『「40歳を過ぎてから、大学院へ行く」ということ』㉓「文化祭」と「相談」
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
(※この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「文化祭」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。今回は、大学院に4月に入学し、半年以上が経った11月の話です)。
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。
(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。
さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、秋の新学期も進んで11月になった頃の話です。
文化祭
11月3日。水曜日。
何ヶ月か前から、一つの大きなイベントのように思っていたのですが、同時にずいぶんと先の話だと感じていたのが大学の文化祭でした。
この期間は講義が休みですし、普通ならば大学院生にはあまり関係のないイベントでもあったのですが、いつの間にか義母を連れて一緒に行くことになっていました。
大学院に通うようになり、介護をしている義母が興味を持ってくれたせいか、大学院のことをよく尋ねてくれたので、筆談ですが伝えるようになったら、気を遣ってくれたせいか、義母の方からよく話題に出してくれるようになりました。
そういえば大学という場所に、今まであまり縁もなかったと思うのですが、さらには、大学という場所に行くことも、今回以外では、私自身もないでしょうから、この機会に一度は見せた方がいいんじゃないか、と思うようになりました。
それならば、文化祭の時がいいかもと、春くらいから思っていて、その事を妻に言ったら賛成してくれていたのですが、春くらいには時間の流れがゆっくりで、夏くらいにはまだ先に思えていました。
それが、9月からの新学期になると、かなり早く時間が過ぎてしまうようになり、このままじゃ、すぐに学生生活が終わってしまう、みたいな危機感もありつつ、でも、文化祭の日が近づいてきた頃、同期の女性の一人がその話を覚えていてくれて、いつ来るの?来るならダンスのサークルのイベントのある日に、と言ってくれたので、11月3日にしました。
その若い同期の女性は、院生でありながら大学の学部のダンスサークルに属していたので、そのように言ってくれたのですが、さらに、もう一人の同期にも声をかけていました。
遠方から通学している女性で、その話を義母にしたら、すっかりその名前も覚えて、いつも義母から話題に出すようになった、やはり若い女性の同期でした。
二人とも、休みなのに文化祭に来てくれることになりました。なお、その遠距離通学の同期の女性は、大学院に入ってからは都内で住むようになっていました。
前日から知っていると興奮して眠れなくなったり、体調がかえって崩れたりもするので、義母にはぎりぎりまで知らせず、準備だけはしていて、今日の昼くらいに妻から話をしたら、ぜひ行きたい、とすぐに言われたので、出かけることに決まりました。
直前までどうなるか分からないことを同期にも伝えていたのですが、午後1時くらいにまずはダンスサークルの同期に電話をしたら、「もう大学に来てる、けっこう人が多いよ。車いす大変かも」と言われ、あとで考えたら、私たちが行くから、かなり前から来てくれているのかも、などとも思いました。
出かけるまではスムーズで、午後1時前には出かけ、このままだと予定の2時半より早く着くかも、などと思っていました。
車イスでの移動のため、どこの駅にエレベーターがあって、トイレの場所も確認していたので、途中の駅でトイレに行き、それから大学の最寄りの駅までは順調に行ったのも少し意外でしたが、降りてからはトイレにまた行ったり、コンビ二で手袋を買ったりして、結局は予定よりも5分ほど遅れて着くと思ったら、門のそばで2人に会いました。待ってくれていたようです。
若い同期の女性二人は、すごく笑顔で、90歳を超えて耳も聞こえず車イスの高齢者にも優しく接してもらい、義母もうれしそうでした。それから、学校に入ったら、屋台があったりもしたのですが、なにしろ人がすごくいて、お祭りという感じで、こんなに人が来るなんて思わなかったくらいでした。
最初にステージの前に席をとって、という事になったのですが、イベントまでまだ30分くらいあったので、屋台を冷やかして,と思って、大学いもやウインナーや、クレープなども食べました。席はダンスサークルの同期がとってくれていて、もう一人の同期の女性は、義母と妻と私といっしょに屋台を回ってくれていたのですが、そのうちに時間が過ぎ、イベントまで、もう5分前になりました。
ステージでダンスが始まり、そのサークルは何十人もいた事を初めて知り、それから、同期の一人は、義母に筆記ボードに、次に踊る人のことなどの情報も書いてくれていて、それは様々な気使いのあらわれのようにも見えました。
音は大きかったのですが、車イスに座り、耳がほとんど聞こえない義母には気にならないようでした。二人の若い同期の真ん中で、どちらかがいつも笑顔で何かしら言ってくれていて、その間にステージはダンスが次々と披露され、義母はあきるかと思っていたら、二人が気を配っていてくれたおかげで、かなり長い時間、そこで拍手をしたりして、見ていました。とてもありがたいと思いました。
義母は途中でトイレに行くことになったものの、そのイベントを最後まで見ていました。私もダンスをこれだけ見ていたのは初めてで、自己表現とは?みたいな事を考える瞬間もあったのですが、何しろ義母の様子が気になり、いつ突然体調が崩れたりするかと心配で、失礼ながらそれほど集中出来ませんでした。
でも、同期の二人には本当に親切にしてもらって、義母はたぶん感激の表現で、二人の頭を「ホントにかわいい」と言いながら、なでていました。そのあと、義母はしばらく、みんなすごく優しくて感心した、と繰り返していました。
私も同じ気持ちでした。すごくありがたかった。ダンスをホントに集中して見られなかったのは失礼でしたし、これがダンスサークルの大学生の学部の4年生の最後の舞台、みたいな事には、やっぱりいろいろな事を思いましたが、でも、行けてよかったのは間違いありません。
帰りの地下鉄の中でも、なんだか夢のような出来事だと思っていました。だいたい、今年の春から大学院に通い、今日みたいに義母にも親切にしてくれるような、自分の半分くらいの年齢の若い女性と同期というような事が、嘘のような事なのだと、改めて思いました。
義母には大学院というシステムや、さらに私が、彼女達と同期なのだと、という関係が、何度説明しても、今も理解してくれていないし、それは説明がまだ足りないかもしれませんが、それは無理もないことかもしれません。
この毎日が、まだキラキラとしていたことに改めて気がつきました。そして、それは、大事にしないと、あっという間に過ぎてしまうような時間ですが、ラッキーな事にまだ1年半は続きます。もっとやるべきことをして、きちんと学ぼうと改めて思いました。
翌日になっても、義母は、同期の二人のことをはっきりと覚えていて、優しくて感心した、といったことを何度も私に伝えてくれました。
それに、ご近所の人にも、そうした話をしていたのですから、義母にとって、楽しい時間だったことは間違いなく、それはありがたいと改めて思いました。
講義
11月6日。土曜日。
学外で行われる講義に出かけることにしました。春学期に教わっていた教授が移った先の大学での講義でした。
今日は義母がデイサービスなので、妻も出かけていて、出かける間際に自分のサイフを見失って、もう間に合わないんじゃないか、と思うくらい見つからなかったのですが、重なった服の下の方の暗い中にうもれるようにあるのを見つけて、やっと出かられました。
なんだか情けない気持ちでした。
何かを食べながら行こうと思ったのですが、とにかく電車に乗って、途中で発熱の半袖シャツを着て来たのが暑くて、着替えようと思い、目指す大学の最寄りの駅のトイレに入って着替えて、大学内に入ったら、立て看板が道路のわきにきれいに置いてあるようなキャンパスで、初めて入ったのだけど、やっぱりこぎれいな感じがしました。
目指す場所へ近づいたら声をかけられ、若い同期の人たちがもう来ていました。並木の下のベンチで駅であわてて買ったカレーパンとみかんジュースで今日最初の食事をしてから、中に入りました。
その大きい教室は、人でうまっていました。
臨床の世界での著名な人たちばかりが、壇上では話をしていたのですが、やはり患者やクライエントと向かい合うときは、一人で向き合うしかなく、理論や心理療法と言っても最終的には自分自身がやるしかない、という臨床の性質のせいか、存在が生々しいというか、存在が強いというか、独特のものがあるのに何だか感心してしまいました。
そして,今、壇上にいる講師は約50年、精神科の医者として働いてきているはずなのですから、もうかなりの年齢のはずなのに、普通にエネルギーに満ち、それはとてもすごいことと同時に、これから仕事を始めようとしている40代後半の私には、ありがたい存在に思えました。
その後に休憩をはさんで、今度は、その精神科医の講師は、ベテランの臨床心理士と対談をしたのですが、それはお互いに自然にフォローし合うような形になっていて、それにも感心したのですが、行動療法の先生が、身振り手振りが大きくなると手元のマイクから顔が離れて声が聞き取りにくくなってしまうというような、自然な熱の入り方もなんだかすごいと思いました。
それに加えて、ディレクティブ、という質問が出た時のさらに違うスイッチの入り方は、おそらくは、誤解されている、だから伝えなくては、いうような熱意だと思えました。
誰に対しても、ああせいこうせい、と指示することがディレクティブではないし、それで動くようだったら、ここに話には来ません。という言い方をしていました。
寝込んでいるような人だったら、起きるような方向へ、ぼんやりとでも気持ちが向かいそうな時に、その方向を少し指し示す、みたいな事をディレクティブと言います、という言い切りにも、凄みと納得を感じました。
その後、教授方に誘われて、同期の皆さんと、お茶を飲んだ時にも、そういうちゃんとした感想を言えず、あとから考えたら失礼な事をしたのでは、と思いました。
それから山手線の一駅分を歩くという学生らしい行動のあと、ラーメンを食べて、その日誕生日だという人に卵だけをおごり、それからどうしようか?と居酒屋に行き、同期の女性が合流し、また去ったりの時間があり、携帯を持っていないので、自宅に電話をするのに携帯を借りたりもしました。この頃、携帯もスマホも持っていない人間がいることに、周囲の人も慣れてきてくれたようです。
それからの時間は熱心なロッテファンの同期の女性が携帯でテレビを見て、一喜一憂していて、その周りでそれを見ていて時間が過ぎ、終電で帰って来ました。2日続けて帰宅が遅くなりました。
ノートパソコンを開けてメールを見たら、昨日、会った30年来の友人の女性が、私の感じが以前と少し変った、よくなった、という内容で、ありがたい気持ちになりました。明日から、またちゃんと勉強をしないと、と思いました。
帰ってからは、夜中まで介護が続きます。
変化
11月7日。日曜日。
おとといは夜遅くまで同い年の友達と一緒で,昨日は、年齢が半分の同期の人たちと一緒で帰りが遅くなりました。
そのあとは介護の時間でしたが、おととい一緒だった友達からは感じが変ったと言われ、そのことについて妻から、「確かに変ったよ。黒い雲がなくなったでしょ。あとは、やっぱり寛大になったかも」と言われ、その変化は、でもかなり普段から意識しているはずなので、それが表に出てき始めたのかも、とは思いました。
昨日、初めて面と向かって話をした人に尋ねられたので、自分の社会人になってからの二十五年を簡単に話しても、「いろいろあって、よくここに今いますね」的なことを言われるので、知らない間に独特の人になっているかもしれないと思いました。
課題とか発表とか、考えることが多くなると、かなり気持ちが重くなって、これが終わる11月の末のことに思いが飛んだりもするのですが、でも、そうやって早く過ぎないか、と願うことの繰り返しが結果として時の進みを速くしたり、毎日を知らないうちに祖末に扱ったり、ということにつながってくるような気もして、今のこの時をちゃんと感じて、その追い立てられる感じもちゃんと感じて、というような気持ちもどこかでわいてきます。
同期に居酒屋などで年齢を聞かれ「49歳」と言ったら、「そんなにいってるんですか?」「前も言ったのに」という会話を、この何ヶ月も何度もしていると、少し恥ずかしかったですし、さらには、改めて自分の現実を知らされたような思いで、ちょっと悲しくもなりました。
その一方で学校は楽しいままで、今日も夜中に義母をトイレに連れていった時に、義母は笑って、「越智さんのお友達って優しくて感心した」とまた言われ、なんだか誇らしい気持ちにもなりました。
だけど、考えてみれば、友達というには年齢が離れているから、どうなのだろう?と思いつつ、そんなことを言うと、妻には「ぐちっぽくて嫌だ」と言われるのですが、それも当然だとも思いました。こだわることが違うのは、自分でもわかっているのですが。
重さ
11月8日。月曜日。
朝起きてから、妻が病院に出かけているので帰ってくるまで少し勉強ができました。それで、少し気が楽になったものの、発表のために使う本を借りておこうと思って、地元の図書館に電話をして、その在庫を確かめました。
病院から帰ってきた妻と相談をして、「早めに出ても大丈夫」と言われたので、夕方にデイサービスから帰ってくる義母のお迎えをしないまま図書館へ寄って本を借りてから、学校へ行きました。
そこで、また大学図書館に寄り、そこにはない本を取り寄せるか、他大学へ行くか。という話を親切な図書館のスタッフの方と話をして、結局は他の大学へ行って読ませてもらう方向へ進みました。
でも、それは木曜日か来週の月曜日に行くことになるから、また昼間に勉強をする時間が減るということでもあるし、義母のデイサービスからのお迎えをまたできなくなる、ということでもあるので、妻に電話をして、おわびをして、それで来週に他大学の図書館に行くことにしました。
それで学食に行く時間がなくなってしまったので、教室へ行って、コンビ二で買ったカレーパンを食べてトマトジュースを飲みました。
講義が始まり、それは倫理に関することで、なんだか教室の空気が重くなりました。資格の話になったり、プロとして技量の話になったりもしたのですが、空気は重いままでした。それを何とかしようとして、発言して、でも、話が微妙にグダグダになってしまって、何も変わらないままでした。
講義が終わり、地下鉄に乗ったのですが、今日はその方向へは誰も一緒でもなく、借りた本を読みながら帰って来ました。途中で眠くなったりもしたのですが、読んでいるうちに駅に着き、家に電話をして、コンビ二で軽食を買い、帰ってから妻のイラストの相談に一応のったのですが、まだ気持ちは重いままでした。
それは、これから1週間のことを思うと、とてもいろいろなことをちゃんとやれる気がしなくなり、頭も重く、ただゆううつになっていたのですが、主介護者である妻を寝かせ、これから夜中の介護を始める時に、気持ちが重い話をしてしまったのですが、妻は聞いてくれました。
それはやはり、倫理というのが禁止事項の固まりに見えてしまっている、ということでもあって、でも、それはまるで相手との関係を近づけない、というようにも聞こえて、ちょっと嫌になったりするようなことに思えてしまっているようでした。だけど、人間関係は大事で、それを適切に保つための話でもあるという前提が語られたら、それは重いながらも、もう少し有意義なものになったような気もします。
倫理というものが、堅苦しいだけで、いつも(気持ちとして)そばにないもの、になってしまえば、それは倫理を破ることが自然に多くなってしまうのではないか。
そんなようなことまで、妻と話すことで進んでくれて、少し気持ちが軽くなったのですが、結局は、いろいろな課題と発表のことで、追いつめられた気持ちになっているのかもしれません。
でも、それは、ある意味、ぜいたくなことだと、本当に思います。
本
11月9日。火曜日。
大学の図書館から留守番電話が入っていた、と起きてから妻に聞きました。
昨日、お願いしていた他の大学の図書館への紹介状が用意できた、という話でした。早くてありがたいと思いました。
今日は、カウンセリグ施設での実習なのでいつもよりも早めに出かけて、地下鉄の中で朝食兼昼食を食べて、いつもの駅に着きました。
半年が過ぎ、定期券を買い替える頃になると、やっぱりその環境には慣れてきます。
昨日の夜は講義自体の重みもあったり、課題や発表に間に合うのだろうか、という不安もあって、帰って来た時は本当に気持ちが暗かったのですが、妻に話を聞いてもらえたのと、夜中の最初の頃はホントに調子が悪かったのですが、介護をしながら、その間にある程度、課題が前へ進んだら、少し気が軽くなり、今日は午後から実習があるものの、その後の講義はいつも充実しているし、同期の人達にも会えるし、というので、気持ちが昨日の夜中と違っていました。
大学に着いて、実習の場所に到着したら、カウンセリングの施設に勤めている人が、お子さんを無事に生んだことを知りました。やっぱりうれしいことでした。おめでとうございます、と声をかけさせてもらって、それから作業に入りました。
午前の受付担当の人は、今日もインテーク陪席に入っていたのを記録で知りました。それから、事務作業をやっていたら,意外と速く時間は流れ、そのうちにこの前、私が陪席に入ったケースの担当が決まり、それは同期の女性の人でした。
その担当の女性に、私に何か話してください、と先生に言われたので、陪席のあと、ここ2週間くらいの間、考えていたことを話したのですが、でも生意気だったかも、などとも思いました。
自分が担当できないのは残念でしたが、それでも、そのクライエントさんに感じたことを話し、そして、あとはよろしくお願いします、というような話をしてから、また受付の席に戻りました。
その後、午後5時近くになってクライエントさんが来たり、電話がなったり、と今までがウソのように急にあわただしい時間が流れていき、5時半になっていました。
紹介状を書いてくれた、と連絡があった大学の図書館へ行くまえに家に電話をしたら、地元の図書館からも電話があったと聞きました。
それは、他大学にあると知り、木曜日にとりに行こうとしていた本かも、と思ったのですが、でも1冊はあったとしても、もう1冊はどちらにしても他の大学の図書館で閲覧することになるのだから、と自分に少し言い聞かせて、でも、地元の図書館へも電話をして確認したら、どうやらその本のようでした。
その取り寄せのスピードにちょっとびっくりしたのですが、もう少し早く分かれば、とも思いながら、でも、もう1冊はないわけだし…とまた同じ言い訳を自分にしつつ、大学の図書館へ行きました。
昨日も相談に乗ってくれた親切なスタッフが紹介状を書いてくれて、なんだか嬉しく思いました。こうやって、資料を集めたりするんだ、というような気持ちになり、すっかり学生の気分になれて、ちょっと浮かれたような感じで学食へ行ったら、同期の女性ばかりがいて、その隣で丼ものを食べて、アイスを食べて、コーヒーを飲みました。
それから家族心理学の講義へ行ました。
担当しているのは、研究ゼミの指導教授でもあって、今も敬意を持ち続けている人でもあるのですが、ロールプレイのような方法の講義でした。
家族がカウンセリングに訪れた場合、その座り方が違うだけでも、そのカウンセリングの展開がかなり変ってくる、というのを分かるために、実際に家族の役をやることになりました。
年齢的にも、父役をやりますと率先して手をあげたら、娘がやりたい、奥さんをやってみたい、と言ってくれる同期があらわれてくれました。それから、でも、ロールプレイと分かりながらも、けっこうその気持ちになれて、楽しい場面もありました。
2回目のロールプレイは外から見たのですが、3回目も、参加できましした。家族という構造の複雑さ。それに、どんな配列で座るのかが違ってくるだけでも何かが確実に変ってくる、という人間関係の不思議さというか微妙さ、のようなものを改めて少し感じました。
ロールプレイでさえそうなのですから、実際の家族カウンセリングでは、本当に微妙なことで変わってくるのだろうと思いました。
地下鉄では、久しぶりに同期の人と途中まで一緒でした。そして、家に戻ってから、介護をしながら、夜中に少しでも課題についても、がんばろうと思いました。明日は母が入院していた病院での誕生日カード作りのボランティアで、その時に、一緒にボランティアをしている皆様に研究の協力をしてもらおうとしています。
まだ課題がいくつもあって、発表もあって、その間にさらに実習があって、テープ起こしもしなくてはいけないし、といろいろとあるのに、でも、今日は穏やかに過ごせる時間があったので、なんだか気持ちが全然軽いようです。また、これからがんばろう、と思えました。
介護はいつものように続き、就寝は午前5時頃になりました。
あせり
11月10日。水曜日。
今日は、やることが多くなりました。
地元の図書館に行って、資料を借りて来て読んで、なんとなく面白いと思い、その後に約2時間かけて。病院の誕生日カード作りのボランティアへ行き、そこにいる皆様にインタビューをお願いする手紙を渡して、その反応がよくてホッとしました。
ボランティアが終わってから、駅へ向かい、電車に乗って、また2時間かけて、大学へ向かいました。
途中で買い物をして、午後6時過ぎに始まる講義に、ぎりぎり間に合うと思っていたら、大学へ着いてからコピーをとるのに手間取って、汗をたくさんかいて、教室へ着く頃に先生とすれ違って、それから、教室へ行きました。
今日は、修士論文を書いていくための研究ゼミの講義です。
今日の手紙や同意書の事や、本の引用などの話をして、あとは論文の読み方などの事も話してもらい、そうこうするうちに、時間が経って、午後7時半頃には終わりました。院生は1年生二人だけだから、早く終わっても講義の中身は濃いと思っています。
でも、早く自分の研究に取りかかる、というのは、調査ではあるのですが、自分の感覚では、ようするに取材ということで、そろそろインタビューを始めないと、とプレッシャーをかけられるような気もしているが、それまでにやることもけっこうある、とチラッと思ったりもしたのですが講義自体は、早目に終わったこともあり、少し閲覧室でくつろいでいたりしてから、午後9時半頃には家に着きました。
なんだか余裕が出て、だから録画してあった松本人志のコントを見て、そのあとは「ためしてガッテン」の録画を見ていたら、たまらなく眠くなってきて、そうこうしているうちに午後11時すぎになってしまい、あれ、明日は他の大学の図書館へ行かなくちゃいけないし、夜は講義もあるし、帰ってくるのは午後11時頃だし、あさっては歯医者があって夜は講義があって、同期の相談にものるし、そうなると、土曜日は実習があって、日曜日は講習があるし、月曜日も発表だし、火曜日は実習で発表だし、あ全然時間がない、というのが分かって、ちょっとあせりました。
その上で、来週の金曜日にはまた課題だし、再来週までにはロールシャッハをやらないといけないし、それはごまかしがきかないから学ばないといけないし、その上で実習の逐語録を起こさないといけないし、と考えていたら、今日、研究ゼミで一緒に学んでいる優秀な若い同期の男性が「時間がぜんぜんなくて、何もやってない」とつぶやいていたのが、なんとなく分かります。
それでも自分は、介護のすきまの時間がある方だと思うし、でも、こうやって根をつめると心房細動は完治もしないから、死んだりしないかどうかはちょっと心配になるものの、それでも、けっこう楽しくて、それは傍から見ていても,楽しそうですね、と微妙にあきれて何人かに言われるので、本当なのだろう、とも思います。
今は、いろいろとやることがあって、つらいかもしれないけれど、それはぜいたくなツラさだと、何年か前の自分に鼻で笑われるような気もしますし、それだけ体力が少しは戻って来たのかもしれません。
介護は相変わらず続けなくてはいけませんし、今日も午前5時頃まで続きます。
そんな状況の中で、色々と本を読んだりしながら、年末のフットサルに向けて、もう少しトレーニングを増やしたほうがいいかも、と思ったりもします。
明日は他の大学の図書館に行くのですが、実は初めての大学で、ちょっと楽しみだったりもします。
適性
11月11日。木曜日。
家から1時間以上はかかる、いくつも大学がある私鉄の駅で降りて、少し歩いて、初めての場所だったのですが、キャンパスだ、というような大学に着きました。そして、いつも通っている大学より微妙に広いけれど、でも、当たり前ですが、やっぱりそこにいる学生さんが、みんな若いと思いました。
紹介状を持って、図書館に入りました。
その紹介状を、図書館のスタッフの方に渡し、資料をコピーさせてもらって、というようなことをしていること自体が、自分にとっては初めてのことで、学生だ、というようなちょっと盛り上がる気持ちもありました。
またいつもの大学へ30分くらいかけて着いたら、午後5時半くらいになっていて、そこでコピーをとってからトイレでTシャツを着替えたら汗でびっしょりになっていて、それから学食で丼ものを食べて、周りも同じメニューを食べている人は、甘酢がおいしくない、と言っていたのですが、私には大丈夫だったので、自分の味覚が鈍いかも、とも思いました。
食後にアイスを食べて、コーヒーを飲んでナチュラルに機嫌がいいまま、講義へ出たら、今日はここのところ寝不足気味のせいもあって、初めてに近く、かなり眠い感じで、あやうく眠りそうになったのですが、ロールシャッハのことが少し身近に感じられて、というような感じにもなって、講義は終わりました。
その後、地下鉄で久しぶりに、同期の何人かでいっしょに帰ったのですが、その中で、適性についての話になりました。確かに、今年も順調に過ごしていたように思えた大学院2年生が急に学校をやめたり、ということはあるし、何とも言えないのですが、でも、その同期の人のおかげもあって楽しい学生生活を送れているのに、今改めて適性についての話になるなんて、とは思いました。
臨床心理士に向いている、向いていない、という話は、これからもずっと続くような気もしました。
相談
11月12日。金曜日。
今日は、講義の前に少しでも勉強をしておこうと思ったら、メールがいろいろと来ていて、返事を書いたりしていたら、時間がなくなり、そのまま出かけました。
今日は、講義が終わってから、同期の人の相談に乗る約束をしていて、かといって自分が何か有意義なことを言えるわけもないのですが、一応は自分が知っている介護関係の話題なので、今週と来週は発表と課題できつい、と思っていても、出来る限りのことをやらないといけないと思っていました。
午後6時前に、学食へ行ってラーメンだけを軽く食べたら、けっこうおいしく感じました。それから教室へ行ったら、今日、相談に乗るはずだった人が講義を休むらしい、あとで携帯で話してください、と同期の人に言われました。
私が携帯を持っていないので、別の同期の人に電話をかけて、伝言を伝えてくれていて、色々な人に、なんだか迷惑をかけてしまったと思いました。
講義はいつものように穏やかに進み、前半の90分が終わりました。
アルファ波が出そうになった、と眠くなったことを、休み時間に話す人もいたりして、その時間に同期の人に電話を借りて、電話をしたら、やはり調子が悪そうなので、今日は相談をするのも無理ではないか。別の日にしたほうが、という話に落ち着きました。
後半の講義が始まり、そして、予定よりも長くなって終わり、社会人入学の同期の人に「今日、予定あいたんですよね?よかった飯でも食いませんか?」と言われ、出来たら早く帰って勉強を進めたいとも思っていたのですが、この前から「研究のことで出来たら話を聞いてください」と頼まれていたので、このタイミングでしか話が出来ないかもと思い、これこそ、この前講義で聞いた、毎日をちゃんと生きる、ということの一つだと思い,何しろ必要とされる場合はちゃんとしなくちゃいけないとも思い、いっしょに居酒屋へ行きました。
それで研究の話をしたのですが、その人のフォーカシングに対する熱い思いと深い考えと、目指そうとするものがけっこうすごいと思い、なんだかとても面白く思えました。そして、これまで少し行き詰まっていたことに対して、今日の講義で、それを打開するきっかけをつかんだ、という話を聞いた時は、ちょっとうれしくもなりました。
終電になってしまい、午後1時頃に家に帰ったら、いくつもメールが来ていました。その中で結婚式のスピーチの相談に乗って欲しい、というメールがあって、それに返信したら、午前2時近くになってから返事が来ました。
その途中でも、義母をトイレに連れて行かなくてはいけません。
そうやっているうちに勉強をする時間が少なくなっていって、明日の実習のためにももうお風呂に入らないといけないけれど、こういうことをちゃんとやるのが、この前、講義で聞いた、毎日をちゃんと過ごすことが臨床につながる、ということだと思いました。それに人に必要とされるのはありがたいと本当に思いました。
それに、その深夜のメールのやり取りで、その同期の人が、その結婚式を挙げる友人への思いがとてもまっすぐで、できたら、そのまま伝えられるように、と思って、そのスピーチの文章について、考えて、その同期の人の要望で、また修正をして、なんとか納得してもらえたと思いました。
介護は、それでも、夜中の5時頃まで続きました。
追い込まれる気持ち
11月13日。土曜日。
昨日の夜は相談相手が変って帰りが終電になり、帰って来たら相談のメールが来ていて、それで夜中の時間が過ぎていきました。こういうのをきちんとやらないと明日はないかも、と思いつつ、今日も実習で、それも他に誰も集まらず、仕方がないので私が一人でいつもの場所へ行き、いつもよりも広い部屋で待っていて、もう指導の先生も来ないかもしれない、と思ったら時間ぴったりで、やってきてくれました。
今日は、自助グループの出席者が少なく、しかし、途中から参加する人もいて、それが人によっては明らかに調子が悪そうな人がいて、でも、そうやって一進一退が当然では、と思いながらなるべく気配を消すように、筆記を続けていました。
いろいろ大変だというのはよく分かった気がしました。そうやって2時間くらいで実習は終わって,途中の駅で降りて、駅ビルに寄り、本と服を買おうとしたら自分のものはなく妻のものを買って、帰って渡したら、妻には喜ばれました。
それから夕食を食べ、皿を洗っていたら午後9時近くになり、義母が電気を消してテレビを見ていて目にも悪いから、と怒ってしまいました。
そして、また時間が少なくなったのと、まだ来週や再来週に向けて課題があったり、発表があったり、今日の実習の逐語録を起こさなくてはいけなかったり、考えたら、気持ちが冷えるくらい、たくさんのやることがあり、もちろん介護を続ける生活にも変わりがあるわけではありません。
それでも、やることがあるというのは、社会の中に生きている感じがして、実はけっこう嬉しかったりするのは、これまで、どれだけ孤立していたんだろう、というような気持ちになり、それこそ、かわいそうな中年だったのかも、などとも思い、妙な気持ちにもりました。
同時に、妻の負担についても改めて気になったりもします。
発表
11月14日。日曜日。
この2週間、たぶん頭の中の何割かはいつも「土居健郎」のことで占められている気がします。講義での発表が、この人の論文を読んで、まとめて発表する、ということなのですが、いつのまにか学生への期待値が上げられて自分なりのレジュメにして、出来るだけ独自の発表にしないとかなりダメになってきていました。
それは不満が出てもおかしくないことでしたが、私自身は、その教授が、(学生なので偉そうですみませんが)臨床のプロとしてもすごいとも思っていて、それもあって、より全力を尽くしてきました。
今回の私の発表の部分は、かなり量が多く、それに加えて参考にする論文も多くあったりするので、それも読まなくちゃ、と思いながら図書館に頼んだり、他の大学の図書館へ紹介状を書いてもらって出かけたりをしていて、かなり手間ひまがかかっていて、でも、同時にこれだけやった、というような少しは満足感があるかと思っていたのですが、それよりも焦りが上回り、発表のための文章ははかどりませんでした。
昨日、やっとぐずぐずと時間ばかりがかかったレジュメの1回目を見たら、なんだかひどい出来で、あーあーと思ったがとにかく、あさってが発表だし、その日はカウンセリング施設の受付の実習もあるし、だから、実質上、今日ある程度メドをつけなくちゃいけないと思うと、憂うつでした。
でも、レジュメの文章を打ちながら、妙に気持ちに余裕があったのは午後11時くらいまででした。
そこから、介護はいつものように続けながら、とにかく発表のためのレジュメを必死になって作り、ただ削るだけと思っていたら、読み落としていた部分もあったので、また新しく付け加えたりもして、そうしたらそんなに苦痛ではなくなる時があったのですが、それも長くは続きませんでした。
それで、削ってもどうしてもA3で4枚になってしまうから長い、とも思ったのですが、でも、仕方がない、それだけ伝えることがあるから、とある意味では開き直って、というか、それだけ元の論文の文章が長かったから、と改めて思ったりもし、この発表のことでどれだけの時間をかけたんだろう、と振り返ったりもしたけど、とにかく全力でやろうと思っていました。
今までの50年近く生きてきたすべてを出し尽くそう、と毎回、発表のたびに思っているので、それがいいかどうかは分かりませんが、うっとおしいくらいの密度のレジュメは出来たと思いました。
もう、これ以上、無理にレジュメを縮めるのはやめました。これはおそらく必要な情報だと思うので。小さい頃から含めて、こんな風に一生懸命勉強したことは、たぶん記憶にありません。やっぱり不思議な毎日でした。まだやることはあれこれあるけど、今日のところは、明日もあるし、これ以上は無理だと思いました。また明日。
午前5時頃まで介護を続けて、寝ることにしました。
相談
11月15日。月曜日。
今日は雨でした。
月曜日はいつも降っている気がします。
義母がデイサービスから帰ってくるまで、けっこう必死で明日と今日の講義のためのレジュメを作っていました。
なんとか一段落ついて、街へ出かける用事があり帰りにコロッケをもらってきたという妻と一緒にそのコロッケを食べて、義母をデイサービスから帰ってくるのを迎えてからすぐに出かけました。
午後6時前に大学に着いたら、学食には同期は誰もいなくて、しかも学生で混んでいて、入り口のそばのテーブルでカロリーメイトを食べてコーヒーを飲んで教室へ向かおうとしていたら、同期の人が来て、これからカレーを食べるというのですが、申し訳ないけど、時間も迫ってきているので先に教室へ行きました。
今日も生徒は少ないけれど、でも発表をしながら講義が進んでいき、その担当の先生の話は幅が広く、とてもタメになる感じがしつつさらに時間が進みました。
来週はゲスト講師が来てくれる、ということで、ちょっと楽しみだったりもしたのですが、この講義は楽しいと一緒に受けているすでにプロの心理職として仕事をしている人も言っていたので、本当なのだろう、とも思いました。
講義が終わって、今日は帰って明日の準備をしようと思っていたら、地下鉄が一緒の同期の女性が、みんなに相談に乗ってほしい、ということになり、居酒屋へ行きました。
そこで相談になったのですが、そこに揃った人たちは、けっこう平均年齢が高く、私がもちろん最高齢ですが、あとは40代前半、30代後半、その相談したいと言っていた女性だけが20代でした。
先週の金曜日は30代後半の同期と一緒でしたから、そういう日が続くと思ったのですが、でも、いろいろと話が聞けて、興味深くもありました。
帰りの地下鉄は、その相談したいといっていた同期と久々に途中まで一緒でした。
その地下鉄の車内で、前の座席に座っている中年の男性が、急に体を激しく震わせるような発作を起こし、それを見た同期の女性が、緊急の対応をしてくれる医療者を探したり、車掌に伝えようとするなど、いろいろと動いてくれたのですが、私はその男性の同伴者が、大丈夫です、とすごく冷静に言っているので、大丈夫なんだ、と思っていました。
だけど、それは、そう思いたいだけかもしれず、自分の中に、どこかそれ以上は面倒くさいと思う気持ちもあったのかもしれません。
男性は、座席からずり落ちてしまっていたので、様子を見ながら、一応、座席に戻す手伝いはしたのですが、でも、自分のことのように心配している同期の女性を見て、その共感力の高さに感心もしました。
それでいて、その出来事が落ち着き、その人たちが降りたあとでも、その後で、同期の女性は「わたしは余計なことをしたかもしれない」というので、その同期の人が降りるまで、そのことについて話をしました。
生きにくいかもしれませんし、時として人にうまく伝わらないことがあったとしても、でも、この人は正しいのでは、という気持ちになりました。
(次は11月後半、㉔へ続きます↓)。
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