見出し画像

『「40歳を過ぎて、大学院に行く」ということ』㉑「ボウリング」と「交流会」

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「体調」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。


大学院で学ぼうと思った理由

 元々、私は家族介護者でした。

 1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。

 そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。

 そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
 私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。

「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由

 それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。

(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。

 同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間感じてきました。

 もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士公認心理師を目指したい。

 さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。

 この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
 よろしくお願いいたします。

 今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、秋の新学期になってしばらく経った、10月の話です。

 もしかしたら、同じような環境の方に、わずかでも参考になるかもしれません。もし、よろしかったら読んでもらえたら、うれしく思います。

体調

10月1日。金曜日。

 心理検査の課題が出来てなくて、それで歯医者が終わってから、わりと早めに大学へ着くように出かけました。

 閲覧室に何人かの同期がいて、そのうちの一人に心理検査のやり方を聞いて、採点をして、グラフを書いて提出が出来ました。御礼をしようと思ったので、「コーヒーでも」と、100円を渡そうとしたら「お金はダメです」と別の若い同期の女性に言われて、ひっこめました。恥ずかしいですが、その通りでした。

 それから、食事をして、講義になりました。本を読んで、それぞれのレポーターがいて、いろいろと話をして、時間が過ぎていきます。何かのおりに、当然の前提なのですが、20代の同期の人たちと比べても、働く場所がある社会人の同期と比較しても、未来がないような気がします、といったことをチラッと言ってしまったことで、教授が私に気をつかってくれたみたいで申し訳ないような気持ちにもなりました。

 こんな話題が急に出ました。

 私に関して、年齢に対して自由な気がするとか、どちらかと言えば中年女性化しているのではないか、とか、そういう事を言ってくれて、ありがたいのですが、やっぱり恐縮をしていました。

 明日の朝が早かったり、やらなくてはいけない事がすすんでいなかったりと、いろいろな要素がからんでいたり、休学を決めた人の事も、やっぱり影響しているのかもしれない、などと思いつつ、なんだか気持ちが沈んでいました。

 講義が終わってから、何人かの同期の人たちと、地下鉄の駅まで歩き、そういえば、おつかれさま、って昔は言っていたんですか?と聞かれる。そういえば、同級生同士では、そういう言葉は言っていなかった、などと思い、今は大学時代から、その言葉を使っていると知り、意外だったりもしました。

 地下鉄に乗り、同期の人と、体調の悪さについて話をしていたら、時間が過ぎて、そのうちに途中で降りて行きました。

 これから家に帰り、妻と入れ替わるように、義母の介護が始まります。眠るのは、おそらく午前5時近くになるはずですが、明日はとても早いので、かなり気持ちが重くなりました。

商店街

10月2日。土曜日。

 いつもは夕方からの講義がほとんどなのですが、土曜日だけは、朝の9時半までに学校へ行かなくてはいけません。夜中は介護があって、眠ったのが午前5時を過ぎていたと思います。

 それは自分だけの都合ですが、眠いし、それでも布団に入ったからといって、よく眠れないし、でも、起きて地下鉄に乗りました。途中で、うとうとしていたら、隣に、どこかで見た人が、と思ったら、同期の女性でした。帰りは一緒になったりもするのですが、行きは初めてでした。一応、こちらには気がついてくれたようですが、まだ半分以上、眠ったような顔をしていて、しばらく眠っていました。なんだか、こちらは眠れなくなりました。

 駅に着いて、歩いて、学校内に入って、自動販売機でコーヒーを買って、閲覧室へ着いたら、先に一人だけ同期の人が来ていました。地下鉄で一緒だった同期の女性は座って、ずっと寝ていました。

 時間が来て、講義の時刻になり、教室へ向かいました。部屋にあるイスを前に出して、机は全部下げて、輪になるようにイスを配置して、それから、そこに名札をかけて座って、時間が来て、担当の教授がいらっしゃっいました。

 事例を発表する人が、その場で決まり、それから話し合いに入り、時間をかけて、話は少しずつ明確になり、自分もしゃべったのですが、他の人の話も聞いて、ああ自分が狭いんだな、という気持ちにもなり、それから、2時間くらいで話が終わりました。

 これまでの事例検討会とは違う方法でしたが、新鮮で充実した時間でもありました。

 そして、まだ昼くらいだったので、そこから有名なお寺のある商店街に移動し、教授の方々も交えて、食事会という事でやや豪華な和食をいただきました。美味しかったです。

 なんだかわきあいあいとしていたのですが、何しろ、傷つけない、傷つかない、という話題が多く、その意図にはとても賛成するのですが、そうした言葉が多く出てくることに少し違和感を憶えるのは、自分が歳をとって,知らないうちにいろいろな事があり、少しタフになったから、という事だとも思いましが、同時に、それが臨床心理学でもあり、現代でもあるのだとも考えました。

 でも、実際に社会に出ると,私ぐらいのタフさでは、今は話にならないほど世の中が厳しくなっているから、自分が、ある意味ではとても中途半端な状態なのかもしれない、と改めて思いました。だから、人生経験があるから、とか、組織を知っているから、とか、言われるとかなり気恥ずかしいのは変わりません。何しろ、会社という組織にいたのは3年で、それもその期間で2社にいたから、大学を出て新卒で入った最初の会社は1年半で辞めていましたから、会社員の経験としては、あまりにも貧しいものだったからです。

 そうやって時間が過ぎ、教授陣は、去り際が早く、さーっといなくなり、その一方で、その料理屋さんの写真に勝新太郎や、宝田明とかを見つけて、宝田明が若い世代には、もう知られていないことに微妙にショックを受け、こうやって人は自分の生きてきた年齢を受け入れていくのかとも思いました。

 その店を出てから、この近くの有名なお寺に行く、ということに、いつの間にかなっていて、若い同期の人達といっしょに歩き始めます。

 その商店街は、やっぱり高齢者が多くて、ホントに多いですねー、と若い人が笑うくらいだったけど、私は高齢者に近く、若い人と行けたから、娯楽感があって有り難く、でも、お寺に行く人たちには、やっぱり切実さがあったように思いました。

 地蔵をお参りしようと並んでいると、その地蔵さんをふくタオルを100円で売っていて、そのお寺の経済活動の凄さを思ったのですが、それでも買いました。

 それから、順番を待っていて、いっしょに行った同期の女性達がすごい勢いで顔をふいているのを見て、なんだか笑ってしまったけど、もちろん本人達は真剣で、だけど、それ以上きれいにならなくてもいいのに、みたいな事も感じてしまうのは、どこか失礼なことでもあるし、自分が若くなくなってしまったからだと思いました。

 参拝が終わってから、商店街を歩き、はちみつ屋を見てから、また歩き、ちりめんやを見ている途中で、なんだかさすがに少し疲れて、外のベンチで待っていました。

 歩いていく、いろいろな人達を見て、自分の半分くらいの年齢の人間と一緒に有名な地蔵に来ている自分が不思議でした。だけど、こんなある意味で夢のような生活も、あと1年半で終わります。ベストをつくそうと改めて思いました。

 昔、自分の書いた本に興味を持ってくれた人に本を渡せました。夜に御礼のメールをもらいました。ありがたいことでした。そして、また学生生活はまだ続いていく事に、いろいろとやる事はある、と思いながらも、まだ続いていくことが、とても嬉しく思いました。

 今日も夜中まで介護は続きます。

講義

 10月4日。月曜日。

 まだ何もしていないような気がして、気持ちだけが微妙にあせって、でも時間が進んでいきます。あれだけゆっくり時間が過ぎていた、春よりも毎日が確実に早く過ぎていくような気がしていて、それに対してあせって、でも、だからといって急に、何かが出来るわけでもありません。

 昼間にいろいろやったとしても、それほど進まず、だけど気になっていた人へメールを出すことも出来たので,少しホッとはしていました。それから外へ買い物へ行き、最初は少し昼寝をしようと思っていたけれど、それも出来ず、義母がデイサービスから帰ってきて、それから大学へ向けて出かけたら、午後6時頃着きました。

 大学へ着いたら、同期が一人しかいなくて、「教室どこでしたっけ?」と聞いたら、その人も「誰かに聞こうと思っていました」と言われ、あれれ、と思っていたら、また一人やってきて、その人も分からないまま、掲示板に見に行ってくれて、それで教室が分かりました。

 最近は、新しく出来た建物があり、その中での講義が多くなってきて、変更も少なくなく、やや混乱することもあるのですが、その新しい建物の中のようでした。

 エレベーターで上がったら、最初に会った3人しかいなくて、教室はまだ暗いままでした。これしかいないのだろうか?と思ったが、あとから何人か来て、だけど全部で7人くらいしかいなくて、私は、実習ゼミでお世話になっている先生で、だから講義も受けたいと思っていて、だから、何だかもったいないとは思っていて、それででも講義が始まります。

 レジュメには、事例、というか、その先生が関わった面接のことなどを書いてあって、それを読みながら、一人一人に「どう思いますか?」と聞いていって、それぞれが知恵をしぼって、というより、もし、その場にいたら、と想像して話をしているから、それぞれの個性というか立場も出ていたように、思いました。

 そして、何しろ、その先生の発言が、なんだかすごくて、実習ゼミで伝わってきた鋭さみたいなものを改めて感じていました。講義の途中で、この先生が、〝この臨床心理士の世界で、すごいと言われる人に教わって、そして、こういう人にはなれない、と感じ、そして、真面目にやればいいと思った〟という話をされていいました。

 でも、今日話を聞いていると、この人だって、こちらから見たら経験とかをつんでも、こうなれるのか?というある種の飛躍みたいなものを感じたのですが、それでも、全体としては肯定的な空気がやはりあって、それは信じる、というような事がベースにあって、それこそがポイントではないか、みたいな気持ちにもなりました。

 ただ、それはポイントなどいう表現ができるような、外側から身につけられるものではなく、元々あるもの、というか、他に真似ができないもの、としか思えないものでした。

 それはある人には当たり前にあって、ない場合は、まったく理解を越えたものとして、神秘的なものとしか思えないものではないか、とも感じたりもしました。分かる人には分かるけれど、分からない人には絶対に分からない、というようなものかもしれず、それは文章では伝わらない何かであって、だから私は直接学ぶことが出来てラッキーだとも思っています。みんなこの講義をとらないのは、もったいないのに、とも思いました。

相談

 10月5日。火曜日。

 昨日、電車の中で聞いた話でけっこう気が重くなっていました。それは、相談の一種だと思うのですが、どうすればいいのか?を考え始めると、結構難しいことだと思いました。

 基本的には、悩み事というのは、複雑だったり、困難だったりするから、大変なので、そう簡単に何かできるわけがないと思いながらも、いろいろと考えて、眠っている時に、ふと目が覚めたりもしました。

 今日もいつものように、カウンセリングの施設での実習があって、と言いながら、いつものようにと言っても約1年でその時間は終わってしまうので、それは過ぎてみたらあっという間の事になるのだろう、とも思っています。
 
 なんだか寝不足で体がだるい、と感じつつ、初めてナナコというコンビ二のカードを使って、昼食を買って電車の中で食べてから大学へ行きました。

 コーヒーを飲んで、それから実習へ入り、電話がけっこうある日でした。ある特定の人からかかってくると、その方が希望する方に、他の電話が先に入っていて、出られないという事が4回くらい続きました。不思議なくらいのタイミングでした。そういうこともあるのだと思いました。

 そして実習を終え、食事をしてから講義があり、充実の内容だけど、頭がパンパンになるくらいの情報量でもあって、飲みに行く訳でもなくなんとなくバラバラに帰ったりもしました。

 地下鉄の中で、短い時間とはいえ、同期と、昨日の相談の続きのようになったのですが、どうも、その悩みを抱えている人の責任ではないように思えてきたので、それをなるべく負担なく伝えればいいのだろうか、と考えていました。

 夜中は、介護の時間になります。

ロールシャッハ。

 10月6日。水曜日。

 昼に拡大カンファレンスがあって、それは事例検討会でもあるのですが、事例があげられ、いろいろな話が出ていました。

 その中で、秘かに違和感を覚えてしまいました。それは、発達障害という言葉が、あまりにも使われすぎて、でも、誰でも何らかの発達障害だから、という言い方をした教授の方に、同意が出来るような気がしました。

 カンファレンスが終わってから約束していた同期の方の、ロールシャッハテストをとりました。途中で、疲れていたようだったので、休みを入れたりして、それでも真剣に向き合ってもらいました。

 ところどころ変った反応をしているかも、と思っていたけれど、そう言われたらそう見えるので、それに対しては気にならず、でも、もっと深いところへ行くのを要求されていたのかもしれない、というような気にもなります。だけど、当然ながら、自分に、そんな能力があるわけでもなく、ただ、黙って聞いている時間がほとんどでした。

 ただ、途中で何だか疲れているようで、大丈夫ですか?とかなり何度も聞きながら、テストを進めました。

 もし相手の疲れが、こちらの未熟さだったら申し訳ない、というような思いもあったのですが、あまりにそう考えすぎるのも失礼だと思いましたから、御礼を言って、解散しました。


 今日はゼミが休みなので、本屋に寄り、神保町のインターネットで調べたマンガ喫茶へ行き、同期の人が勧めてくれた「特攻(ぶっこみ)の拓」というマンガを探して、タイトルを言っただけで、ないですね、と即答され、あきらめそうにもなりました。

 でも、別の街に行き、一件目はほぼDVDの店でマンガはごくわずかでそこにはなく、次の店に行ったら、普通に淡々と、ありますよ、と言われました。それで会員となり、27巻あるマンガを読み始めたのが午後8時過ぎでした。

 暴走族に関係なかった少年がひょんな事から、有名で強い秀人という不良と友達みたいになり、そこからまた憶えきれないほどのたくさんの不良が出て来て、まーちゃんという普段はフレンドリーな人とか、化け物みたいなヤツとか、孤独な現代風の不良とか、いろいろ出て来て、訳が分からなくなり、だけど、一人死んだところで終わったりもせず、最後の方で急に主人公がバイクの乗り方が天才的にうまくなり、というような飛躍についていけないところもあったものの、読み切ることができました。作者が原作者と作画と二人いたのですが、どちらも私と同世代でした。

 帰ってきたら夜遅くになっていて、それから介護の時間でした。

骨折

 10月7日。木曜日。

 妻が昨日、足の小指を強くうって、泣くほど痛く、はれていて、という事を、申し訳ないことに、まったく知りませんでした。今日、起きたら、メモに「整形外科に行ってきます」という事が書いてあって、帰ってきたら小指にひびが入っていた、と聞きました。

 大丈夫?といろいろと話をして、もう痛くないから、という話になりました。学校を休もうか、とか言ったのですが、大丈夫だと言っているので…。心配ながらも出かけることにしました。

 明日の課題をもう一度書いて、少しロールシャッハテストのまとめをしていて、ケイゾクというドラマを見ながらで、面白かったし、そのオープニングが好きだ、と10年たって、改めて思いました。

 それから義母がデイサービスから帰ってくるのを迎えて、大学へ出かけました。その途中も妻のことが気になり、電話を入れたら、大丈夫、落ち着いている、ということなので、その言葉に甘えて、帰るのもいつものように遅いままでした。

 なんだか申し訳ない気持ちもありましたが、帰ったら、静かに眠っていました。ちょっとホッとしました。私は義母の介護の時間です。

 いろいろなことがあるのだと思いました。

 明日も講義です。勉強をする日々も続いています。

慣れ

 10月8日。金曜日。

 今日は、講義がありますが、でも、歯医者も行って、できたら残っている作業もやっておきたい、などと思って、あわてて歯医者から戻って、バタバタと出かけました。妻は、大丈夫のようでした。

 駅の踏みきりに近づいたら、警報器がなっていて、そこから少し距離はある場所を歩いていたのです、ベストをつくそうなどとつぶやきながら走りました。思ったよりも早く走れてちょうど来た電車に間に合い、そういえば、自分にとっては、ダッシュというテーマがあって、12月にフットサルをするから、それまで走りこんでおかないと、というような事を思い出しました。

 乗り換えの駅で降りて、駅員に定期の事を聞いたら、外へ出て販売機で買えます、と言われ、今使っている定期をさしこんで、お金を入れたら、あっさりと買えて拍子抜けするくらいでした。継続で買う時は、窓口を使わなくても購入できるようになったみたいです。

 それから、改札を入ってからまたダッシュして電車に乗って、大学に着いたら午後5時10分くらいで、それで明日、実習閲覧室を利用する事を副手の方にお願いして、それからロールシャッハの分析の続きをやろうと、新しい建物の1階のすみで黙々とやったものの15分くらいで少ししか進まず、食事をしに行ったら、そこで年齢が若い先輩と会って、少し話をしていたら、どこかへ出かけたらしくお土産までもらい、御礼を伝えました。

 それから、教室へ行き、長い時間ひたすら講義を聞く、という本来のスタイルだったのですが、シーンとした中で、教授とはいえ、一人でしゃべっているのは、なんだか不自然だと思うようになったのは、双方向のコミュニケーションが多い大学院に慣れてきたせいかもしれない、などと思いました。

 講義が終わり、地下鉄が一緒だった同期も、最近はダンスを見てからと別の行動になることが多くなり、今日は怪我をした人もいたので、タクシーのところまで見送ったのですが、一緒に駅から乗った同期は、次の駅ですぐに降りて、なんだか、これから孤独な時間が増えるのだろうか、と言ったことを思って、勝手に少し寂しい気持ちになりました。

 この半年はとても楽しくなったので、今度はもう少し落ち着いた感じの柔らかい楽しさくらいになって、時間が過ぎるのかもしれない、などと思いました。

 帰ってからは、いつものように介護をする時間になります。

ボウリング

 10月9日。土曜日。

 今日は、ロールシャッハで、自分がとられる側で少し早めに出かけなくてはいけないのに、昨日の夜中に歯につめたつめものがとれて、どうしようか?と思っていて、妻に歯医者に聞いてください、というメモを残し、夜中の介護が終わってから寝て起きたら、そのままで大丈夫、痛くなったら言ってください、という医師からの伝言を妻に聞いて、出かけました。

 約束よりも少し遅れて、大学に着き、おわびを伝え、それから少しコーヒーを飲んで、ロールシャッハテストを始めてもらいました。

 始める前に思っていたよりも、意外といろいろなものに見えてくる自分にちょっと驚いてしまったりもして、それから、けっこうな時間がかかって、やっぱり1時間半くらいになってしまい、だから、午後2時半からの授業に間に合いそうもなくなり、最後のカードの質問反応を残して、終わってしまいました。

 本来ならば、当然ながら一気に終わらせるべきものなので、申し訳ないことをしてしまいました。

 講義は、認知行動療法の専門家を招いての講義でした。

 講義が終わってから、他の場所で聞いた「認知行動療法が今は希望を持たれている」といった事が気になったので、それに関して質問をしたら、初診が3年先まで予約でうまるみたいな状況のようでした。

 この認知行動療法は、たとえば会社で働く人たちからしてみれば、他の心理療法から見れば、それを受けるハードルが低くなりそうな方法のようでしたから、そういう意味でも大事な療法になってくるかもしれません。

 今日は、講義は夕方に終わったから、出来たらみんなで飲みに行きたい、みたいな事を、同期の人たちが言っていて、それから、ケイタイで連絡をとりあい、近くの大きな街へ出たい、という事になって、バス停に集まり、そこからバスに乗ることになりました。

 それから15分ほどかけて、近くの大きな街に出て、飲み屋に行きました。私はウーロン茶を飲んでいて、そこに後から一人が合流し、さらに人数は増えて10人近くになり、そこからボウリング場へと流れ、久々にボウリングをしました。

 あとから合流した同期の女性は、ボーリング場で、ずっと踊っていて、ものすごく楽しそうでものすごく笑顔で、これだけ明るさや楽しさを振りまけるなんて、すごいと思い、ちょっとでも一緒に踊ってみたくて、見よう見まねで動いていたら、ステップを少し教えてくれました。うれしい思いでした。

 ボーリング場には、AKBの「ヘビーローテーション」がやたらと流れていました。

 
 それから、いつもとは違う路線の電車に乗って家に帰りました。

 うそみたいに楽しい一日でした。若いときの大学生のときも、こういう時間はほとんど記憶にありません。なんだか、ありがたい気持ちになりました。

 これからも、同期の人たちと同じように付き合っていけるとしたら、これからも変らず頑張っていかないと、そして、この10年とか20年という時間は、いっしょに行った同期の20代の人達はどんどんきちんとした大人になっていく時期なのに、私は明らかに老化していくわけですから、より頑張らないといけないと思いました。

 帰ってからは、介護の時間です。

休養

 10月10日。日曜日。

 昨日の残像みたいなものがチラチラと頭というか気持ちの中に時々よみがえり、爆発的ではないにしろ、しみじみと楽しかった、こういう事がこの歳であるなんて、(とくり返すとバカみたいですが)なんだかとても有り難く、本物の若い人の中で、自分も若いつもりでいられるって、けっこう幸せな事で、周りの同期の人達も,特に年寄り扱いというわけではないので、そういうのが有り難いと思えました。

 ボウリング場のさまざまなことも、ダンスを見せてくれた同期の姿もなんだかすべてが、大げさにいえば美しい光景で、「こんなふうに、もう2度と、みんなでボーリング場には来れないかも」みたいな事を帰り際に言ったら、「学生のうちに、あと2、3回は来れますよ」と励ますようにも言われました。

 今日は、日曜日で、介護は当然のように続いていますが、なんだかぼんやりとしていて、それから私は図書館へ行き、買い物もして、気になっていた、そろそろ無くなりそうなお米も買って、帰ってきてから、妻と一緒に少しお茶しようと言ったら「久々だねー」と返ってきました。

 ひびが入った小指をかばいながら妻は言ってくれて、それで、そんなにいつもいなかったという事を改めて思いました。学校へ通うことで、それで時間が使われているのだから、当然といえば、当然で、自分ばかり楽しい思いをしている、と思っていて、申し訳ない気持ちもありました。

 でも、学校の事をよく話しているせいか、妻は「自分も一緒に学校へ行っているような気持ちになっていて、外の風を感じる」などと言ってくれて、それはとても有り難い気持ちになりました。

 妻と一緒にお茶をして昼寝をしたらいつのまにか1時間半もたっていて、これだけゆっくり昼寝をしたのも久しぶりで、それから夕食を食べ妻とゆっくりし義母をトイレに連れて行き、寝かせて、テレビなどを見て、時間がたったら、夜中になっていました。

 何もしない一日みたいになってしまったけれど、今日は久しぶりの休養になったかもしれません。先週の日曜日は、今は誰もいない実家へ行って庭仕事などもしましたし、だから、わりと一日家にいたのは、先週の木曜日以来だから、けっこう休みがなかったことになります。

 知らないうちに疲れがたまっているかもしれず、介護もあるので、少し気をつけなくてはいけないと思いました。

批判

 10月12日。火曜日。

 今日は、カウンセリング施設での実習があって、そのあと、緊張感のある講義もあり、火曜日は自分にとってはややハードな日でした。

 とにかく今日も実習へ向かい、受付は、一人だけになってしまったのですが、それでも時間を過ごし、終わった後はやっぱり少しホッとしました。

 それから講義でした。最初は、私も発言してはダメだしをされ、それでも発言を続け、そのうちに「たまにはいい事言うね」みたいな事も教授に言われるようになりました。1時間半の前半が終わって、そこまでは沈黙の時間も長かったけれど、それでもいつもの感じではありました。

 ただ、後半の90分は、やや不穏な緊張感もあったように思いましたが、教授の言っている事は間違いなく、かなり正しいことで、直接自分が言われたら愉快なわけはないのでしょうけれど、でも、おそらくだんだん人から率直な批判をされなくなってくる中では、とても貴重なのは間違いないと思っていました。

 講義が終わったら、その教授への批判が、かなり盛り上がっていたようですが、私は変な感覚ですが、なんだかうれしい気持ちでした。先生への悪口なんて、学生の王道だし、そして、上司への悪口に比べたら、10倍くらいはきれいな感じがして、なんだか嬉しくなっていたのですが、そんな事は言えませんでした。

 そして、一緒に本気で悪口を言えない自分が歳をとったのだと思うと、ちょっと寂しく感じたりもしました。

 帰ってからは、いつものように介護の時間です。

手紙

 10月13日。水曜日。

 今日は、月に一度のボランティアの日です。

 母が入院していた病院で、患者さんに渡す誕生日カード作りをするので、早めに出かけました。大学とは、全く逆の方向です。

 そして、同時に研究論文のお願いをするにあたって、手紙を書いていました。介護者への調査を、カード作りをしている皆様にお願いするので、お菓子を買って、それからバスに乗って病院に着きました。

 修士論文のテーマは、家族介護者の心理についてで、そのために、ここでずっと一緒にボランティアをしてきた皆様に、介護のことを聞きたいと思っていました。

 まずは病院の相談室の責任者の方に、その手紙を皆様に渡していいかどうかを聞きました。お菓子も持っていって、そして、説明をしました。大学院へ行くことになって、それは臨床心理士の資格を取得し、介護する人のサポートをしたい、という目的で、その前に論文があって、それも出来たら介護する人の気持ちを伝えるものにしたい、という事も書いたのですが、それに関してはおおむね肯定的にとらえてもらったみたいで、ありがたく思いました。

 次にこの病院で働く臨床心理士の方にあいさつをしたら、いろいろな心理士の集まりのようなものまで教えてもらい、こんな年齢の学生なのに、親切にしてもらって、ありがたく思いました。

 それからカード作りのボランティアで、カードが完成してから、皆様に、今、学生で、といった話をして、少し驚かれたのですが、手紙も渡すことができました。

 その内容も、肯定的にとらえてくれたみたいで、すごく有り難く、同時に、本にするものだと思っていた、と言われ、その方向でもやりたいのですけれど、両方から出来ないかな、と思いまして、という話もしました。

 かなり時間が過ぎたのですが、それから作業療法士の方にもあいさつをして、バス停に着いて、その近くの大学の学生と一緒になりました。若い学生に対して前はまったく関係ない存在で、もちろん今も全く知らないままでしたが、勝手に気持ちの距離が縮まっていました。

 病院から、最寄りの駅に着いたとき、もう講義には間に合わないと思いました。

 そこから気持ちばかりが焦って、1時間半くらいかけて、大学へ学校へ着いたら、講義開始の午後6時半を回っていました。教室へ頭を下げつつ、入っていったら、先生の声が響いていて、座って、しばらくたったら、発言を求められました。

 前期の成績が思ったより良く、評価されたせいか、自分が調子に乗っているのではないかと思ったりしていました。気をつけないと、またがっくりと評価が落ちたり、もしくは、力が全然伸びなくなったり、ということになってしまい、悲惨な事に逆戻りになるから、もっと少しずつでも力をつけようという方向へ頑張らないと、ホントにまた未来が閉ざされてしまうから、と思いました。

 移動距離が長い1日でした。

 講義が終わってから家に戻り、そこから介護の時間です。

もやもや

 10月14日。木曜日。

 昨日の夜中になって、修士論文の研究のため、渡した手紙が好印象だったとはいえ、でも、なんだか誤解を生むんじゃないか、うまく伝わっていないんじゃないか、これを教授に見せたら、ダメだしが出るんじゃないか、みたいなことをいろいろと思いました。

 同時に、その時の皆さんの反応が、ちょっとの時間なのに深まったようなことも思い出し、人の気持ちって面白い、と妙に冷静な感じもして、自分が冷たいところがあるんだろうな、とも思いました。

 教授陣の年齢の事を思い、自分と年齢の違いがほとんどないことを思い、その社会的蓄積の違いを感じ、なんだか圧倒的な差みたいなもの、絶対に縮まらないものも改めて感じ、比べるのも図々しのですが、なんだかぐったりと無力感も感じました。

 それでも、その論文のための調査を依頼する手紙を渡した時の様子も記録として書いたので、なんだか少しホッとして、寝たら、なんだか妙な夢を見たような気がしました。

 起きたら、というより、目覚ましがなって、あれ?と思っていたら、今日から義母は、ショートステイの日だから、自分が少し早めに起きることを思い出して、ぼんやりとして体を起こします。

 それから、ショートステイのための施設に、荷物とテレビも持って、妻と二人で行って、無事に入所も済みました。4泊5日の予定です。

 少しホッとしたせいか、妻が昼寝をしている時に、自分もちょっと寝てしまいました。

 そんなとき、電話がかかってきて、妻が出てくれたのですが、大学からのものでした。なにかと思ったら、夏が終わる頃に出した学内の雑誌に載せるために公募していた原稿が、大学院生だからダメです、学部生と学院生では、文章力に差があるとか何とか、と言われました。

 でも窓口では、院生でもいいと言われたので、という話をしたのですが、とにかく窓口へ取りに来てください、と言われるばかりで、ガッカリはしました。それを妻に言ったら、審査に残って、それで資格を見たからじゃないの?とポジティブなことを言ってくれました。

 妻はさらに、「わたしが賞を出したいくらい」という言い方をしてくれて、やっぱりうれしく、あたたかい気持ちになりました。そういえば、その原稿の中に登場する同期の人に読んでもらったので、その事も伝えて、少しあやまらないといけないと思って、また憂うつにもなり、同時に、ただ、やっぱりツイてないんだな、とは改めて思いました。

 その後に玄関のチャイムが鳴って、階段をあわてて降りたら、新聞の勧誘の人が笑顔で来ていたけど、断わりました。なんだか、力が抜けました。

解放感

 10月15日。金曜日。

 歯医者へ行って、歯を削って、あーこりゃ大変だ、と医者に言われながら、奥歯の左半分がなくなり、かなり大きい空間ができてしまった、と感じながらも、バタバタして午後3時半頃には出かけました。

 ロールシャッハの残りをテストをするために、少し早めに大学へ行かないといけません。

 少し気持ちが楽なのは、昨日から義母がショートステイに入ってもらっているからと、今日は週末だから、講義が終わってから、飲みましょう、みたいな話になったりして、その時は今日は、義母もいないし、いつもよりも遅くなっても平気だから、というような気持ちがありました。

 明日は交流会があって、その前に勉強会も自主的にできて、そういう事の小さな蓄積があって、それがけっこう機嫌のいい事につながっているのは事実でした。多少、遅くなっても平気という、微妙な解放感は、ここ10年以上でも初めての感覚でした。

 夕方に大学に着いたら、予定の時刻になってもロールシャッハのパートナーがいないので、今日は時間を間違えたかも、などと思っていたら、少し遅れて汗をかきながら現れ、よかったと思い、少し落ち着いてから始めました。

 最後の10枚目のカードの確認と、好きなカードと嫌いなカードを選ぶ、というのだけが残っていました。実習閲覧室を借りて、30分足らずで無事に終わりました。この前、手間取らなかったら、もっと早く終わっていたはずでした。

 それから、一緒に学食で食事をして、他の同期の人とも一緒に食べて、話して、教室へはバラバラのタイミングで行き、途中で最近ダンスに夢中で明るくなった同期と合流して、エレベーターに乗って、教室へ着きました。

 講義は、膨大な情報が降るように話され、しかし、最後の方で質問をしたりもして、得るものは得た、という感じはしました。

 明日は、妻がクラス会で、楽しいといいな、と思いました。自分は自分のやるべき事を、若い人の倍くらいやらないといけないと、改めて思いました。一緒の場所にいても、希望の数や年齢がまったく違うのだから。そんな事を思うと、勝手なことですが、少し悲しくなりました。

 今日は、義母がショートステイなので、家に帰ってから、いつ眠ってもいいかと思うと、少し気が楽になりました。かといって、いつも午前5時に眠る習慣があるので、それほど早く眠れるわけでもないのも、わかっています。

交流会

 10月16日。土曜日。

 今日は妻がクラス会で、午前11時半頃に出かけていきました。そのために、幹事の一人としてずっと準備をしてきて、昼頃に母校の見学をして、という予定で、そのために集合場所に持って立っている旗も作って、という努力をしてきたのを知っていたから、うまく行くことは願っていました。

 今日はいい天気なのは妻のおかげだと思いました。それから、私は洗濯をして、義母の掛け布団も洗って干していたら時間がたって、そろそろ出かける時刻になってしまいました。

 大学院の交流会は、現役の院生や、修了生や、学部生が集まって、そこで交流するというものでした。といっても、自分よりもはるかに年下のOBがたくさん来るのだろうな、というような気持ちもあって、だから、微妙な感覚はありましたが、人との交流がある時はなるべく行こうと思っていて、それで出かけることにしました。

 時間がなくなったので、電車内で食事をして、そういえば、今日は勉強会があったはずで、でも、昨日、それが中止になって、なんだか寂しいような気持ちにもなっていて、これまで受け入れてもらっていたような気になっていたけれど、気のせいかな、というような気持ちにもなるくらいでした。

 そして、学校へ着いたら、同期が何人もいて、以前はこういう時にひたすら一人だったのを思い出し、なんだかラッキーというか、楽になったと思ったりもしました。

 そして、交流会が始まり、学生の中では最初にあいさつをすることになっていたのですが、なんだかみんなが聞いていない気がしたので短めに終わらせ、そのことでまた微妙に後悔もして、他の人達が立派にあいさつをしているのを見て、また後悔し、ホントにこういうのが下手だな、と思いました。

 だけど、話をしているうちに、隣に座った人が学部生で、社会人で、という人達と会いました。それは、自分が若い時に最初に卒業したのが臨床心理学部ではない、ということで、学部から編入して学んでいる、というのを聞いて、堅実だと思い、なんだか自分がズルしているような気持ちにもなりました。

 さらには、その経歴も少し異色だったり、他の場所で臨床心理士は無理だ、と言われた人もいたのですが、そのことについて、自分なりに思ったことを話しました。その人にも事情があるから、どうなるかは分からない。ただ、大学院に来てほしい、といったことは思いました。

 さらには、産業カウンセラーの事を聞いて、年齢があんまり関係なかったり、あとは聞くだけでなく、話す事つまりプレゼンも大事だという話も聞きました。そして、最初は働く時間の制限があったりするのなら、電話の相談から始めては?というような事を聞きました。ありがたい情報でした。

 その交流会が終わってから、有志で近所の中華料理店に行き、教授が、飼っていたあひるの話もしてもらって、楽しかったあとに、今度は同期が中心で飲みに行きました。私はウーロン茶を飲み続けていて、そのペースが早いと変に感心もされました。

 そのあとは、若い人達は、さらにカラオケに行くみたいで、ちらっと一緒に行きたい気持ちもあったのですが、家では妻も待っているだろうし、いくら義母がいないといっても、夜通し飲んでいるのは、無理だろう、と思いました。それでも帰る時刻は遅くなっていて、午前1時過ぎに家に着きました。

 門の音がしたようで、妻が階段を降りてきて、玄関のカギをあけてくれました。クラス会が楽しかったようで、よかったと思いました。



(他にも、介護について、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




#介護相談       #臨床心理士  
#公認心理師    #家族介護者への心理的支援    #介護
#心理学    #社会人大学院
#社会人入学   #介護   #多様性を考える
#私の仕事  #大学院  #社会人入学
#家族介護者   #臨床心理学   #介護者相談
#介護負担感の軽減    #介護負担の軽減
#家族介護者支援    #在宅介護
#家族介護者の心理   #介護離職
#心理的支援への理解   #認知症 #認知症介護
#自己紹介 #あの選択をしたから
#介護施設 #学問への愛を語ろう
#大学院  #臨床心理学



いいなと思ったら応援しよう!

越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。