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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その7:アシュカバード、サマルカンド

テヘランから900kmの砂漠を越えて彼らが辿り着いたメシェド(マシュハド)は、シーア派第8代イマーム、アリー・アル=リダ(c.766-818)の殉教の地で、シーア派のムスリムにとってはメッカの次に重要な聖地です。


 メシェドは著名な人物の墓によって知られる。その聖なる土には、古き英雄ハールーン・アル=ラシード、ペルシャ最大の叙事詩人フィルドゥシ、そして聖イマーム・リザが埋葬されている。イマーム・リザ廟ではいかなる犯罪者も庇護を受け、そこに逃げ込めばシャーですら血税を取り立てることが出来ず、債務者は債務保証が得られるまで保護される。そして異教徒は立ち入ることが出来ない。

 メシェドは我々の運命の輪の中心軸だった。到着の翌日にロシア領事館への招待を受けた時は少なからぬ不安があった。我々は大層な儀式をもって優雅に飾られたひと続きの部屋に案内され、正装した領事とイギリス人の妻に迎えられた。マダム・ド・ヴラソーは湯気をたてる銀のサモワールで茶を供しながら笑顔を輝かせていた。彼女は回りくどい外交儀礼を我慢できず、こう言った。
「皆さんご安心なさい、クロパトキン将軍はあなた方のアシュカバードへの通行許可をちょうど電報されたところですよ」
 この性急な発言は明らかに領事を当惑させ、彼はただ頷いて「うむ、うむ」と肯定するだけだった。
 この知らせは我々の心の重荷を取り除いた。六百マイルの砂漠の旅は無駄にならず、アジアの中央部を旅する展望が開けたのだ。

メシェドのロシア領事の庭

 ロシア領事館とイギリス領事館の競い合うような饗応で、我々の健康は今や過剰な親切によって危険にさらされていた。
 社交では他に、ホラーサーンの知事サヒブ・デヴァン、ペルシャでシャーに次ぐ富を有する人物から招待を受けた。七十六歳という高齢であったが、我々が彼の宮殿を訪問した日、彼は文字通りダイヤモンドと宝石に覆われていた。シャー専属のドイツ人写真家を通訳に、我々は半時間ほど興味深い会話をした。様々な話題の中で、彼は少し前にシャーから受け取った奇妙な電報に触れた。それは「煙草専売に反対する者は誰であれ首を刎ねよ」というものだった。そして数日後には「幾つ首を取ったか?」という問いが続いたという。
 三百人ほどの廷臣を後に従え、知事は弱々しい足取りで広場に向かって歩いて行った。そこではペルシャ騎兵の一部隊が、首都から六百マイルを二日で来たと言われる「驚異の鉄の馬」のために場所を空ける任務を与えられた。後に我々の国境への旅のための特別書簡において知事の非常な喜びが表明された。

トランスカスピアン鉄道の監視塔

 アシュカバードとメシェドの間に完成した軍用道路は、ロシアの侵略に対するペルシャの甚だしい脆弱さを示している。最近のメシェドにおけるロシア領事の成功に勢いづけられ、ロシアはペルシャに対し道路の半分以上を建設することを強要した。この道路はトランスカスピアン鉄道と連絡してホラーサーンをほとんどロシアの専有市場とし、ペルシャで最も富んだ州をヘラートを伺うロシアの歩兵と大砲に開放する。本書の執筆時点では、電報が正しければ、ペルシャの国境州のデレゲツもまた、ロシアが呼ぶところの「ペルシャの属国」と化している。

 商業交通の増加に加えて、この道路は多くの北方からのシーア派信者にも利用されており、その中には人々が「沈黙の巡礼者」と呼ぶ者たちも含まれる。これらは大きな石ないし岩であって、通りがかりの人たちが聖なる都にむけて少しづつ転がしているのだ。我々もメシェドからの旅の初日の終わりに、この敬虔な作業に従事していたのだが、突然背後からの哄笑に驚かされた。見上げると、ペルシャ電報の監督官スターニョ・ナヴァッロが近くの電線で部下たちと作業中に声をかけてきたのだった。我々はその晩この紳士と電報局に滞在し、メシェドの友人たちと電線越しにおしゃべりをしつつ楽しい夜を過ごした。

「沈黙の巡礼者」をメシェドに向けて転がす

 我々の次の目的地であるクチャンは、ヘラート渓谷とカスピ海を分けるほとんど目立たない分水嶺の上に位置している。この都市は[執筆時の]ほんの数か月前に激しい地震によって完全に破壊された。一八九四年一月二十八日付けでアメリカの報道機関は次のように報じた。

「その恐るべき災害の犠牲者一万人の遺体がすでに回収され、同時に五万頭の家畜が失われた。かつての重要かつ美しい人口二万人の都市は、今や死と荒廃と恐怖の光景でしかない」

 ここからアシュカバードまでの軍用道路の仕上がりは、ロシアの工業技術の優秀さを物語っている。それはコペト・ダグ山脈を横切り、八十マイル間で七つの峠を越える。途中に寄る所が無く、そしてようやく半野蛮から半文明に抜け出せることに少なからぬ喜びを感じたため、できれば一日で踏破することを決めた。
 日の出とともにクチャンを出発して、日没までに五つの尾根を超え、その数分後に谷間にあるペルシャの税関に到着した。ロシアとの国境が近いことを示すのは、ただ異常に大きなティーグラスだけで、それで耐え難い喉の渇きを癒やした。唯一見つけた豊富な泉は、その時ペルシャ人旅行者の洗濯物で埋まっていたのだ。我々が他の人のことも考えろと非難しても、そいつは座って嘲笑っていた。

 ロシアの税関を目にしたときには、すでに黄昏れていた。そのトタン屋根の石造りの建物は、後にしてきたペルシャの泥の小屋と強い対照を示していた。ロシアの役人が我々に声をかけたが、下り坂では止まることができず、さらに暗闇が急速に迫っていたので遅れるわけにはいかなかった。アシュカバードはまだ二十八マイル先であり、日中の重労働で疲れ切っていたものの、できればロシアのホテルに泊まらねばならなかった。闇が深まるにつれペースは上がり、ついには時速十二マイルの速さで狭いV字谷を下って、我々と砂漠を隔てる最後の七番目の尾根に向かっていった。
 午後九時三十分、その稜線に立った我々の前には闇に包まれたカラクムの砂漠地帯が広がっていた。数千フィート下にはアシュカバートの市街が灯りに照らされて輝き、砂漠の海の岸辺にある灯台のように見えた。ロシアの楽団の音楽が闇を通して微かに響く中、我々は下車してこの不思議な風景を眺めていたが、機関車の汽笛の音で我々の夢想は引き裂かれた。砂漠を横切ってトランスカスピアン鉄道の列車が街に向かって滑るように走っていた。

アシュカバード近郊の競馬でのクロパトキン将軍との会談

 翌晩、トランスカスピア知事であるクロパトキン将軍自身から文明社会への温かい歓迎を受けた。 彼とその友人方との晩餐にて、ありがたくも我々がアメリカ市民であるという事実だけでロシア帝国の端から端まで旅行する資格があることを保証していただいた。

ティムールの墓のあるサマルカンドのモスク

 アシュカバードからサマルカンドまで、我々の自転車旅行の連続性は途切れる。ロシアの友人たちは、トランスカスピアン鉄道を利用し、恐るべきカラクム砂漠を越える危険を冒さないよう説いた。鉄道の路線に沿った旅であれば水や食料が定期的に入手できるため、中国の砂漠に比べれば大した苦労ではなかったであろうが、しかし我々は冬が訪れる前に次のシーズンには太平洋に到達できる地点まで行くことを切望していた。ブハラ駅の鉄道当局の厚意により、十マイル離れた東の古代都市を訪れることができるよう我々の車両を迂回してもらえた。十一月六日、我々はティムールの古都であり、現在トランスカスピアン鉄道の終点であるサマルカンドに到着した。

ファキダウドの隊商宿
サマルカンドの市場と大学の遺跡

鉄道でスキップしてしまうのはちょっと残念ですね。

ちなみに通行許可をくれたアレクセイ・クロパトキン中将は、このあと日露戦争で惨敗する人です。

タバコ騒動について

イランのタバコ文化を象徴するカリアンと呼ばれる水煙管は、16世紀の詩に既に言及があるのですが、イランにタバコが導入されたのは17世紀前半頃と考えられるので、おそらくそれ以前は大麻か何かを吸っていたのでしょう。

それはともかく、19世紀ではイラン国民の大多数はタバコを嗜んでおり、ラマダン明けには食事をさしおいて先ずはタバコに火をつけたと言われています(断食中は喫煙も禁止です)。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Haji_Karbalaee_and_Hookah.jpg

ときに1890年3月20日、ガージャール朝第4代シャー、ナセル・アッディーン・シャー・ガージャールは、50年間のタバコの生産、販売、輸出の完全独占権をイギリスのG.F.タルボット少佐に与えました。見返りにシャーは利益の1/4を受け取ることになっていました。

そしてこの権利をもって1891年2月8日にイギリス資本のペルシャ帝国タバコ会社が設立されると、イラン国内のタバコ生産者・販売者はこの会社を通じて取引をすることが義務付けられます。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ImperialTobaccoCorporation.jpg

このことは当然ながら激しい反発を生み、イラン全土で抗議活動が巻き起こりました。上の「首を刎ねよ」というシャーの命令はこれに関するものです。

外国の支配に反発する宗教指導者たちもこれに同調し、1891年12月にはタバコを禁止するファトワが布告されました(「慈悲深く慈愛遍く神の御名において。今日より如何なる形態であれ両種のタバコの使用は時のイマームに対する反逆と見なされる。神がその降臨を早められんことを」)。

そうしてイラン国民は皆タバコを吸うのを止め、バザールでは水煙管が壊され、商人たちはタバコの在庫を焼却し、シャーのハーレムですら禁煙になります。結局シャーはこのボイコット運動に屈し、1892年1月5日に専売権は取り消され、程なくして禁煙のファトワも解除されました。

この事件はイランの民衆が宗教指導者と結託してシャーや外国勢力に打ち勝ったという先例を作り、近代イランのナショナリズムの先駆けとなったと考えられています。


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