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誰のためにでもなく、心にあるものをただ書く作業

 あふれる思い、感じたこと、最近考えていることを書くのが私にとってのnoteの存在。
 それはnoteを始めてから試みているのではなくて、中学生の頃から勝手に楽しんできた。
 小学四年生の頃に、担任の先生が日記を提出させていた。自由に書くのが好きで、お題を出されると書きにくかった。「テーマを出さない方が書きやすいです。先生もよく考えて下さい」とか今となっては笑うしかないような自分本位なことを、日記に書いてしまったことがあった。
 ていねいな説明の最後に「先生だってよく考えているよ!」と返事があったけど、よくあんな私の言葉に応えてくれたものだ。

 その先生は実は嫌いだった。ませた雰囲気の、特定の女子生徒をえこひいきしていて。私は幼稚な雰囲気だからその他大勢に過ぎなくて。だって叱られる時はたいていその他大勢の方なのだ。
 でも日記での先生は毎回ていねいに読んで感想を書いてくれる。
 ある日。「かわせみさんは、これだけたくさん書けるのだから、授業中も思ったことを言ったら良いんですよ」とノート半ページを使って書いてくれた。自分の考えを文章にできるのだし、作文が上手ですよ、といった内容。
 
 先生、上手と言われたのにその後もちっとも評価されませんよー! と思っているけどね。それなのに好きなだけで続くものなのねと、自分にあきれちゃうよな。

 中学受験を経て、勉強から解放されたと勝手に思いこんだ私は時間を持て余したのか、日記を書き始めた。いや、気持ちを抑えているのがつらくて、書いて吐き出したかったのだろうな。思春期だからね。今以上におさえていられなかったのかもしれない。
 思いの丈を書いても書いても全然おさまらない。詩も書いていた。今は絶対に読み返したくない小説も書いていた。友達に詩や小説を見せると「思ったこと書いただけやん」とか「この前の話を書いただけやん」とか言われた。なんで見せたんだろう私ったらバカバカ。
 
 でも書くと確実にスッキリする。書いた後の爽快感をその頃に覚えた。それから毎日ではないけど日記を書き続けた。
 日記といっても、日々の記録はほぼ書いていないのだけどね。その日の心情を吐露するばかりで。
 別の友人が「日記書いてるねん」と見せてくれたノートに、日々の記録が書いてあって、衝撃を受けた。「えっ。こんなにまめにその日の記録を書いているの?」と思ったけど、いや待てよこれこそが日記なのでは。と思い直し、私が書き散らかしているのは何なのよと自分に困惑した。
 
 あの頃から30年以上の時を超えて「ジャーナリング」という言葉を知るなんて。

思っていることを書き出すというこのジャーナリングは「書く瞑想」とも言われるそう。

日記と違うのは考えずに書くということ。

日記はある程度書きたいことを整理して書く。
ジャーナリングはただ思いついたことを書く。

 私は学生の頃ずっと、ジャーナリングをしていたのだ。
 そう思うとうれしい。だってあれはあれでスタイルとして存在しているのだ。日記だったかどうかは別として。
 
 「書くとスッキリする」気持ちは、日記をやめてから少しずつ人に向かっていってしまった。

 1995年に、メールの存在を手に入れたからかもしれない。
 親しい友人たちに長々とメールを送り付ける羽目になってしまう。心優しい友人たちは受け入れてくれたしおかげで今も続いているけど、一部の友達は困惑していたようだった。

 それでも時々子育てで、自分の中で抱えきれない思いは自分だけの「日記」に書いてぶちまけていたけれど。
 他にはブログみたいなものを月に何回か20年くらい前から書いていた。
 6年前にnoteに出会うまでそんなふうにして、気持ちを書くことを途切れさせなかったのかもしれない。
 だけどnoteでもそうだけど、相手が一人だとしても誰かに読まれることが前提。

 あふれる思いをnoteに書いているとしても、本当はあふれるまでもないちょっとした思いが細かにからみあい、ぐちゃぐちゃになっている。もっと自分の心の中では考えていることや感じていること、引っかかっていることが雑多にある。
 特に気質上、それが頭の中で静かにおさまっている時間の方が少ない。
 HSP(highly sensitive person)は、文が長くなりがちだとどこかで読んだ。心にあるものが多すぎるかららしい。そんな気持ちを手紙に書くと長くなり過ぎて、相手には何が言いたいのか伝わらないこともあるとか。
 思い当たりすぎて「えええ……」と絶句した。これって気質だったのか!

 実際に「何が言いたいのかわからない」と直接言われたことがある。混乱する気持ちのままに書いたのがいけなかったのだろう。その後のやり取りは悲しく、きっと相手をも疲れさせた。私ってなんでこんなにすべてを書かずにはいられないのだろう。
 そうやって迷惑をかけてしまう相手が出てきてしまうほどに、私の頭の中はうるさい。最近は書きすぎないようにしなくちゃとブレーキをかける。それでも長くなるから、書くと自己嫌悪という悪循環にハマりやすい。

 でも。
 ジャーナリングは「たのしい」と、うみさんが書いている。
 前までの私は、その良さに気付いていなかったのかもしれない。スッキリする記憶はあっても、そんなに良いものだっけなー。でもたのしいなら書きたいと思えてきた。

 ススメられるがままにとりあえず何日か始めてみる。いつも書く時のように、パソコンでざっと文章が見渡せる環境にもしないし、だから読み直すなんてしない。手元のペン先の文字を見ながら思いの丈を恥ずかしがらずに書き連ねていく。


 めっちゃ良い!!

 一人でも読む人がいたら、その誰かに気を使った文になるけど、基本的には誰にも読まれないことが大前提だから。もし読んでもらうとしたら、読まれて良い文を書くのではなくて、読まれても良い文を探してそこを抜粋するくらいなので、内容も自分本位で、文自体も、全体の流れもめちゃくちゃで良い。ダラダラと、脈絡もオチもない。疑問は疑問のまま放置。
 書いていると誰かに聞いてもらうほどでもないささいなことが止まらない。あんなこともこんなことも私は気になっていたと知る。「ささいなこと」と思っているけど、本当はそうでもないんじゃないのと気づく。
 書いて確認し、少し吐き出した気分になっただけで、心の波が穏やかになる。字は乱れているけどね!
 そうやって思いのままに書いていくと、誰かに聞いてもらいたいことも分けられてくる感覚。

 私は夜に書くので、寝る前に落ち着く。
 だからってイヤな夢を見ないで済むかどうかは別だし、眠れるかどうかも別なのだけど、少なくとも寝る前の頭の中はうるさくない。静かでスッキリしている。

 無理に続けようとがんばるのは楽しくないだろうけど、私には向いている。
 何より「ジャーナリング」という言葉があることで、自分を肯定できてすごくすごくありがたい。こんな私で良いんだ。

 ジャーナリング、やってみようかなと思う人がいたらおススメです。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。

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