々な学びが提供されている。今そんな通信制の高校が、自分のやりたいことがはっきりしている生徒や、もっと好きなことにのめりこみたい生徒の支持を集めているのである。
文科省がデザインしている高等教育、すなわち普通科、商業科、工業科、農業科、などの高等学校は、学習指導要領の縛りがあるので、自由にカリキュラムを編成することは難しい。どうしても座学中心の従来型の授業が多いが、新しいタイプの通信制高校は、高校卒業時に必要な最低限の単位取得をクリアすれば、あとの時間は自由に活用できるという制度を利用して、若者たちに魅力的なカリキュラムを提供しているのである。
ここにも文科省のデザインしている高等教育のほころびが表れているのではないか。普通科の高校を卒業して社会人になっても、結局就職先の企業で教育を受けなければ「使える」社会人にはなれない。だったら高校時代の貴重な3年間で、好きなことにのめりこんで専門性を高めたい、と思う若者が増えるのも当然である。
ましてや普通科の進学校に入学するために、膨大な労力を使って受験勉強で疲弊し、高校時代も有名大学目指して受験勉強に明け暮れる、という生活は、今の若者たちに受け入れられなくなっている。たとえ一流大学と呼ばれる大学を出て、大企業に就職したとしても、そんなキャリアは自分が望む明るい未来とはならない、と感じている若者が増えてきている。
文科省は、「学習の個性化」を言うのであれば、義務教育や高等教育をゼロベースで見直すぐらいのことをしなければ、この国の未来を支え、世界で活躍できる人材育成など絵に描いた餅であると私は考えている。
全国一律を強いる学習指導要領の弊害
どんなに不登校児童生徒が増えても、子ども達の学力の2極化が顕在化しても、文科省は現行の学習指導要領を手放そうとはしない。理由は明らかで、学習指導要領こそが文科省の存在意義であり、彼らががっちり握っている利権だからである。
学習指導要領には法的拘束力=実施義務が課されているため、もし逸脱した教育活動を行ったり、未履修だったりすれば、文科省から厳しい処分を受ける。教育委員会や学校法人は厳しく「指導」され、教育予算を削られるなどのペナルティを受けるのである。
本来義務教育は、地域の実態やそこで暮らす子ども達の実態など、地域のニーズに合わせて柔軟に展開するべきだと思うが、今はそんな自由な教育活動は行えない。現行の学習指導要領と教科書検定制度の下では、北海道から沖縄まで、全国一律に、同じ教科書を使い、同じ時期に、同じ学習内容を、一斉に指導しなければならないのである。地域の多様性や教師の独自性を生かすことはほとんどできない仕組みなのである。
どんな地域にも、その地域ならではの特色や文化があるし、そこで生まれ育って様々な実践を行っている指導者もいる。しかしそんな実践を授業として展開したくても「教科指導」には取り入れられない。なぜならば「教科」は厳重に指導のカリキュラムが定められていて、余計な指導を盛り込む時間は確保できない。
しょうがないから各校長は「生活科」や「総合的な学習の時間」などある程度学校裁量で運営できる時間に「特色ある教育活動」として独自のカリキュラムを細々と展開しているのである。
しかもそれら特色ある教育活動に対しても、事前に教育委員会に届け出て、許可を受けなければならない。なんとも息苦しい話である。
何か新しい教材が見つかり、これを授業で展開したくても、あらかじめ教育委員会に届け出なければならず、実施できるのは早くて翌年度になってしまうのだ。
際限ない「冠教育」の増加
一方で、文科省は全国一律で新しい冠教育を実施しろ!と通達を出してくる。新しいところでは「プログラミング学習」である。令和2年度から小学校で、令和3年度からは中学校で、そして令和4年度からは高等学校でも指導することが義務付けられた。
しかし教育課程上の位置づけは「全学年で行うものとする」とだけ定められていて、新たに時間割に「プログラミングの時間」が設置されることはない。(時間割は教科の指導でパンパンなので、余計な時間を組み込む余裕はない)どうするかと言えば、算数や理科などの教科の時間に少しずつ行うこととする、となっている。
要するに時間は確保しないけど、既存の教科指導の中でちょっとずつ触れてください、なのである。プログラミングを指導するので、その分現行の教科を減らす、ということは絶対に行わない。教科以外の「冠教育」は全て同じである。
カリキュラムの肥大化と教員の負担増加の原因は、まさにこの点なのである。冠教育については文科省のホームページに載っているものだけ取り上げても、・外国語教育・道徳教育・環境教育・放射線教育・メディア教育・人権教育・キャリア教育・教育の情報化・国際バカロレアの趣旨を踏まえた教育、が挙げられる。
それ以外にも、思いつくままに記してみると、・情報教育・ICT教育・著作権教育・ネットリテラシー教育・ネットモラル教育・プログラミング教育・特別支援教育・ユニバーサルデザイン教育・インクルーシブ教育・主権者教育・平和教育・性教育・LGBT教育・オリンピック、パラリンピック教育・金融教育・消費者教育・税教育・起業家教育・安全教育・交通安全教育・自然体験教育・福祉教育・規範意識教育・心の教育・国際理解教育・ボランティア教育・多文化共生教育・食育・健康教育・防災教育・がん教育・NIE(新聞を取り入れた教育)等枚挙に暇がない。
今この原稿を書いていて、改めて冠教育の多さに打ちのめされている。時間も確保しない中で、これだけの負担を教員に強いているのである。
とにかく平成の後半から令和にかけて、この冠教育が増加の一途である。校長は毎年、次年度の教育課程を作成し、教育委員会に届け出るのだが、その提出の際に指導主事たちは何を見ているかというと、校長の教育方針や理念、育てたい生徒像やそのための職員研修など、校長が一番アピールしたいことには一切目もくれず、文科省が要求している「冠教育」がもれなく盛り込まれているかどうかだけを血眼でチェックするのである。
彼らにしてみればもし教育課程上、指導内容の漏れがあれば、自分たちが文科省から指導を受けてしまうので、そうならないように指導項目が全部網羅されているかどうかチェックするのに必死なのである。
義務教育の限界
義務教育の現場はもう限界である。本来の授業や児童生徒指導以外にてんこ盛りの「冠教育」を押し付けられて、教員たちも管理職も疲労困憊、ついに教員の病気休職者は令和4年度時点で全国で7.119人となり過去最高を記録した。また病気休職にまでは至っていないが、精神疾患による1か月以上の病気休暇の取得者をくわえると13045人に達し、これも3年連続で過去最多を更新した。(文科省調査)
さらに病休までいかなくても心や身体を病んでいて、限界に追い詰められている教員を加えたら、その数は倍以上になるであろう。そこに追い打ちをかけているのが志願者の減少である。
筆者は現在私立大学で、教職課程を専攻している学生たちに、採用選考受験のための支援(論文作成指導、面接指導)を行っているが、新卒で教員を目指す学生が激減している。
一昨年は40名近くを指導していたが、昨年度は20名に減った。そして今年度指導して合格した学生は6名である。少子化による人手不足を背景に、企業の採用活動も今や「奪い合い」の状況なので、多くの学生たちは、ブラックと言われる教職を避けて、民間企業を志望しているのだ。教員不足は今後ますます深刻さを増すであろう。
教育にも規制緩和が必要なわけ
この原稿を書いている間に、令和5年度の不登校児童生徒が、11年連続で過去最高となり、小学生が13万370人で10年前の5倍、中学生が21万6112人で10年前の2.2倍、合計34万6482人で、令和4年度と比較して、15%も増加したとのニュースが飛び込んできた。
私はこの数字こそが義務教育の崩壊を意味していると思うが、この不登校児童生徒の増加に関して文科省は「子どもの状況に応じた教育が必要だという保護者の意識の変化も背後にあると考えられる。不登校の要因を的確に把握し、きめ細かな支援が必要だ」とコメントした。
実は文科省は、昨年は「コロナの影響で一時的に不登校状態が増えただけで、コロナが収まれば不登校も減少すると思われる」とコメントしていたのである。
しかしもうコロナのせいにはできない。しかし彼らは、自分たちの教育行政と児童生徒の実態とのミスマッチとは口が裂けても言えないので、自分たちの教育行政が間違っているのではなく「保護者の意識の変化」を要因とするなど、完全に他人事として問題をすり替えている。さらに「要因の把握」すらできていない。これで的確な対策など打てるわけがない。
まずは義務教育の当事者として、現行の学習指導要領に縛られた教育行政を正しく評価するべきではないのか。被害者は子ども達である。怒りを禁じえない。
令和3年度の中教審答申を受けて、文科省は個別最適な学びの姿として「指導の個別化」と「学習の個性化」を現場に求めてきたが、はっきり言ってこれは学習指導要領の趣旨=学力のスタンダードとして一律に指導内容を規定する、と矛盾しているのではないか。
子ども達の興味関心は全員違うのだから、一律のカリキュラムの中で「個別化」や「個性化」を図ることは最初から限界があるのは自明である。おそらく文科省の官僚たちも、この矛盾には気づいているはずだが、彼らは利権である「学習指導要領」を絶対に手放すことはしない。
学習指導要領の是非が、国会で論争になることを恐れて、情報提供もしない。物言わぬ国民たちを目覚めさせないように、不登校の原因を保護者にすり替えているのである。
少子高齢化が加速している日本の国力を維持回復させるために、本気で「世界に役立つ」日本人を育成するには、現行の学習指導要領は大きな足かせになっている。一人でも多くの研究者がこの重大な事実に注目し、保護者や地域を巻き込んで声を上げてくれることを願っている。
令和7年、不登校児童生徒と、病休に追い込まれる教職員、どちらも過去最多になるのではないかと危惧している。義務教育の崩壊はもはや臨界点に達してるのではないか。4月には担任が配置できない学校が各地で多発するのではないかと危惧している。