影踏丸

音楽史を書きます

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  • 『アジア横断自転車旅行』(1894年)

    Thomas Gaskell Allen & William Sachtleben, "Across Asia on a bicycle," 1894. の翻訳

  • 鍵盤楽器音楽の歴史

最近の記事

『アジア横断自転車旅行』(1894年)その7:アシュカバード、サマルカンド

テヘランから900kmの砂漠を越えて彼らが辿り着いたメシェド(マシュハド)は、シーア派第8代イマーム、アリー・アル=リダ(c.766-818)の殉教の地で、シーア派のムスリムにとってはメッカの次に重要な聖地です。  メシェドは著名な人物の墓によって知られる。その聖なる土には、古き英雄ハールーン・アル=ラシード、ペルシャ最大の叙事詩人フィルドゥシ、そして聖イマーム・リザが埋葬されている。イマーム・リザ廟ではいかなる犯罪者も庇護を受け、そこに逃げ込めばシャーですら血税を取り立て

    • 『アジア横断自転車旅行』(1894年)その6:テヘラン、メシェド

      さて、首都テヘランについた彼らは、次に向かうロシア領の通行許可を取り付けるのに苦労します(そんなのは出発前にやっておくべきだと思いますが)。そうこうしているうちに秋になってしまい、しびれを切らした彼らは結局見切り発車で東に向かうことにします。  予定ではペルシャからロシア領中央アジアに入り、そこから中国かシベリアに向かうつもりだった。しかしロシア領の国境地帯であるトランスカスピアに入るだけなら、知事であるクロパトキン将軍の許可があれば十分なのだが、その先のトルキスタンを通る

      • ロンドンの神童、フィールドとピント(199)

        ジョン・フィールド(1782-1837)は、1782年7月26日にアイルランドのダブリンで、ヴァイオリニストのロバート・フィールドの長男として生まれました。例によって彼も神童であり、1792年3月24日、9歳のときにピアニストとしてコンサートにデビューし、地元の新聞で絶賛されています。 1793年に一家はロンドンに移住し、父親は息子をクレメンティに弟子入りさせます。クレメンティはベックフォード卿に金で買われてローマから連れてこられましたが、フィールドの場合は逆に父親がクレメ

        • フランツ・リスト編『ジョン・フィールド:6つのノクターン』序文翻訳(198)

           この度、フィールドの六つのノクターンが初めてまとまった形で出版されたことは、これらの親密な詩に心打つ魅力を感じる人々の願いに確かに応えるものだろう。これらは作曲者がその道程に気まぐれに撒き散らした頁であり、これまでは様々な出版物から取り集めなければならなかった。彼は出版にあたっても演奏と同様に無頓着であった。この怠慢は彼の才能に大きな恩恵を与えたが、感性の真の傑作であるところの彼の作品をすべて揃えることの困難が、彼の崇拝者たちを嘆かせることになった。遺憾なことに、所有権の問

        • 『アジア横断自転車旅行』(1894年)その7:アシュカバード、サマルカンド

        • 『アジア横断自転車旅行』(1894年)その6:テヘラン、メシェド

        • ロンドンの神童、フィールドとピント(199)

        • フランツ・リスト編『ジョン・フィールド:6つのノクターン』序文翻訳(198)

        マガジン

        • 『アジア横断自転車旅行』(1894年)
          7本
        • 鍵盤楽器音楽の歴史
          203本

        記事

          クレメンティのピアノ(197)

          1767年、クレメンティがベックフォードに買われてイギリスに来た頃、ジェームズ・ロングマンがロンドンのチープサイドで楽譜店を開業しました。1769年にはチャールズ・ルーキーが共同経営者となり、さらに1775年にフランシス・フェーン・ブロデリップが事業に参画しますが、ルーキーは1776年に死去し、その後の "Longman & Broderip" という社名が良く知られています。 ロングマンは自社で楽譜を出版すると共に、ウィーンのアルタリア社など外国の出版社とも提携し、あらゆ

          クレメンティのピアノ(197)

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その5:タブリーズ

          気まぐれでアララト山に登った彼らは本来の旅に戻り、オスマン・トルコからカージャール朝イランに入ります。 第三章:サマルカンドに向かってペルシャを行く「全部でたらめだ」というのが我々のアララト山登頂に対するバヤズィトの総意であった。誰もそれを信じる素振りさえ見せなかった。ただペルシャ領事とムテッサリフその人を除いて。ペルシャ当局宛ての書簡を与え、我々の出発前夜には豪華な晩餐会を催してくれたことは、彼らの誠意を大いに証明するだろう。  七月八日の朝、ムテッサリフが押し付けた護

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その5:タブリーズ

          イギリス式グランド・ピアノ(196)

          クレメンティは弟子のインタビューで彼が歌うような鍵盤奏法を確立した要因の一つに「Englischen Flügel-Fortepiano」イギリスのグランド・ピアノの発展を挙げました。クレメンティはローマ生まれながら、生涯の大半をイギリスで過ごしており、ヘンデル以上にイギリスの音楽家といえます。 イギリスではヨハネス・ツンペが1760年代にスクエア・ピアノをもたらして以来、18世紀を通してピアノと言えばもっぱらスクエア・ピアノであったのですが、グランド・ピアノの開発も無論進

          イギリス式グランド・ピアノ(196)

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その4:アララト山、後編

          前編から続きます。  我々は四時に起床したが、七時になってもまだ宿営地に居た。ザプティエの紳士たちが安らかな眠りから覚めるまで二時間が消えた。それから特別な朝食を食べるのにかなりの時間が浪費された。我々はエクメクとヤウルト(吸い取り紙パンと凝乳)で我慢しなければならなかった。それが終わると、彼らは重い軍靴の代わりのサンダルがないと先に進まないと言い張った。つまりこの地点で馬を降りる必要があったからだ。それをクルド人に作らせると、今度は武装したクルド人十人が同行しなければ行く

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その4:アララト山、後編

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その3:アララト山、前編

          前回はこちら。 第二章:アララト山登頂 伝承によれば、アララト山は人類史上最も重要な二つの出来事の舞台である。アルメニアの伝説によれば、この山の麓にあるというエデンの聖地で、最初の人類が誕生し、そしてその孤高の頂において、全てを滅ぼす洪水から人類の最後の生き残りの命が救われた。この山の特筆すべき地理的位置は、アララト山が世界の中心であるとするアルメニア人の見解を正当化するかのようである。アララト山は喜望峰からベーリング海峡に至る旧世界を貫く最長線上に位置している。またジブラ

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その3:アララト山、前編

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その2:カイセリ、スィワス、エルズルム

          前回の続き。  四月二十日の正午ごろ、我々の道は突然スミルナからカイセリまで延びる広い交易路へと変わった。そこはカイセリの西約十マイルであった。長いラクダのキャラバンが威厳を持ってその道を進んでおり、先頭には小さなロバにデヴェデジー(ラクダ使い)が乗っていて、足はほとんど地面に届きそうだった。その頑固で知られる生き物は、我々が横に並ぶまでは微動だにしなかったが、突然その特徴的な横揺れをし、乗り手を地面に放り出した。先頭のラクダは抗議するように唸りながら横にずれ、その横移動は

          『アジア横断自転車旅行』(1894年)その2:カイセリ、スィワス、エルズルム

          【翻訳】『アジア横断自転車旅行』(1894年)

          Thomas Gaskell Allen (1868 - 1955?) と William Lewis Sachtleben (1866 - 1953) の二人のアメリカ人は、1890年から1893年にかけて自転車で世界一周旅行を成し遂げました。そのメインであるアジア横断について彼らが記した旅行記『Across Asia on a Bicycle』(1894) を訳してみようと思います。多分まだ日本語訳が存在していないはず。 御託は抜きにして、とりあえず冒頭部の訳文を。

          【翻訳】『アジア横断自転車旅行』(1894年)

          クレメンティとモーツァルト(195)

          1781年のクリスマス・イヴのこと、後のロシア皇帝パーヴェル1世と妻のマリア・フョードロヴナ(ヴュルテンベルク公女ゾフィー・ドロテア)がウィーンを訪れていました。当時二人はセヴィニー伯爵夫妻という偽名でヨーロッパを巡る旅行中だったのです(ちなみにこの後1月にはヴェネツィアでピエタの演奏を聴くことになります)。もちろん偽名などは公然の秘密であり、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の宮廷では夫妻を迎えて盛大な歓迎会が開かれていました。 そしてその余興として、皇帝のお気に入りのモーツ

          クレメンティとモーツァルト(195)

          モンセラートの朱い本

          バルセロナ近郊のモンセラート(ノコギリ山)は独特の奇景で知られ、古くから聖地とされてきました。 伝説によれば、西暦880年のとある土曜日の日没の頃、美しい音楽とともに空から光が降ってきてモンセラートの中腹を照らすのを羊飼いの少年たちが見たといいます。次の週の土曜日には少年たちは親を連れて行き、やはり同じことが起こりました。さらには近所のオレサの町の司祭も加わって、毎週土曜日に同じく光が現れるのを確認すること四度に及びました。 この報告を受けてマンレサ市の司教がやってきて光

          モンセラートの朱い本

          【翻訳】アイルランド神話『リルの子供たち』

          14世紀に遡るといわれるこの物語は、ケルト神話の中でも最も有名なエピソードの一つでしょう。しかし日本語で読めるのは抄訳や翻案ばかり。なので定本をそのまま訳したものを作ってみました。 とはいえ残念ながらゲール語はさっぱりなので英訳からの重訳です (Eugene O'Curry 1863)。しかし特に韻文ではなるべくゲール語原文を参照しました。以下のウェブサイトで中世アイルランド語、現代アイルランド語、英語の対訳が見られます(ただし拙訳の底本より結末が少しだけ長いバージョンにな

          【翻訳】アイルランド神話『リルの子供たち』

          スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

          フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1731)の発明したピアノは、当時イタリアではほとんど普及しなかったようです。もしイタリアでピアノがたちまち大流行していたら、今この楽器はイタリアでの通称であった「マルテレッティ」と呼ばれていることでしょう。 一方ドイツやフランスではジルバーマン一族によってクリストフォリのピアノのコピー品が製造されましたが、極めて複雑で高価なため、次世代鍵盤楽器の主流とはなりませんでした。その後のピアノの歴史はクリストフォリのピアノに比

          スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

          【古典SF翻訳】ライマン・フランク・ボーム『マスターキー:電気のおとぎ話』(1901)

          『オズの魔法使い』の著者として知られるライマン・フランク・ボーム Lyman Frank Baum (1856-1919) が、20世紀最初の年に出版した少年向け空想科学小説 『The Master Key: An Electrical Fairy Tale』(1901) の紹介。 表紙の副題が縦書きなのは日本風を意図したものでしょうか。 主人公のロバート・ジョスリン少年は電気実験に熱中する科学少年で、屋根裏部屋を拠点に家中に電線を張り巡らせて母や妹たちの顰蹙を買っていま

          【古典SF翻訳】ライマン・フランク・ボーム『マスターキー:電気のおとぎ話』(1901)