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『幸せな日々』多賀盛剛著 を読む

外骨格としてのリズム

                         涸れ井戸

『幸せな日々』というタイトルは、近年の中東をめぐる社会情勢、国政の諸問題、内治、外交事情、武器輸出入のなし崩し的許容などから鑑みると絵空事のよう。歌集が編まれた期間に限っても、疫病や異常気象、ウクライナとロシアを巡る紛争、それに連動するエネルギー、食糧危機、増税、あらゆる商品の値上がり…幸せとは真逆の生活実感があった。作者は自分の第一歌集のタイトルに、昨今のきな臭い空気へカウンター的な意味合いを持たせたかったのではないかと想像する。

 またこの歌集は従来の短歌集とは比較しづらい、変則めいたひらがなの一行詩で編纂されている。これも挑発的な試みだ。一行の終わりが、ほぼ過去形、完了形でまとめられており、ひとつひとつの詩片(事象)は、いま終わった、完了した、あるいは変移した、と報告される。その羅列で、読者の想像の野に残像のように事象(シーン)が生起され、過ぎり、消える。そして次の事象に、集中力の矛先が移る。詩集でありながら経典のような影を残す。といって、特定の宗教書のように自説を主張する明確な態度は無く、読後の心象は砂丘のようにはかない。仏典的な幾万年単位の、時代飛躍で描かれる人類絶滅後の未来観は空虚だが、絶望を否定しない優しさに満ちていて、逆説的な救世になっている。
 先に一行詩、と書いたが、短歌、ではないのか。何故そういう言い方をしたのか自問自答するに、全編にわたる韻律の不規則さが、そういう印象をぼくに与えたのだ。しかし、本当にそうだろうか。短歌の定型の是非については多くの先達が長年論じており、マクロ的には自分から改めて付け足したいことは無いのだが…破調まみれの本歌集を、歌集ならしめている作者・多賀盛剛の定型意識について検討したいというミクロ的な衝動が読後、心内を燻り続けた。

 不規則さを加速させているのは、句読点(、)読点(。)の使用過多だ。それをスペース化し、使用していない章もあるが、フェイズによる区分けというより諸作品を一冊の本にした際、読者に通読させるために抑揚が要るから、という技術的必然から生じた区分けではないかといぶかっている。すべての詩を連結させたい、という作者のシームレス指向を感じるからだ。遺伝子の二重らせん構造のように、手塚治虫の『火の鳥』のように立ち位置と時間(時空間)を最終的につなげ、円環させたいという意向を。それは美意識によるものであり、全てをゼロ、無に帰したいという作者の哲学なのだろうとも想像する。

なんまんねんもまえもあとも、にんげんはひとりになりたくなるまで、だれかといたかった、
               「Introduction」より

 31音を大きく逸脱しているが、一定のリズムがある。作者生来の、独語としてのリズムと捉えるのが、もっとも無理がない。通読し、未来においても過去においても普遍的である人間の孤独についての歌と解することが容易だ。AもBもCも、と「も」の連続は聴き心地がよく、この導入の技術で物語世界(詩の世界)に読者は没入する。でも改めて読み直してみると、「何万年も前」なら、そこで区切るならわかるが、「何万年も前も後も」と普通言うだろうか。なんまんねんもまえも、なんまんねんごも、あるいはなんまんねんもまえもなんまんねんあとでも、とした方が接続詞の使い方としてはまっとうなのではないか。しかし、そのように改変したとすると、一文が冗長になる。なんまんねんも(七音)まえもあとも(六音)にんげんは(五音)…この短歌的韻律の方を作者は重視したかったのではないか。筆頭の接続詞「も」が「まえも」「あとも」を覆うために時系列にモアレが生じ、神話的色彩すら帯びる。詩自体は字数制限や韻律に縛られることを屁ともしていないが、作者の短歌ルールへの無意識の(あるいは意識的な)桎梏、囚われがこの歌を歌として昇華せしめていると感じられる。

にんげんは、こわされたあと、それまでのおおきさよりも、ちいさくなった、
                     「pathos」より

 この歌は音数分割すると五七五七七ときちんと定型で構成されている。この作品を挟むことで連作の前後に破調の歌が並んでも、短歌としての体裁が強化され、読者は「短歌」を読んだ気にさせられる。歌の内容としてはどうか。こわされる、というのを字義通り破壊と取ると、何者かによって加害され、死亡したと解釈できる。だが、こなごなになり「ちいさくなった」と結果が告げられると、まだ小さくはなったが、小型人間に分裂してその後も生命活動を続けているような印象が残る。プラナリアが切られた後も生き続けられるように。この章には、がんだむ(ガンダム)という架空のヒト型宇宙服も出て来て、その宇宙服が登場するアニメーション作品では未来世界の宇宙戦争が描かれる。ある世代から先の読者には既知、あるいはネットミームとしての理解があり、一連は「集結」「紛争」「全滅」「死後世界」というイメージを想起させ、黙示録的童話の不穏さを、一部の読み手に示唆する。不穏さを醸してるのも短歌的韻律が大きく寄与しており、作者の短歌的韻律への信頼を感じさせる。

にんげんは、みんなだれかににてたから、ずっとむかしのだれかににてた、
                    「reprise」より

 この歌は因果関係に揺らぎがあり、みんなだれかににてたのは現在の時点でのことと思われ、ゆえにむかしのだれかににてたというのは論理的飛躍がある。しかし、遺伝学に忠実に語順を入れ替えたら、この歌はただの叙述になり、つまらなくなる。また五七五七七の定型に揃えるために、この順である必要があり、ここにも作者の短歌韻律への忠実さが見て取れる。

 この歌に限らず、すべての歌の構造は○○なので△△、〇○となったから△△というような順接で原因と結果がつながっており、それゆえの繰り返しの効果がきわめて強大である。繰り返しは仏典、つまりお経にも取り入れられていて、それは徳を積む「効能」を生むという教えだが、一種の高揚、ハイになる快感を伴う。その音楽性も、韻律を捨てられない作者のスタンスを形成しているのでないか。
 アニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』ではヒト型決戦兵器・エヴァンゲリオンの装甲について、外敵からの攻撃を防御するためでなく、装甲の内側、鎧の中の本体がその強大な力で暴走をするのを防ぐためのものだと言及されるシーンがあるが、作者も自身の詩の無限に拡張していくポテンシャルを短歌韻律という外骨格で覆う選択をしたのではないか。そのことにより、詩の効果はより研ぎ澄まされ、読者の想像の余地を大きくすることに寄与し、この歌集を歌集たらしめていると、ぼくは憶測する日々である。
                               完

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