『アジア横断自転車旅行』(1894年)その5:タブリーズ
気まぐれでアララト山に登った彼らは本来の旅に戻り、オスマン・トルコからカージャール朝イランに入ります。
第三章:サマルカンドに向かってペルシャを行く
「全部でたらめだ」というのが我々のアララト山登頂に対するバヤズィトの総意であった。誰もそれを信じる素振りさえ見せなかった。ただペルシャ領事とムテッサリフその人を除いて。ペルシャ当局宛ての書簡を与え、我々の出発前夜には豪華な晩餐会を催してくれたことは、彼らの誠意を大いに証明するだろう。
七月八日の朝、ムテッサリフが押し付けた護衛のザプティエを伴い、我々はバヤズィドの城壁の遺跡より出発した。集まった群衆は別れ際に大声で歓声を上げた。
一時間後、我々はカズリー・グールを越え、「イランの地」が我々の前に広がっていた。我々の足元にはトルコ・ペルシャの戦場であるチャルディラーンの平原が遠くの乾いた不毛の丘まで砂漠のように広がり、村のオアシスにはちらほらと木立が点在していた。そしてこれが詩人たちの詠う「小夜啼鳥が歌い、薔薇の咲く」 ところにして、「歩みごとに花踏みしめる」地なのだ!
スコットランド人の旅行者の描写のほうが真実に近いだろう。すなわちペルシャは二つに分けられるという「一方は塩のある砂漠、もう一方は塩のない砂漠」。やがて我々はホラーサーンについてのマクレガーの見解に同意するようになった。 曰く「地図上のすべての村の周りに小さな緑の円を描き、それ以外を茶色で塗りつぶしたものを想像せよ」。
インダス川から西を制圧した大軍勢は、マラソンの戦場でギリシャのファランクスによってようやく阻止されたが、それはこの周囲に散在する遺跡から来たに違いない。これらの遺跡は「かつてイランがあり、もはやない」ということを想わせた。イェンギズ・ハーンとティムールの無数の軍勢がしばしばぶつかり合い、トゥランからイランに死と荒廃をもたらしたことも、今では忘却の海にある。
我々の名ばかりの護衛は、国境を越えて数マイルのペルシャの村、キリッサケンドまで同行し、 そこで我々を地区のハーンに委ねた。我々はトルコ語でなんとか会話をしたが、不思議なことに我々の大陸横断の旅路において中国の万里の長城までのすべての国でこの言語が通じた。
夕方に我々はハーンのハーレムの庭を走り、 翌朝の夜明けには再び乗車した。うんと早く出発することで、費用ばかりかかる厄介な護衛から解放されることを目論んだわけだが、次の村で狂ったような身振りを交えて叫ぶ者に出くわすことになった。降りてみると、前夜にハーンが使者を送り、我々が通過する際に護衛が加わるよう手配していたことが判明した。 実際、二人の武装したフェラシュ(召使)がこちらに向かって疾走してきた。
後で分かったことだが、彼らはアメリカ製のライフルで武装しており、 そして弾薬帯にぶら下がる例のカンマ、つまり巨大な短剣も装備していた。この者たちはザプティエと同様に見せびらかすのが好きだった。彼らは頻繁に回り道をして、近隣の村の親戚や友人たちに我々を見せびらかした。しかしついに自然が救いの手を差し伸べてくれた。我々が丘の上に立って、今や五十マイル以上離れたアララト山を見納めしていた時、嵐が襲いかかり、クルミほどの大きさの雹が降り注いできた。フェラシュたちは避難場所を求めて狂ったように馬を駆り立てて走っていき、それから二度とその姿を見ることはなかった。
ペルシャに入って五日後、我々は世界で最も塩分濃度の高いウルミア湖の岸に達した。翌朝早く、我々は冷たいハジ・チャイの水を歩いて渡り、数時間後にはタブリーズのイギリス領事館に到着して、そこでペルシャ人の事務官に迎えられた。
スチュワート大佐が「外交任務」でトランスカスピアのロシア国境に出ていたその頃、イギリス政府は地元の情事に巻き込まれていたようだ。
当地のアメリカの宣教師学校を卒業した大変に美しいアルメニア人女性が若いクルド人の騎士に誘拐されて山に連れ去られるという事件があった。彼女の父親はたまたまイギリスに帰化していたので、彼女の解放を求めてイギリスに助力を求めた。直ちにロンドンとテヘランの間で交渉が始まり、最終的にはシャー自身がクルド人に対して公式に要求するに至った。しかし彼らが重ねて拒否したため、副領事パットン氏の指揮下で七千人のペルシャ軍がソク・ブラクに派遣されたといわれる。これは大問題となり、庶民院では「カティ・グリーンフィールドとは何者か?」という質問が上がった。この問いはやがて当の女性自身によって答えられた。彼女は宣誓の下、自分はイスラム教徒になったと述べ、駆け落ちしたその男と恋に落ちたのだと語った。 さらに彼女の父親はオーストリア人で、母親はアルメニア人であり、イギリスの血は一滴も流れていないことが判明した。そのため、ペルシャ軍はうんざりした指揮官と共に、事態とクルド人の心の支配者であるカティ・グリーンフィールドをそこに残して、不名誉な退却を余儀なくされたのだった。
タブリーズには一際目を引くものがある。それは「アーク」すなわちペルシャの支配者たちの古代の要塞である。最近の地震で上から下まで裂けた側面の高い所に小さなポーチがあり、そこからペルシャの「青ひげ」、いやむしろ「赤ひげ」たちは、ハーレムの言うことを聞かない者たちを投げ落としたのだった。
この陰鬱な壁の影で今世紀の悲劇が演じられた。バーブ教はペルシャの天才の思索から生まれた唯一の異端では決してないが、しかしそれは現代社会に最も深い影響を与えたものであり、今でも指導者なしに密かに存在し続けている。その創始者であるバーブ(「門」)として知られるセイド・モハメド・アリは、「鞭を惜しみ、子を駄目にする」というほどのアナーキーを説き、おそらくはなお悪いことに、女性らしい華美な衣装も禁じなかった。彼は時折誤って共産主義者に分類されるが、彼は富裕層に対しては自らを貧者の信託者と見做すよう促した。
当初は世俗の権力を求める意図はなかったのだが、彼と急増する信者たちはムラーたちの弾圧によって反乱に追い込まれ、一八四八年の血なまぐさい闘争に至った。バーブは捕らえられ、アリの息子たちの墓がある「ペルシャで最も狂信的な都市」に連行され、 この場所で彼に対し一斉射撃が命じられた。しかし煙が晴れた時バーブの姿はなかった。弾丸はすべて外れ、彼は逃げたのだ。しかし安全な隠れ家へは辿り着けなかった。もし彼が逃げおおせたならば、その奇跡はバーブ教を無敵のものにしていただろう。しかし彼は再び捕らえられて殺され、その屍体は犬に投げ与えられた。
タブリーズ(解熱)というのは、我々にとっては誤称だった。我々の当地での滞在は、この時ザハトレーベンを襲った軽度の腸チフスによって一ヶ月以上に及ぶことになった。そしてまたも宣教師の女性たちの優しい看護が回復を早めた。 その時、我々の手紙はテヘランに送るように頼んでいたのだが、それを途中で押さえる特権が認められた。そのため我々は配達事務所の汚い床に散らばった手紙の山を片っ端から調べることが許された。トルコとペルシャの郵便はどちらも鞍袋に入れられ、手綱のない馬の背に載せられて、馬に乗った郵便配達人ないし牧夫の前を駆けて行く。郵便局がいい加減なので、大使館や領事館は専用の配達人を雇っている。
タブリーズはロシア国境に近いため、政治的、商業的にペルシャで最も重要な都市の一つである。そのため、エミール・エ・ニザーム(将軍)すなわち首相、及びヴァリ・アフド(皇太子)の居住地となっている。この皇太子は親ロシアの後継者候補であり、親イギリスの候補とは対立している。この二人の貴顕は我々を招待し、その速度について誇張された噂が国中に広まっていた我々の「驚異の風の馬」にとても興味を示した。また首都に向かう旅のための特別な書簡も賜った。
かくして我々は八月十五日にタブリーズを出発し、最初の夜はトゥルクマンチャイに泊まった。そこは一八二八年の有名な条約が締結された小さな村であり、この条約でカスピ海はロシアの湖になった。
翌朝、我々は夜明けの少し後に道に乗り出し、次の村に行く途中で、長い夜旅を終えようとしている奇妙な一行を追い越した。それは長い竿の両端を各々ラバが背負うペルシャ式の輿と、徒歩の召使と騎馬の護衛たちからなっていた。この奇妙な乗り物の乗員は、我々の出現に驚いたラバの引き起こした騒動の間中隠れていたので、後の場面で登場することになる。
最初の章で、セント・ジェームズ宮廷におけるシャーの名代であったマルコム・ハーンと会談したことに触れたが、それから彼は不評を買ったらしい。直近のシャーのイギリス訪問において、彼の随行員のあるものたちは外見も行動もあまりに幼稚であったため、それがヨーロッパ流に馴染んだ大使にとっては恥辱の種となった。そのことが帰国後しばらくしてシャーの耳に入り、テヘランに出頭するよう召喚状が送られた。しかしマルコム・ハーンは東洋の手管に精通していたため、そのような罠に嵌まることはなく、今後はペルシャ政治の知識をロンドンの新聞に発表して余生を過ごすと表明した。
マルコム・ハーンと扇動的な通信を交わしたと告発された、当時タブリーズ在住であったペルシャの外務大臣ムシュト・ア・シャル・エル・ドウレットは、不幸なことに状況が違った。我々がその都市に滞在していた間、彼の豪邸が兵士によって襲撃され、彼は一般の重罪人として投獄された。要求された高額の赦免金を支払うことができなかったため、我々の出発の数日前、彼は恐るべき首都への旅路に連行された。この旅を無事に終える者はほとんどいない。なぜなら、その途中で通常は使者に出会い、彼が差し出す一杯のコーヒー、剣、縄から自らの運命を選択することになるからである。
つまりこれが謎めいた輿の乗員であり、村のキャラバンサリー(宿駅)の前でその輿が開かれると、背が高く太った立派な灰色の髪と髭の男が降り立った。その鋭い目、端正な顔立ち、そして堂々たる態度は、 その失墜の中にあっても威厳を示していたが、落とした肩とやつれた顔は、墓へ向かう途上にある悲哀と不眠の夜を物語っていた。
毒虫で悪名高いミアネの町にはインド=ヨーロッパ電信会社の保管基地の一つが存在する。我々がタブリーズからテヘランまで近くを沿って走った鉄柱の真っ直ぐな列は、メルボルンとロンドンを繋ぐ長大な電線路の一部を成すものである。我々はドイツ人通信士の部屋に泊まった。
ペルシャ人の虚言癖は諺になるほどだが、この国民的欠点の一例が我々にかなりの不便をもたらした。
ちょっとした不運で、その夜泊まるつもりであった少し道から離れた村を気づかずに通り過ぎてしまったことがあった。そして出会ったペルシャの少年に村までの距離を尋ねたのだが、彼は直ちに愉快な嘘をついた。「一ファルサフ(四マイル)」と彼は答えたが、しかしその時すでにその村が我々の背後にあることを彼は承知していたに違いない。
我々は暗くなる前に着くために速度を上げてペダルを漕いだ。伝統的に二重の曙の国とされるペルシャだが、黄昏は一度だけであり、それはすぐに日没と暗闇に移る。一、二ファルサフを過ぎても人家の気配はなく、やがて暗闇に包まれたため、我々は自転車を降りた。次第に隆起する地面と岩より、我々が道から外れてしまったことが知れた。我々は自転車を置き、できればどこかに水はないものかと四つん這いになって手探りした。激しい渇きと、冷え込む空気、そして衣服を貫通して刺してくる蚊の群れのために我々は眠ることができなかった。やがて小雨が降り始めた。
そうして我々が憂鬱な徹夜をしているとキャラバンの音が聞こえてきた。我々は歓喜して、手探りでその方向に進み、やがてランタンをもった先導者の音楽に合わせて行進するラクダの長い列を見つけた。我々のニッケルメッキのバーと白いヘルメットがランタンの光に照らされると、悲鳴が起こり、ランタンは地面に落ちた。後衛が武器を取って前に駆けつけてきた。しかし彼らでさえ(片言のトルコ語で彼らを安心させようとした)我々の声を聞くと後退りした。
どうにか説明ができ、程なくラクダたちは静まった。キャラバンの他の隊も前にやってきて、我々はランタンと松明に囲まれた。やがて我々はランタンをもった先導者と並んで出発した。彼は時折前方に走っていって道を確認していた。その夜は我々が見た中で最も暗い夜だった。
突然、ラクダの一頭が溝に落ち、うめき声を上げて転倒した。幸いにも骨は折れておらず、荷物は再び積み直された。しかし我々は道を外れており、灯りをつけて踏み固められた道を探した。痛む足と空腹を抱え、耐え難い渇きに苦しめられながら、ガランガランと重い響きで鳴るラクダ鈴に合わせて我々は朝まで歩き続けた。
そしてついに滔々と流れる川に辿り着いた。しかし口をゆすいで若干飲み込む以上のことはためらわれ、渇きを癒すことはできなかった。長い休憩の一つで我々は疲れ果てて眠ってしまった。目を覚ましたときには正午の太陽が輝き、ペルシャの旅人たちが身をかがめて我々を覗き込んでいた。
奇妙にもほとんどのペルシャの疫病の発生する所というアゼルバイジャンの高地から降りて、我々は俄にカズヴィーン平野に入った。そこはペルシャの内海の干上がった三角形の盆地の一部であり、今はほとんどが塩と砂の砂漠である。カズヴィーン平野に堆積している粘土質の塵は周囲の高地が風化してできたものであり、中国の黄河地域の「黄土」に似ているが、水が無いため不毛のままである。地表下のわずかな湿気でさえ、砂漠のオアシスにエルブルズ山脈の冷たい清水をもたらすカナート、すなわち地下水路に吸収されてしまう。その水は違えることのない勘によって平野に一定の間隔で掘られた縦や斜めの井戸で細心の注意を払って管理されている。温度計が日陰でも百二十度を示す中、我々はペルシャ人が言うところの「雪焼けした」顔を癒やすために時折これらに降りた。
カズヴィーンと首都の間の平坦な九十マイルの区間には、最近いわゆる馬車道が山の麓近くに設けられていた。ある山の尾根を迂回したところで、突然ダマーヴァンド山とテヘランが我々の前に姿を現し、間もなく舗装された街路、歩道、街灯、路面線路や蒸気トラムまである半ば近代化した首都の光景が我々を驚かした。我々をフランス式のホテルまで先導した好奇心旺盛な群衆にとって我々の「風の馬」が驚異であったのに劣らず。
写真が丸いですが、これはわざとこのように切り取ったわけではなく、彼らの使用した初期のコダックのカメラは元々丸い写真ができるのです。
コダックのカメラは画期的なロールフィルム式で、一巻のフィルムで100枚の写真が撮れました(さすがにガラス板を抱えて自転車旅行は無理でしょう)。写真が丸いのは隅の方の画質の劣化を避けるためと、撮影時に厳密に水平を保たずとも済むようにするためと言われます。何しろファインダーなど無いですし。
しかし本書の挿画のチョイスは少々不可解で、本文といまいち協調が取れていないように思えます。ここでも Khoy のことは本文では触れられていませんし、タブリーズの「アーク」の写真を当然彼らは撮っているのですが、本書には採用されていません。