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君達と僕ら

書く事が明確に決まってなくても書き始める。
文学は自分の人生を全て肯定してくれる存在だから別に綺麗事ばかりを書こうとか、敢えて過度に表現してみたりとかもしなくていい存在。別に誰かに知らしめたいとか知って欲しいとかも要らない存在。自分のありのままを出せる存在。そんな存在は社会で一つ足りとも通用する事は無く、社会全体の様々な空気が凝縮されたビル風によって流されていくだけ。でもその社会達は時に文学に陶酔し傾倒し愛を求めるのだ。気持ちは分かる。でも僕達は一生そっち側には行けない。だからこの場所で表現するしか無い。君達にとってはこれが面白いとか悲しいとか嬉しいとか腹立つとか苛立つとか悔しいとか虚しいとか、そんな感情を抱きたいという願望が街を歩けば沸々と煮え滾る。でも僕達にとってはこの文学が毎日毎日繰り返えされ、その初々しい感情とやらはもう無くなっている。でもこの差を両方が理解する時は永遠に来る事は無く、両方理解しようなんて思う日も永遠に来る事は無い。その恒久的な感情だけが君達と僕達だけが感じれる唯一の感情なのだ。それが文学にはある。文学からはそれを多分に感じる事が出来る。だからADHDで集中力散漫で自発的な物事で1つも長く続いた事が無い僕でも、今日もスマホを起動させ、Xの隣に配置されたnoteのアイコンを押し、画面下中央に配置された「つくる」という所を押し、「noteを書く」を押して今執筆する事が出来ている。これは音楽や絵画やお笑いなんかにも共通している事だと思う。それら要素がエンタメをより一層面白くしてくれるのだ。

短いが今日はこれで終わり。
ありがとうございました。

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