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『認知症予防』と『軽度認知障害』について、改めて考えて欲しい理由

認知症予防」という言葉が言われるようになって、かなりの年月が経ちました。

 今だに、この言葉を聞くと、割り切れない思いになるのですが、このところ、「軽度認知障害」という診断名もよく耳にするようになり、さらにもやもやした思いになります。

 改めて、この「認知症予防」と「軽度認知障害」のことについて、考えてほしいと思ったのは、この言葉自体、というよりは、この言葉をめぐる様々なことに関して、まだ検討する余地があると思ったせいでした。


認知症の診察

 認知症の診察、という医療者から見たら、最初の一歩であること。そこからようやく始めることができるというようなことなのでしょうが、診断される側-----正確にいえば認知症かどうかを診断される当事者の家族に過ぎないのですが----に回ることには、勇気がいると思います。

 これは、仕事を辞めて、介護に専念していた頃の話です。

 義母(妻の母親)を、妻と一緒に在宅介護をしていて、結局は20年近くの年月が過ぎたのですが、身体的には耳が聞こえなくなるのも早く、車イスでないと移動できなくなるのも、あまり覚えていませんが、介護を始めてから、比較的早い時期だったような気がします。

 その一方で、認知症に関しては、かなり年齢を重ねるまで、それほどの心配がなかったので、その点では幸運だったと思います。

 最初に、「認知症では?」という不安が起こったのは、義母が90代後半になる頃でした。

 毎日、ベッドの上で過ごし、デイサービスに出かけ、2ヶ月に1度ショートステイに行ってもらっていたのですが、その生活の中で、突然、不思議なことを言い出しました。

「天井の上から、風のささやきが聞こえる」。

 表現としては美しいのですが、すでに聴力の能力は低く、周囲から大きな声を出せば聞こえると思われ、耳元で大声を出されることも、義母自身も、声を出してもらう側にも負担がかかると思い、身障者手帳をもらっていたような聴力でしたから、ありえないことでした。

 テレビも字幕と映像中心で、音のことは話題になることもなかったのですが、そのように急に「風のささやき」と言い出した時、ちょっと怖かったのは、いよいよ認知症ではないか、と思ったからです。

 もし、そうであれば、妻と二人で10年以上、在宅介護をしてきましたが、それからさらに介護負担が重くなるのは確実でした。

 その年も、大学院の受験を考えていました。
 臨床心理士になろうと思い、そのためには臨床心理学専攻の大学院を修了しないと資格試験を受験することもできないのがわかったので、まず、大学院の受験をしようと準備を進めていました。

 勉強をし、模擬試験を受け、前年には受験をして、失敗しました。介護は続けていたのですが、認知症だとすれば、妻が一人でみるのは難しく、そうであれば、大学院の受験そのものをやめようと思っていました。

 すでに40代後半でしたら、介護が終わったあとでは、臨床心理士になること自体が、もう不可能かもしれないとも感じ、なんとも言えず、悲しい気持ちになりましたが、そのことは妻には黙っていました。

 そんなこともあって、認知症の診察をしてもらうまで、多少のちゅうちょがありました。もし、認知症だったら、大学院の受験をやめようと思っていたせいもあります。だけど、義母の「風のささやき」という発言は、少し表現を変えながらも、やや頻度が多くなってきました。

 幸いなことに隣町に認知症を専門に診てくれるお医者さんがいることは知っていました。だから、行くとしたら車イスに乗ってもらって、二人で行けるので、そういう意味では楽だったのですが、心理的な距離は遠いままでした。

 でも、いつかは行かなくてはいけません。

 義母には、最近調子が悪いので、という言い方をしても納得してくれず、だから、体だけではなく頭も含めての健康診断をするといった言葉を伝えて、一応は納得してくれて、病院へ向かいました。

医師の説明

 病院について、待合室で待って、名前を呼ばれて、診察室へ3人で向かいました。

 義母にも、私たちにも柔らかく接してくれる医師で、それだけでホッとしました。長谷川式は、臨床心理学の勉強をしているので、知識としては知っていましたし、その後にMRIなどで検査もしてもらったときは、義母には「少し時間がかかるけど、動かないでください」と筆記ボードで伝えると、納得してくれて、義母の協力のおかげで、無事に検査も終わりました。

 待合室で待って、再び、呼ばれて、3人で診察室へ向かいました。

 緊張もしていましたし、覚悟もしていました。

 認知症ではありませんね。年齢相応だと思います。

 MRIで見せてもらった脳の様子は多少の萎縮があるようでしたが、90代後半の割にはしっかりしているようでしたし、記憶を司どる海馬が極端に小さくなったりもしていないようでした。

 すごくホッとしました。目の前が明るくなったような気もしたのは、これで大学院の受験もできる、と思ったせいもあるでしょう。

 その時は認知症かどうかの診断でしたが、認知症でないことで、確実に患者の家族の未来も変わりました。

 そして、その診断をしてくれた医師は、義母だけではなくて、家族にもなるべく不安を大きくさせないような配慮が感じられて、とてもありがたく思いました。

 本人も不安なのは間違いないでしょうが、家族にとっても、「認知症の診断」は、とても怖い瞬間でもあると想像でき、その怖さは、今でも変わりがないと思うのは、現時点では、認知症は治療ができる症状ではなく、できることは進行を遅らせることだけ、といった基本は、変化していないからです。

 認知症を治す薬が、もし将来できたら、その診断に臨む気持ちは全く違ってくるはずです。

 義母が認知症と診断されたのは、それから何年か経って、大学院を修了し、臨床心理士の資格もとった頃だと記憶しています。もう100歳近くになっていましたから、待っていてくれた感じもしましたし、診断される前は、義母の言動に対して妻も不安が強くなっていたようでしたが、病院に行き、医師に説明も受け、薬も飲むようになってから、少し安心したようでした。

 そうした時の医師の話し方や態度などで、本人だけではなく、患者の家族も随分と違ってきます。そういう意味では、私たちは恵まれていたのだと思います。その後も、認知症とはいっても、それほど激しい症状が出ないまま、103歳まで義母は生きてくれました。

 ずっと在宅で介護ができたのは、妻と二人で介護ができたからでしたが、何かの時に施設入所の話になったときに、義母が珍しく、それは嫌、とはっきりと意志を示したので、それならできる限り家でみようと妻と二人で思ったからでした。

 介護の期間は19年。妙な感覚ですが、区切りのいい20年に届かなかったと思いました。

「認知症予防」

 私自身が介護をしている頃から「認知症予防」という言葉は聞かれるようになりました。同時に、その言葉を聞くたびに割り切れない思いになっていました。

 アルツハイマー型認知症については、現時点でも決定的な「治療薬」も「治療法」もないはずです。

 そうであれば、認知症にならないことを防ぐことは100%はできないわけですから、「認知症予防」という言葉を強調することに疑念が抜けないのは、今提唱されている「認知症予防対策」にどれだけ取り組んだとしても、認知症になることはあり得るからです。

 今日の我が国では、認知症の予防とは、認知症にならないという意味ではなく、認知症になるのを遅らせる、認知症になっても進行を緩やかにするという意味で、「認知症施策推進大綱」に基づいて認知症についての様々な取り組みが進められています

(『政府広報オンライン』より)

 別に悲観的なことを語りたいわけではなく、「認知症にならない」という本当の意味での予防ができない現在でも、あまりにも「認知症予防」という言葉だけが強調されると、いかにも「認知症にならない」という意味に解釈される可能性が高くなっていないでしょうか。ひいては、「認知症は防げるんだ」と思われるようにならないでしょうか。

 もともと、予防には「前もって防ぐ」という意味があるのですから。

 現在、認知症と診断されている人たちでも、「認知症予防」に熱心に取り組んでいた人たちもいるはずなのに、「認知症予防」という言葉があまりにも行き渡りすぎると、認知症になった人は「認知症予防に取り組まなかった人」といった、新しい差別を生み出さないでしょうか。

「軽度認知障害」

 考え過ぎかもしれませんが、そうしたことに対して不安が減るような具体的な対応がされていないまま、このところ、「軽度認知障害」(MCI)という言葉をよく聞くようになりました。

軽度認知障害は、MCI(Mild Cognitive Impairment)と言われています。
そしてMCIは、認知症そのものではありません。しかし健常な状態でもありません。

(『厚生労働省』より)

 認知症の手前、という表現に感じますし、この診断を受けたら、どれだけ不安なのだろう、と想像してしまいます。

 その診断とともに、その不安を解消するためのどれだけのことが具体的にされるのかとも想像してしまいます。

 もし、診断して、様子をみましょう、また半年後に来てください、といった診察が多くなったとしたら、かえって不安だけが高まるということにならないでしょうか。

(あたまとからだを元気にする「 MCIハンドブック」)
https://www.mhlw.go.jp/content/001100367.pdf

 ではMCIになったらどうしたらよいのか? 次の章から認知症の 予防に良いとされることについて説明していきます。
 な に も 特 別 な こ と が 書 い て あ る わ け で は あ り ま せ ん し 、こ れ さ え や れ ば 大丈夫というものでもありません。食事に気を使い、運動 や認知トレーニングをすることで健常な状態に戻る可能性が高く なります。もしくは認知症へと進む速度を遅くすることができるか も し れ ま せ ん 。

(あたまとからだを元気にする「 MCIハンドブック」より)

 こうした冊子の冒頭には、こうしたことが書いてあります。

 そして、その全体の内容は、「認知症予防」というよりは「健康長寿」という名称にふさわしいと思ってしまいました。

 確実に認知症を防げるわけでもないのに「認知症予防」という言葉を多く使い、不安を駆り立てるような方法よりは、「健康長寿」のために必要なこととして伝え、若い時から、なるべく取り組みましょう。年齢を重ねてからでも、こうした「健康長寿」のための色々なことは、心身にプラスになります。そうした表現の方が、不安は増やさないような伝え方だと思うのですが、どうでしょうか。


 認知症の前段階には、軽度認知障害という状態がある。
 認知症になる人を一人でも減らすためには、軽度認知障害の人には診察をし自覚してもらい、その人たちが「認知症予防」に取り組むことによって、なるべく認知症に進むのを遅らせてほしい。
 だけど、それでも認知症になる人はいる。


 現時点では、そういう状況ではないかと思います。

 そうであれば、軽度認知障害の診断は、そのために薬が処方されるわけでもなければ、本人にとっては不安がふくらむだけにならないでしょうか。

 そうなると、その診断は、誰のためなのか、よくわからなくなってしまいます。診断を受けるまでが不安な上に、「軽度認知障害」という診断を受けて、推奨されている「認知症予防」を続けたとしても、認知症になることはあるのですから。

 それならば、「認知症予防」ではなく、「健康長寿」のための方法として広く説明し、主な目的は「健康」で長生きなのだけど、その副産物として認知症になる確率が減るかもしれません。といった伝え方がより正確だと感じています。

「軽度認知障害」と診断されて不安を増す人が多くなるよりも、日常的に「健康長寿」の活動を大勢の人が取り組む方が、結果として認知症になる人が少しでも減少するような気がするのですが、どうでしょうか。

「機能」ではなく、「こころ」について考える

 それに、「軽度認知障害」や、「認知症予防」の議論の中心には、「機能」があるように思います。

 診察に臨むまで、ましてや診断された人の不安などが、それほど重く考えられていないように思えることが、今後も含めて、とても疑念ばかりが高まってしまうのは、自分自身が、介護者の心理的支援に関わっているせいもあると思います。

 まして「介護予防」にしても「認知症予防」にしても、どちらもどれだけ注意深く生きても、努力しても、認知症になることはあるし、介護が必要になる場合はあるのに、「予防」という言葉を使いすぎると、「認知症」や「要介護状態」が、あまりにも忌避されることとして、扱われすぎるようにならないでしょうか。

 「認知症予防」について、広く伝えることよりも、(100%防げないすれば)認知症になったとしても、なるべく安心して暮らせる社会にするための方法を考え、少しでも実行することに予算を使って欲しいと思っていますが、それは間違っているでしょうか。

 同様に、「軽度認知障害」の診断を増やし、その後に不安がふくらむ人を増やすよりも、認知症と診断された方々が、少しでも快適に暮らせるような環境をどのように作っていくか。

 そうしたことを考えていく方が、大事なように思いますが、どうでしょうか。

 
 さらに、現時点での「認知症予防」や「軽度認知障害」の議論で、疑念や不安がふくらんでしまうのは、認知症予防にしても、軽度認知障害のことに関しても、そこで語られていることが「機能中心」であって、当事者の気持ちについては、それほど重く考えられていないような気がするからです。

 そのことについて、改めて考えたのは、こうした書籍を読んだからでした。

『認知症の人のこころを読み解く ケアに生かす精神病理』  高橋幸男・上田諭・水野裕・大塚智丈・齋藤正彦 

 この書籍を執筆しているのは、医師の方々です。

 認知症にならないために、とか、認知症の進行を遅らせるために、といった機能中心の話ではなく、基本的には認知症になったとしても、そのご本人が、できるだけ不安が少なく、可能であればより快適に暮らすにはどうしたらいいのか。そして、できたら幸せに生きて行くために、何ができるのか。

 あまりにも大雑把かもしれませんが、そのようなことが書かれていると感じ、認知症のことを考える時に、とても重要なことを、きちんと考え、実行されている方々がいらっしゃることに、ホッとするような思いでした。

 認知症とは、どういう症状なのか。そういうことは詳細に語られるようになってきましたが、認知症の人がどう思っていて、どんなことが不安で、どのように対応すれば少しでも心細さが減るのか。

 そうした重要な事は、専門家の間でも、それほど触れられていないように感じていましたから、より安心するような思いになったようです。

 例えば、長く認知症に関わってきた医師は、こう書いています。

 認知症という病を病むことはそんなに不安でつらいことなのか、と知ったのは30年くらい昔のことだった。1993(中略)通所し始めたアルツハイマー型認知症のAさんが「ひどい物忘れのために、もう自分はダメかと思い、心配でたまらない毎日が続いていました。毎晩涙が出て止まりませんでした……」と絶望的な病にかかった不安感やつらさを切々と述べ、手記にも書いた。

 30年前と比べれば認知症についての情報は比較にならないほど増えているうえに、当事者の発言も多くなっていて、認知症への社会的理解や受容が進展しているかのように思われているが、国民の意識のなかでは、今でも誤解と偏見に基づく“何もわからなくなって、迷惑をかける悲惨な病”という認知症観が深く刻印されているように思う。認知症は、本人にとっては“なりたくない病”なのであり、家族など身近な人にとっては“なってほしくない病”なのである。多くの人が認知症を自覚した時から、行く末が不安になり絶望感を訴える。「こういう病になって人生が終わった」と言った人がいるし、「ボケは脅威だ」としぼりだすように言う人もいた。

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 この書籍が出版されたのが2023年ですし、今でも、医師でさえ、何もわからなくなる、に近い表現をする人がいるので、確かに、まだ理解されているとは思えません。

 それに「認知症予防」ばかりが言われていれば、実際に「認知症」になった場合の恐怖が増えることはあっても減るようにも思えません。

 認知症の人たちの言動を注意深く観察すると、認知症の人たちが中核症状以上に不安でつらく感じていることがわかってきた。それは、認知症という病が進行していくと、認知症を受け入れたくない家族との折り合いを欠くことになって、日常的な他愛ない会話が途切れがちになり、自分と身近な家族など周囲の人たちとのつながりが薄れていくことによる不安やつらさである。 

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 この周囲の人との関係によって症状の出方が変わっていく、というのは、私のように家族として、また家族介護者の心理的支援として、関わってきた人間にとっても実感として納得がいくことでした。

医学研究への疑念

 同時に、こうしたことを指摘する医師もいます。

 たしかに物忘れは認知症の大きな特徴だが、「ぼーっとする」というのはまったく典型的でない。認知症のうち7割を占めるアルツハイマー型認知症では、よほど重症になるまで、ぼーっとして無気力で周囲に無関心になることはない。

 こうしたことを強調するのは、一方で、こうした見方もあるせいのようだ。

 医学の世界では、アルツハイマー型認知症の人の大半が、無気力で周囲に無関心、つまりアパシーになるというのが定説になっている。  

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 それは、その人の置かれた環境を見ていないせいだ、という分析になるようです。そのため、認知症の人に、うつが多いという「医学的」な結論に関しても、こうした批判的な指摘をしています。

医学研究は、原因を考えずにうつが多いという結果を出し、その数字が独り歩きをしているのである。大事なことは、その数字にはない。

 アルツハイマー型認知症の人がうつになりやすいのではなく、かかわる人たちが本人の心情を理解できないために、本人を追い込んでうつにしてしまっているのである。

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 これは、認知症と診断した人たちに、その環境も含めて丁寧に関わっていたからこそ、こうして断言できるのだと思いました。

家族介護者のこころを考える

 その一方で、この本を読んでいて辛くなったのは、介護をしている家族の方が責められているような気持ちになったからでした。

 例えば、認知症の人が、繰り返し同じようなことを話す時期の、介護をする周囲の家族について、こうした指摘をしている医師がいます。

 この時期は、まだ深刻度は低い時期だが、認知症に対するネガティブイメージ(恐れ)が強い人ほど行く末を案じ嘆くようになり、一方で認知症を受け入れたくない思いの強い家族ほど、物忘れを警戒し始め、忘れていることの指摘を始める時期である。認知症になりたくないという思いが強い認知症の人ほど、指摘に反応して苛立ちが生じてくる。

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 同じことを繰り返すのは、最初の5分でしたら、丁寧に何度でも答えることができます。でも、それが何時間も、何日も、何ヶ月も続くのです。そして、いつまで続くのかわかりません。

 家族介護者の心理的支援に関わっていると、この時期の家族介護者に対して「深刻度が低い」とは、言えません。

 この重要な書籍であっても、家族介護者の心理的な負担感、つまりは介護者のこころに関しては、認知症の人のこころほど考えてくれていない印象でした。

 ただ、それは認知症の人を診察している医師に対して、負担が大きくなりすぎるので、そこまで望むのは無理だとも思いますし、家族の支援は、私のように別な人間で、できたら心理職の人間が担うべきだと考えています。

 その必要性が、こうした医師の方々にまで届いていないのは、私のような人間の力不足だとも感じています。

 今も家族介護者の心理的支援に関わりながら、この時期の介護者の話を聞くことがあります。そして、認知症を受け入れる、受け入れない、という言葉は、私自身も介護を始めた頃に「専門家」に言われたことがありますが、私が聞きたかったことは、こうした繰り返しへの対応でしたし、現在の家族介護者も同様のようです。

医師からのアドバイス

 怒ってはいけません。いいことはありません。

 それは、私自身が介護者の時に、何度も「医師」からも言われていました。それは頭ではわかっています。このことが悪影響を与える可能性にも想像がつきますし、さらには、周囲の対応で、その後の認知症の人の症状が変わってくることも理解ができます。

 ただ、それでも限度を超えた繰り返しの日常にいることは、1回、長くて数十分の関わりだけでは、想像しにくいように思いますし、その「介護者のこころ」に関して、伝えきれていない、私のような人間の責任だとも考えています。

 それでも、こうした指摘を知ると、少し悲しくなります。

「変わっていく姿を認めたくない」「(それまで)できたことはしてもらいたい」という家族の嘆きは大きいのだが、励ましているつもりの指摘であっても、よい結果になることはない。中核症状のために不自由になった行動も、できれば温かく見守ってほしい。排泄などの失敗があっても、黙って後始末をしているという介護者もいる。
 しかし、家族が立派な介護者になることはできない。わたしは、当初は指摘を7割くらいに減らしてもらうように話しているが、5割にもなれば認知症の人の表情が変わり、穏やかになってくる。  

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 私が現在、介護者相談で、同じようなことを相談されたときは、こうした医師の方々の知見も生かさせてもらっているのですが、それでも、「指摘を9割」くらいに減らすことから始めてもらっています。それだけの負担の中に介護者はいるので、高い目標はかえって無気力や焦りにつながってしまうからです。

 そして、こうした医師の方々の貴重な知見でもある、怖い顔を見せると症状に悪影響を与えることも伝えますが、だから、怖い顔をしないようにといった話はしません。

 それは、多くは一人で介護を続けざるを得ない介護環境にいるので、とても無理だからです。それよりも、怖い顔をしてしまうのは仕方がないとしても、できれば、自分が怖い顔をしていると思った時は、物理的に距離をとって、他の部屋へいったんいくとか、トイレに行きますという話をして、席を外すのは、どうでしょうか?といった提案から始めます。

 それでも、考え過ぎかもしれませんが、専門の医師からは、家族は、まるで「いないほうがいい」とも取れるような指摘をされてしまっています。

 一人暮らしの認知症の人は、家族と暮らす人よりBPSDが起こりにくいだけでなく、あっても程度も軽い可能性がある。実際に、わたしの長い臨床経験では、一人暮らしの認知症の人のBPSDは軽い印象がある。興奮や暴力は明らかに少ないし、介護拒否や「帰る」妄想、人物誤認妄想、物盗られ妄想や嫉妬妄想も多くない。 

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

 ただ、同じ医師が、こうした指摘↓もしているのを知ると、そこまでわかっているのであれば、もう少し家族介護者にも違う言葉をかけてほしいと思うのは、欲張りなのでしょうか。

 実際に本格的なBPSDが出現すると、家族の戸惑いは大きく、対応疲れと緊張のなかで苛立ち、認知症の人への叱責が強まることになる。結果的にBPSDのさらなる悪化につながるという悪循環に陥る。認知症の人はもちろんだが、家族は誰にも相談できず、どうしたら良いかわからず、虐待をしてしまうこともあり、介護に疲れ果て、うつ状態に陥る場合も少なくないのである。無理心中や介護殺人もこの流れで起きるのだろう。 

(『認知症の人のこころを読み解く』より)

認知症になってからの生活を支えるために

「認知症予防」や「軽度認知障害」に関してかけている予算などを、もしも、もう少し、「認知症」になってからの生活を、どう支えるか?の方に回してもらえたら、こうした「無理心中や介護殺人」に関しても、少しでも減らせる可能性はあるように思います。

 それは、こうした医師の方々が気がついていらっしゃるように、家族介護者という「環境」によって、認知症の人の症状が変わっていくのですが、その介護者自身も支援されることがなければ、認知症の人に対して、適切な対応をするのは難しいのは間違いないと考えています。

 とするならば、こうした認知症の人を診察し、診断し、少しでも快適になるように見守り、指導し、薬を処方するのが医師の方々の取り組まれていることですから、それに加えて、家族介護者への適切な対応への「指導」はできたとしても、「支援」までを望むとすれば、あまりにも医師の負担が重くなってしまいます。

 この記事で書いたように、認知症の人とは別に、介護者への支援もおこなわれるようになれば、そのことで認知症の方々の環境が少しでも苦痛が減るものになっていく確率が増えるはずです。

 ですから、「認知症予防」という、本来は100%防ぐのは不可能なことを重視するのではなく、また、「軽度認知障害」と診断しても、その後の十分なフォローが難しいのであれば、「認知症予防」や「軽度認知障害」に置いている重心が適切なのか。そのことを、そろそろ再検討するべきではないでしょうか。

 認知症になってからも、本人には丁寧な診察が可能になるように、また介護者の支援もそれとは別に行えるように体制を整えていくことが、これから、さらに高齢者が増えていく社会が力を入れていくべきことではないでしょうか。

「認知症予防」や「軽度認知障害」に力を入れるよりも、認知症になった人と、その周囲の家族への支援をどうするか?そのことに支援の重点を移すべき時に来ているように思えています。


(他にも、介護について、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。

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