『「40歳を超えて、大学院へ行く」ということ』㉕「発表」と「飲み会」---大学院1年生・12月前半。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
(※この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「発表」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。今回は、大学院に4月に入学し、半年以上が経った12月前半の話です)。
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。
(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間でも感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。
さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、秋の新学期も進んで、12月になった頃の話です。
なお、大学院の同期は10数名です。学部からそのまま進学した人と、社会人入学の人が大体半々。女性の数がやや多いという構成です。特定を避けるため、個別な人に関しては、曖昧な書き方になっていますが、時間が経つごとに、比較的、交流が増えてきたと思っていました。
発表
12月1日。水曜日。
今日は、初めて拡大インテークカンファで発表をしました。
面接の陪席で入って、その記録と様子を皆に伝える、という集まりでした。もちろん、この中で守秘義務はあるので、外へ漏れることはありませんが、こうした実践の経験を積むことでしか、おそらくは面接の質を上げることもできないのだろうと感じています。
私も最初の面接であるインテーク面接をして、そのままカウンセリングとしての面接も担当したかったのですが、でも、女性のカウンセラーの希望ということで、別の院生に担当してもらうことになりました。
そのまま自分から少し縁遠くはなってしまったのですが、面接の日は自分も受付の実習なので、少しでも、その人のプラスになることはないだろうか、ということは考えています。
発表が始まって、あまり時間もないので、早めに始め、それでしゃべって、自分であせっているな、とかもっと伝えたいのに、とか、いろいろな事を考えつつ、あまり反響もなく、右側に並んでいる先生達の方はあまり見ることも出来ませんでした。
質問もしてもらって、しゃべっているうちに自分があまり把握していない事に気づき、それでインテークを担当した先生が答えてくれて、ああ、あの時はある場面の出来事が頭に浮かんで、それで他の事は忘れていたんだ、ということを思い出しました。
そのまま今面接をしてくれている院生が話して,少し空気がゆるんで、その他の人たちも含めて、かなり活発な議論になったりしました。ただ、まだ自分はまったく面接の経験がつめないままで、それは若かったら、まあこれからだな、みたいなセリフが似合うのだろうと思いますが、でも、もうそんな言葉が似合う年齢をはるかに過ぎている上に、学校を出る頃に、さらに年齢をプラスしているのですから、即戦力しか自分の道はなく、でも、その機会がなかなかなく、どちらにしても力をつけるためにベストを尽くす日々しかないことを確認できたような気がします。
そして、それから次の講義まで夕方というか夜まで時間があったので何人かの同期で喫茶店に行こう、という話になりました。
いいなー、こういうの、と思いながら歩いて、目的のケーキ屋さんはつぶれていて、だから以前も行った古風な喫茶店に行って、なぜか昔のプロレスの話と、それからジブリの映画の話をして、それからまた学校に戻って、今度は図書館へ行って本を探しました。
それで図書館の係の人に頼んだら、前も手続きをしてくれた親切な人がいろいろと調べてくれた上で、その本は2冊とも地下鉄の駅で三つほど先の大学にあるらしくて、遠いところ以外は直接行ってください、ということになりました。
それで手帳で空いている日を見たら、あまりなくて、自分でこんなに日程がつまっているなんて、生意気だ、と思ってしまい、それでも書類を書いて、手続きをして、図書館のことに対する返事はメールでお願いしました。
それから学食へ行って、同期と会い、実習ゼミへ向い、ケースの話を聞いて、その大変さを想像しました。それから、すぐに地下鉄に乗って家に帰って来たら、午後10時を過ぎていたはずなのですが、「久しぶりに早いね」と妻に言われました。
先週の木曜日から金曜日、土曜日、それから月曜日、火曜日と大学に出かけた5日間、ずっと午前12時を過ぎていたのだから、それは毎日遅い、ということで、改めて申し訳ないと思いました。
これから、午前5時頃まで私が担当する義母の介護の時間です。その合間に勉強をすることになります。
ダメ出し
12月2日。木曜日。
今日は、ゲスト講師の方に講義を受ける日でした。
アメリカのスクールカウンセラーをしている人で、丁寧に話をしてもらったし、何しろ最初に今回の受講生の名前を全部憶えて握手をするというのはやっぱりすごいと思いました。
アメリカのスクールカウンセラーを取り巻く体制の話も聞き、それはすごく整っていると感じたのですが、それをつくり上げる過程についての質問もしましたが、同時に、ややこしくて申し訳ないとも感じていました。
講義は終わり、それから先生を囲んで食事会ということになり、そういう機会にはちゃんと出来るだけ出ようと思い、参加することにしました。
色々な話をしてくれたのですが、スクールカウンセラーとして、誕生日の日には、全員の生徒を部屋に呼び、誕生日おめでとう、と告げるというポジティブな事をしているので、その事で他の場合でも、カウンセラーの部屋に来やすくなるはず、という話をしてくれました。
確かにそうだと思えました。そして、先生方は途中で帰り、さらに、早めに帰る人達も何人か帰って、残りは私を含めて5人になったのが、午後11時を少し過ぎた頃でした。それから、話は、私のことになりました。
すいません、とか、おつかれさまです、とか言い過ぎる、とダメ出しをされた。そういえば、ねぎらいたい、という気持ちは強くなっているのですが、おつかれさま、という事で、事例検討会などでは、そのケースに関することがふわっと軽くなってしまうこともあるという指摘をされました。
それは、こちらのことを真剣に考えてくれている、ということなので、戸惑いはありつつも、ありがたいことでした。それから、時間が経って、終電に間に合わなくなり、途中の駅からタクシーに乗って帰りました。
初めてのことでした。
夜中の介護には間に合いました。
成長
12月4日。土曜日。
朝が早い。午前10時から事例検討会があるから、8時頃に起きて、こたつがある部屋に行ったら、振り返った妻は朝のドラマを見ながら泣いていました。涙が流れているから、かなり泣いたんだと思いますが、あまりにも泣いているので申し訳ないのですが、ちょっと笑ってしまいました。昨日も午前5時頃までは介護で起きていましたので、かなり眠い感じがします。
自分は支度もしなくてはいけないので、なんだか急いで出かけました。地下鉄に乗って、検討会の始まる20分くらい前に駅に着いて、途中で同期の人に声をかけられて、いっしょに教室へ向かい、私はその校舎の1階で飲み物を買い、少し遅れていったら、すでに人が集まっていました。
今日は行動療法の著名な方がコメンテーターをしてくれることもあり、事例の発表者はスーツを着ていて、ちょっとびっくりしてしまったのですが、それだけ真剣に取り組もうとしていたのですから、かなり緊張している様子でした。
だけど、発表者の同期は、しゃべっている時は落ちついて見えたし、私も、おつかれさまです、と言わずに、質問をしようと思っていたら、自然と聞きたい事柄がありました。それだけ事例の内容が充実していたのだと思いました。
それから学食で食事をして、解散をして、3人の同期で近くの繁華街のある街に行って、途中で同期の女性2人と偶然に会ったが、そのまま別れ、男3人で昔ながらの喫茶店に入りました。
そこで昔の音楽の話とか、Mr.Childrenとか、なぜか広末涼子の話が出て、広末は私が毎日のように利用していた駅の近所に住んでいて、という話まで出て、えー知らなかった、みたいなことや、あとはいろいろ講義のこととか、かなり率直に話せて、なおかつダラダラできて、そこに3時間も4時間もいたあげく、という感じが学生らしくて、なんだか楽しく過ごせました。
それで家に帰ったら午後10時を過ぎていました。
今日、同期といろいろと話をして、人は成長するんだ、と思いました。それはどこか偉そうな視点で申し訳ないのですが、若さというのは、短い時間で成長するものだと感心もしました。
自分も頑張らないと置いていかれます。
これから夜中は介護の時間です。
お願い
12月5日。日曜日。
朝、といっても昼頃に起きて、食事をして、洗濯を干して皿を洗って、ということをしていたら、時間は過ぎて午後3時頃になってしまい、妻は昼寝をしているのでカギをかけて家を出て、しばらく歩いたら心臓の薬を持ってくるのを忘れたのに気づき、戻って、もう今日は実家へ行くのやめようかな、みたいな事を思い、だけど、出かけて、行きの電車の中で論文を読み、課題の提出に対して、どうやって書こうかと思いながらも、その小さなきっかけはつかめるものの、大きい流れが思い浮かばずにどうしようと思いながら、電車は進みました。
それも、眼の前の論文が、全然分からない、というものではなくなってきたのは、慣れ、というものかもしれません。ちょっと面白くなっているというよりも、ここをこうした方がいいのに、と自分なりの視点を持てるようになったようです。そういう変化が、自分で面白いとも思えました。
そうやって実家の最寄りの駅に着き、この駅で広末涼子が乗っていたのか、などと知らなければ知らないままだったことを勝手に回想し、変ななつかしさがわき起こったりもして、妙な感じにもなりました。駅に着いて、薬局で殺虫剤を買い、小さいバスは行ったばかりなので歩きました。もう薄暗くなっています。
自分が大学生だった30年前とは、いろいろな事が変っているはずなのに、意識の中ではほとんど変化のない道を歩いているつもりになっていて、気持ちは10代の時とたいして変らないままで、それは子供がいないから、余計にそんな風に思うのかも、みたいな事を思い、道の途中の病院が30年少しやっていたのに閉院する、という張り紙が何だか微妙に雑にはってあるのを見て、時間が流れた、ということを一瞬思い、もっと歩いて、住宅街を通り、国道を渡り、坂道を上り、いつもの道順で歩いて実家に着きました。
近づく時から庭に視線が行っていたのですが、あまり草も伸びていないで、本当に冬なんだ、と思いました。父が亡くなり母も亡くなって、完全に空き家になっていますが、時々こうして通って、庭の整理もしています。
少し草を刈ったり、と思っているそばから暗さがあっという間に周りに降りてきて包まれ、5時でほぼ真っ暗に近くなっていて、殺虫剤をまいて、ちょっとだけ草をかったり南天をかったりして、作業を終えて、あとは両隣に手みやげを持っていきました。
片方の方は不在でした。もう片方のお隣さんとは久しぶりにお会いし、玄関に入って、そこで立ち話をしました。今、自分が学生をしていることを言ったら、まだ伝えていなくて、少し驚かれたので説明をしました。
今のその方の状況もちょっと話をしたら、やっぱり大変というか、介護を続けていられるので、という話もして、その流れで論文の話をして、もしご協力いただけるのであれば、という事も伝えたら、わりと好意的な反応だったので、それだけで、なんだかありがたい気持ちでした。
今年は学校に入ってから、周りの人達がかなり肯定的なことが多いので、とてもありがたいと思うことが多く、それでなんだかやたらと感謝する中年になっているのだと思います。
夜、家に帰ってから、妻に介護に関してのインタビューをさせてもらいました。急に涙を流したりして、返って悪かったのでは、と思いましたが、それでも様子を確認しながら、改めて聞くと、手を合わせたくなるような事も少なくありませんでした。
この12年、本当に大変だったんだ、と改めて思いました。
疲れ
12月6日。月曜日。
家を少し早めに出ました。電車に乗っている時にはテキストを読んでいて、大学の図書館へ寄って紹介状をもらったり本を借りたりしようか、と迷ったのは時間があまりなくなっていたからでした。
この時間だと、学食で食事が出来ないかも、と思いましたが、やはりできることはやっておこうと思って、図書館へ寄って、手続きをして、本を借りていたらほとんど時間がなくなり、カバンの中に、こういう日に限ってカロリーメイトを入れてなくて、しょうがないので自動販売機でアイスとコーヒーと水を買って、教室へ向かう途中にアイスを食べつつ、エレベーターの中でも食べつつ、教室へ着く頃には食べ終わりました。
誰もいなかったからまだ良かったのですが、あまりほめられたことではありません。
机を並べ替えていたら、時間が来て教授が来て、でも学生はあまりいなくて、5人くらいしかいなくても講義は始まります。
午後6時過ぎから前半は90分。少し休憩をはさんで、後半は発表になりました。そうしたら、同期の発表者は、すごくスムーズに、というか、しゃきしゃきと話は進んで、教授は、深いところまで行きましたね。という話となり、なんだか凄いと思えたのですが、その凄さが自分では、まだ消化しきれていませんでした。
講義は少し早めに終わり、何人かで居酒屋に行き、飲んだり食べたりをして、午後11時前には解散したのですが、地下鉄では、途中まで今日発表をした同期と一緒でした。あれだけしっかりと発表していたのに、なんだかすごく疲れているようでした。言葉もかなりネガティブなことが多く、少し心配になるくらいでしたが、あれだけの質の言葉を言えたのに、と不思議な気持ちにはなりました。
帰ってからは、介護の時間です。
無力感
12月7日。火曜日。
今日は、実習の日でいつものように昼頃に大学に着くように出かけて、いつものように何だか眠いな、と思いながら実習に入り、いつものように受付に座って、電話をとったり、お茶を出したり、その前にはインテークの確認をしたり、という時間が過ぎていきました。
カウンセリング機関の受付の実習です。
気がついたら、二人一組のはずの実習が一人で行うようになっていて、壁に向かって座っていると、いろいろな事を考えるのですが、カレンダーを見て、もう12月なのを思い、壁に貼ってある10月や11月も確かに1日1日を過ごしてきたはずなのに、細かく記憶をたどれないくらいに、ひとかたまりになってバーッと通り過ぎていったような気がしました。
つまりは、それは例えば最初に20代で大学を卒業してから25年という時間が、ウソのようにいつのまにかたっていた、というような感覚で、このままだと2年間があっという間に過ぎるどころか、気がついたら、もう死んでいた、みたいになってしまうのだから、毎日をちゃんとしていこう、というような気持ちにもなりつつ、片一方でまだ出来ていないあれとかこれとかを思い,勝手にただあせる、というような気持ちの空回り方は変わりなく、そう考えると、この受付の実習の時間は、ある意味でぜいたくな時間でもあるのだと思います。
こういう事務職のアルバイトみたいな事を経験できるのは、最後のはず、という気持ちもあるので、そういう意味では、とても貴重な機会でもあって、電話をとったり、日誌をつけたり、雑用をしたり、で時間が流れていき、その間、何もしていないような時間で、来週の火曜日のことを考えて、原初的知覚と「甘え」と力動感のことを思い出したら、なんだか少し分かったような気がしたのは、今年の春から、そうはいってもけっこう考え続けた時間があったからでした。だから、こうかも、と思いついたことをメモを書いて、その紙をサイフに入れたりして、時間が過ぎていき、今日も実習が終わりました。
その後は学食に行きました。
ものもらいが痛い、と言って、医者に行きなよ、と言われている同期の女性が、みんなの誕生日をなぜか手帳に書いていて、時間がたち、食事も終わり、私がアイスを食べていたら「こんなにチョコアイス最中を食べてる人を見た事がない」などと言われながらコーヒーも飲み、講義に向かいました。
家族療法の講義では、5人の問題を抱えた家族のロールプレイングをやることになり、そのセラピスト役をやろうと手をあげました。
意欲だけはあったのですが、いざロールプレイを始めたら、5人のそれぞれの言い分に振り回されて、まったく出来なくて,途中で教授による指導が行われ、そして、感情でなく、事実を時系列で話してもらった方がいい、とか、誰かを孤立させない方がいい、とか、いろいろと途中で止まっては進み、なんだか緊張していて、それでも、その設定の家族がばらばらで、どこから入っていいか分からず、そして、無力感を抱えたまま、終わりました。
ロールプレイですら、本当に難しいことでした。
こうしたことまで、ずっとやっている研究ゼミの担当の教授は、当然だけど凄いことを改めて思い、それを続けて来た時間の重さも感じ、そんな蓄積のない自分と、そのわりには年齢が高いことをまた思い、帰りは方向がいっしょの人達と途中でばらばらになってしまい、なんだか孤独感を強めたまま帰って来ました。
それでも、やることはある、となぜか思っていました。
夜はこれから介護です。夜明け前まで続きます。
電車
12月8日。水曜日。
今日は、月に一度のボランティアの日でした。
母も入院していた病院で、患者さんへ渡す誕生日カード作りの日で、眠かったけれど起きて、「お急ぎコース」で一度だけ洗濯をしました。
それから電車に乗って、いつものように、もうすっかり通い慣れてしまった道へ、でも、その意味は母が生きている頃とはまったく違っていました。
そこにいるみなさんに会いに行く、という事が目的になっていて、だから気持ちも日常的なニュアンスになっていて、以前のように、思い詰めたような、景色が違って見えるような感じとは明らかに違っています。
でも、母が亡くなってから3年以上がたって、ということは、その年月だけ、カード作りにもボランティアで通っているということになり、自分の中で、もうそれだけの時間がたったとも言えますが。まだ3年と半年しかたっていないですし、義母の介護は続いているのに、すっかりあの日々を忘れていて、時間の流れが止まったような感覚も完全に失っているのに改めて気がつきます。
それは今、学生をしていて、社会の中で生きている時間を持った人達といっしょに触れ合う機会が多いせいでしょうし、だから、妻はやはりまだ時間の流れが違う中にいるのは、この前、話を聞いても分かりましたから、だから、それをどうフォローしていいのかも、正直、今日の研究ゼミで聞ければ、などとも思ったのですが、それ自体がどこか偽善的なようにも思いました。
そういえば、介護の生活をとにかく乗り切るために、先は分からないけれど、来月は生き残るために、と実は意識して心がけたのが夫婦の仲を良くすることだった、と振り返ると自分がかなり悪い人間のようにも思えてきますが、今もそれは続いています。
誕生日カード作りが終わって、一緒にボランティアをしていて、今も介護を続けている人たちに、研究の協力をしてください、という話をしたら、私が大学院に通っていることと、この前手紙を書いたことを憶えていてくれていて、協力します、と言ってくれました。そこにいた人が全員連絡先を書いてくれて、連絡を待っています。や、こちらから連絡をしようと思っていました、などと言ってくれて、それはとてもありがたかたいことでした。
そして、病院の若いスタッフとなんだかボランティアとは直接関係のない話をしたりして、目標としていたバスよりも一本遅れて、バスに乗り、近所の大学の学生さんといっしょになりました。
母が入院していて、病院に通っていた頃は自分とはまったく違う存在だと感じていて、その頃より、さらに歳をとっているから、もっと大学生とは遠くなっているはずなのに、最近、自分が大学院に通って若い人達と接する機会が多くなっているので勝手に身近に思っているのは、ある意味では認知のゆがみ、といってもいいものだと思いました。
人によって、ホントに世の中の見え方が全く違っていて、それこそそれは、想像を越えている違いかもしれません。
バスが駅に着いて、時刻表を見たら、快速出発まで、あと5分くらいなので、トイレに行ったら、声をかけられたら、それは大学院の同期でした。すごい偶然でした。
1時間以上の時間をけっこう話をしてくれて、それはすごくいい話、とまとめてしまうと失礼かもしれませんが、本当に純粋だったり、まっすぐだったり、と感心してしまうような事でした。
大学へ着いたら、この前、家にあった古い炊飯器を渡した同期に会いました。その人からは、御礼だといって、カレーパンと3食パンとコロネをくれました。それを食べて、教室へ行ったら、臨時休講になっていました。
だから時間もあるので、帰りに3つ先の駅で降りて、そこにある大学の図書館へ行きました。探していた資料があると、教えてもらった場所です。
帰ったら午後9時すぎで、久しぶりに妻とゆっくりしゃべったら、今日は楽しかった、と言われました。最近、遅い日が多かったから、と反省しました。自分だけが浮かれていて、だから時間の感覚が変ってきたのかもしれないと思いました。
妻には先に寝てもらって、これからの介護の時間は私の担当です。
論文
12月10日。金曜日。
歯医者へ行って、ずいぶん長い時間、口を開けていて苦しかったし、あとになって、少し痛んできて、じわじわと不安が増したりするのですが、それが終わってから、今度は能楽を見るために出かけました。
この間行った時は、まだ学生生活が始まる前で、年に1度くらいのペースですが、8年間くらいは続いている習慣でした。それは、中学の時の同級生が能楽師になっていた、という偶然から始まった「日常」でした。
これまでは時間をとって最初の頃の演目から最後まで見て、それから感想を書いて、というやり方だったのですが、今日は、講義があるので、同級生が出ている演目だけを見て終わったら、すぐに出て、その途中で家に電話をしたら、私のカゼがやっぱり心配で、無理するから、という話になって、妻は少し涙声になっていました。
自分だけ学生という、違う生活をしていて、妻が一人で不安を背負っているのかもしれない、とも思い、カゼをひくことへの強い恐怖というものを何となく一緒に感じられなくなってきているので反省する思いにもなっていました。
それでも、講義を休めないので、妻と話をし、いろいろと謝ったり話をして、行くことをなんとか少しでも納得してもらうようにし、それから、地下鉄を乗り継いで、途中でおととい買って今日が賞味期限のランチパックを食べて、大学の最寄りの駅に着きました。
学食へ行ったら、ほとんど誰もいなくて、ミニ丼を食べて、時間がまだあったのでアイスを食べている途中で同期の人が何人も来て、時間になったのでコーヒーを飲みながら移動していたら、もたもたしている姿を見て、私の荷物を持ってくれる同期の人もいて、ありがたく思いました。
講義が始まり、このリズムは能楽と似ているかも、と思うくらい眠気を誘うものもあったのですが、考えたら、今回を含めてあと2回で終わってしまうのだから、本当に早いと思うのですが、今年は本当に大きい変化があって、学校に通うだけでこんなに違うのか、と改めて思ったりもしました。
そこで同期の仲間と会えて、ある程度以上、仲良くなれたのは本当に幸せといっていい事だったのですが、でも、妻の不安が分からなくなってしまっては、それでは、学校に通ったことが、まったく無意味にもなってしまうのだから、とも思いました。
帰りの地下鉄で4人の同期と一緒になり、最後は2人になり、論文の話を聞きました。この前のその同期の発表がすごいと思ったせいで、その事を聞きたかったからでした。
まずは、その論文の本筋をつかまえる、という話をしてもらい、本当にそうだ、と思えました。それはカウンセリングでいったら、主訴を大事にする、という事でもあり、私自身は、ずっと独自でやってきて、そういう本流的な発想を学ぶ、というのが、今回、学校で学んでいる目的の一つであるはずなのを思い出させてくれるくらい、すごく熱心に話してくれました。
なんだか同期が降りた、その後の電車の中で気持ちがあったかくなるくらい、ありがたいと思いました。
家に帰ってから、妻と話をして、義母のインフルエンザの注射の事も話したのですが、何しろ、不安が大きいようで、最近は勉強を言い訳にして、そういう事一つ一つをちゃんと解決してこなかったのを反省しました。
さらに話をして、来週の水曜日に予防注射をしようという予定にしました。そのことで、妻の不安を少しでも減らせれば、と思いました。
夜中は介護の時間でした。
実習
12月11日。土曜日。
ある自助グループで話されている内容を聞き取り、逐語録をまとめる実習の日で、先月は一人でやっていたのですが、今回は、同期に頼んだらOKをもらい、今回初めて一緒に実習に臨んでもらう予定でした。
ここのところ発表とかで気をとられ、妻の不安に気づかなくなっていたりして、反省し、やっぱり浮かれていたんじゃないか、と思い、またやり直し、みたいな気持ちもありつつ毎日を過ごそうなどと考えていました。
今日は実習で初めて一緒に組む同期で、現地で待ち合わせをしました。しばらくたって同期の女性が来てくれて、少し話して、それからその部屋へ出かけました。
それで、実習が始まり、必死で筆記を続けて、1時間少したったあたりで集中力が切れ、その後もがんばったものの、今日は1年で最後という事で、今回は参加していた、医師のミニ講義のようなものまでありました。
1ヶ月に一度の機会ですが、当然ながら参加者にもいろいろな変化があるようです。
それで実習は終わって、今日参加してくれた同期と話をして、いろいろな確認をして、さらに雑談もしたら、一時間くらいは過ぎていました。時間をとって申し訳なかったのですが、それから解散をして、地下鉄の駅で分かれ、家に戻りました。
ちょっとした疲れ
12月13日。月曜日。
昨日も午前5時過ぎくらいに寝る事になったのは、介護だけではなく、火曜日の講義での発表があるからで、それも中味を途中で変えなきゃいけないことになり、やたらと時間がかかってしまって、それで苦戦して、終わらない、という気持ちだけが強くなりましたが、それでも、今日は昼頃まで眠れるからまだ少し気持ちが楽でした。
午後3時までには学校へ行かないといけなくて、と思いながらも妻も今日は出かけるので、昼ご飯は、カロリーメイトを食べながら、レジュメを書こうかと思い、1時間は書けるみたいなことを思っていたのですが、起きたら妻がパンを用意してくれて、それを食べて、「笑っていいとも」を見ていたら、面白くなって午後1時になってしまい、ああお風呂も洗わないといけないし、今日の録音機も用意しないといけないし、などと思っていて、したくをしていたら、それでけっこう時間がたって、だからひたすらバタバタして出かけることになってしまいました。
電車の中で英語の勉強をしながら、そうこうするうちに電車は着いて、時間に間に合いました。学校に着いて、約束をしていた同期の人と、心理検査のTATをして、自分があれこれ言ってるけれど、そして意識していないのに言葉が言葉を呼ぶような感じになっているのが分かると、その内容は自分の内面のことだ、というのが分かって来て、ちょっと恥ずかしくなりました。
ただ、微妙にあせりながらも、午後5時半ごろには終わり、二人分がちゃんと出来て、それも強い疲労感に襲われる、みたいな事がどちらかに起こることもなく、無事に終わってよかった、と思いました。
それから、講義で発表をしたものの、自分の力不足のせいか、盛り上がらず、空気は重く、後半も他の人の発表の時に、眠くなって、ちょっと寝てしまったりもしたのですが、自分の発表の時には、寝ている人もいたので、ああまだ本当に力がないんだな、みたいな気持ちにもなりました。
帰る時に雨が降っていて、同期でも、カゼをひいている人が多くなっていく中で、みんなが疲れているんだな、みたいなことを思い、自分だけが学校を楽しんでいるのかもしれない、などとも思いました。
帰ってからは、介護で、午前5時くらいまでは起きています。その介護の間に、次の講義のための勉強をすることになるはずです。
最後の発表
12月14日。火曜日。
学内にあるカウンセリングの機関で、受付実習をしている最後に電話がかかってきて、その応対は、とても難しいものになりました。それでもなんとか相手をさせてもらい、カウンセリングに関する困難さを改めて思いました。
もう午後5時半を過ぎていたので、実習の担当の人は他の電話でしゃべっているのですが、そのまま他の方にあいさつをしてそこを出て、他の同期にコピーを手伝ってもらいながらホッチキスもとめて終わり、学食で時間がないからミニ丼を食べ、それから教室へと向かいました。
時間が来たら発表が始まったものの、基本的には、きちんとまとめたものをしているのに、それでは、ダメだ、というような空気になり、緊張した空気の中で、最後に、と指名されて、発表を始めます。
最初は、5分で終わるように、みたいな事を言われていたので、あわててさらっと終えようとしたら,自分の考えのところはちゃんと話してください、と言われたので、発表を続けたら、そこにいろいろと先生の方から聞かれ、広がり、話に熱は入り、他の同期の人とも議論も出来て、予定よりも発表の時間は長くなったのですが、ぴりぴりしたような空気でなくなって、よかった、と思うところで講義は終わりました。
発表の内容については、その後も少し教授と話をしたりして、何人かとは、あれこれの議論がまだ続き,それが終わってから帰ろうとして、大学の門を出たところで、今日の発表について納得がいかない、ということになって、話を続けたいという人がいたので、自分が使っている駅ではない最寄駅まで歩く約10分の間に、ああでもない、こうでもない、というような話をしました。
そのことで、少しは納得がいったみたいで、よかった、と思う頃に、じゃあ食事でも、ということになり、前も入った中華屋さんに6人で入りました。
そこで思ったより楽しい時間になり、夜が遅くなってから、解散になりました。発表が終わってちょっとホッとはしたのですが、今日も、夜中は、介護をしながら勉強をしようと思っていました。
静か
12月15日。水曜日。
インフルエンザの予防注射をうちに、義母と妻と3人で出かけて、注射を打って来ました。思ったよりも早く終わり、午後4時頃には帰ってこれました。それから大学へ出かけ、午後6時前には学校に着いて、今日は年賀状の写真の撮影のはずなのに、と思って、あちこち見たが、どこだか分からずに、さらに探しました。
そうしたら、新しい校舎の階段にみんなが集まっているのが見えて、もう撮影しそうな感じになっているので、あわてて列に入りました。無事に撮影を終えられました。
それから、カロリーメイトを食べながら、コーヒーを飲んで、教室へ向かって、今日は自分が発表をする、ということで、実習中の電話の出来事の話をしたら、それはやはり意思統一というか、どう対応するかを相談した方がいい、という事になり、話して気持ちが少し軽くなりました。
それで、午後8時前には実習ゼミが終わり、近くの居酒屋へ向かい、今日は修士論文を上級生が書き終えた、という事で、2年生が主役で、という飲み会になりました。
テーブルをはさんで向かい側には、教授陣が3人も並び、という事もあり、一番隅っこに座って、いつものようにウーロン茶を飲み続け、今日はおとなしい人間として場を盛り上げなくてもいいから,盛り下げない感じで、という姿勢でいたのですが、途中で「遠慮し過ぎじゃないの」などとも言われたりもしました。
途中で2人の先生は帰って行きましたが、一人の先生だけは残ってくれ、それから、しばらくは、酒の飲めない人間として、ずっとその場にいたのですが、来年は、自分がこうして「修論お疲れ様でした」などと言われて、学校を去っていくのかと想像し勝手に少し寂しくなりました。
帰ってから、夜中というか、いつものように午前5時くらいまで介護を続けました。
飲み会
12月17日。金曜日。
精神医学の最後の講義を終えてから飲み会ということは決まっていて、それはずいぶんと先のことのように思えていたのですが、もうその日が来て、明日は朝が早い事例検討会で、ちょっと負担感はありました。
とにかく今日はケアマネージャーの人が来てくれるし、歯医者もあるし、でバタバタしていました。紙おむつのことを頼むために電話をしたら、担当が今は他の電話に出ていて、と言われ、それを待っている間に、他のことをしていたら、また紙オムツの担当の人から電話がかかってきたので、今まで2ヶ月先の事まで注文できたのに、急に「1ヶ月単位でお願いします、そういう通達が出たので」という言い方をされ、その人には罪はないのに、なんだか嫌な気持ちになりました。
なんだか疲れて、少し横になってから出かけたら、けっこうぎりぎりの時刻になっていて学食も何だかやたらと混んでいて、その中であわててタンメンを食べて、教室へ行ったら、もうすでに先生はいらしていました。
そこから講義が始まり、今回も内容は盛りだくさんで、それで、途中で統合失調症の人が話をしているビデオを見て、昔の事を思い出し、患者さんに励まされた話をついしてしまったら、なんだか泣きそうな気持ちにもなり、それで、少し反省もしていました。
それでもちゃんと講義を受けた気持ちにもなり、ビデオを見てのレポートが課題になり、枚数を先生に聞いたら、お任せします、と言われましたが、「もし〇〇さん(私)に任せたら、どんだけ書くか分からない」とちょっとあきれたように言われ、笑ってしまいました。
それから飲み会に向かい、私はアルコールを飲まないのに、先生に近い席に座ることになってしまい、でも、同期のテンションの高い女性が隣に座ってくれたので、私は静かにしていればいいので楽な部分もあります。
その同期の女性はアルコールが入ったせいもあるのか遠慮なく質問をしてくれるので、先生もいろいろと当惑もしながらもちゃんと話をしてくれて、そのおかげで、なんだか凄く勉強になったし、この先生はすごい、と改めて思ったりもし、最初に本を読んで、高い志を感じて、講義が進むたびに、その最初の印象が強まっていくことを思い出しました。
何かの拍子に、その先生に向かって、「老眼が一気に進んだような気がして」などと言ったら「急には進みません」と言われ、一緒に笑っていました。先生は終電までいてくれて、おそらく初めて、居酒屋の外まで見送りました。
そのあと、同期に関して、「ありがたいと思っている」と言ったら、「それは対等じゃないでしょ」と突っ込まれ、「今はリハビリみたいなものだから長い目で見てほしい」という会話になりました。
明日は早いけど、楽しかったから、憂うつが少し減りました。
帰ってから、いつものように午前5時くらいまで介護は続きました。
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