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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その2:カイセリ、スィワス、エルズルム
前回の続き。
四月二十日の正午ごろ、我々の道は突然スミルナからカイセリまで延びる広い交易路へと変わった。そこはカイセリの西約十マイルであった。長いラクダのキャラバンが威厳を持ってその道を進んでおり、先頭には小さなロバにデヴェデジー(ラクダ使い)が乗っていて、足はほとんど地面に届きそうだった。その頑固で知られる生き物は、我々が横に並ぶまでは微動だにしなかったが、突然その特徴的な横揺れをし、乗り手を地面に放り出した。先頭のラクダは抗議するように唸りながら横にずれ、その横移動は隊列全体に広がり、ついにはキャラバン全体が道に対して約四十五度の角度で停止した。小アジアのラクダは他のアジアのラクダたちのような馬に対する反感を有していないが、鋼鉄の馬には彼らですら我慢がならなかったのである。
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曲がり道の後、カイセリの街から一万三千フィートの高さにそびえ立つ古のエルジェス山が突然視界に入った。その頂と肩は雪で覆われていた。現地の伝承によればノアの箱舟が洪水の中でこの高い山に衝突したためノアはこの山を呪い、常に雪に覆われるようにと祈ったという。この山に関連して我々は初めてアララト山に登るというアイデアを思いついた。あちこちの目立つ山頂には、先史時代のヒッタイト人の物見の塔の遺跡である小さな土の塚が見分けられた。
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カイセリ(古代のカエサレア)は、十四世紀のセルジューク朝の遺跡や記念碑で埋め尽くされている。矢じりやその他の遺物が日々発掘され、通りの子供たちの玩具となっている。沿岸の蒸気交通機関の発展により、かつてのようなキャラバンの中心地ではなくなったが、それでもなおそのチャルシ(屋内市場)はトルコで最も優れたものの一つで、コンスタンティノープルのそれと比べても遥かに見栄えが良い。これらのチャルシはレンガのアーチがあって両側に店が並ぶ狭い通りにすぎない。宿に至る唯一のルートはこれらのうちの一つを通ることだったが、このように狭い場所や興奮した群衆の中では、必ず災難が起こると感じた。唯一の方策は混雑を避けてできるだけ早く通り抜けることだった。我々は加速し、レースが始まった。不意をつかれた商人たちとその客は、我々が通り過ぎるとたちまち商売のことを考えるのを忘れてしまった。背後の群衆がすべてを押しのける中で混乱が広がった。樽や箱の倒れる音、缶の音、食器の砕ける音、足元で踏みつけられた野良犬の鳴き声は、混乱にさらに拍車をかけた。
コンスタンティノープルのアメリカ聖書協会のピート氏の厚意により、我々はカイセリの宣教師たちや、アジア・トルコの道中の他の場所への紹介状を受け取り、さらに出発前に聖書協会で預けた預金に相当する為替も受け取った。さらに我々はこれらの人々のもてなしと親切に大いに助けられた。
カイセリの宣教活動で最も顕著な特徴はアルメニア女性の教育である。彼女たちの社会的地位はトルコの姉妹たちよりもさらに劣っている。アルメニア人の間ではトルコと同じく肉付きが良いほど妻の価値が上がる。宣教師の妻は彼らにとって驚きと軽蔑の対象である。彼女が通りを歩くと、彼らは「夫の仕事をすべて知っていて同じくらいうまくやる女だ」とささやく。この言葉の後には一般に「マダナ・サタナ」という表現が続く。これは口語で「女悪魔」を意味する。最初はこの無知な偏見を克服し、女子生徒を無料で学校に通わせるのに苦労したが、今では授業料を払うといわれても彼女たちのための場所を見つけるのが難しいという。
アルメニア女性の衣装は一般に鮮やかな色の布で作られ、美しく装飾されている。彼女たちの髪型は常に凝ったもので、時には金貨の連なりが頭を囲むように、あるいは三つ編みに吊り下げられる。銀のベルトが腰を締め、金貨のネックレスが美しい首を引き立てる。川で衣類を洗う際にはしばしば足首に金の足輪が見られる。
トルコ女性の衣装は、その簡素さと顔を露出しない点でアルメニア女性と強い対照をなしている。ブルマー風のバギーパンツ、サイドに開きがあるゆったりとしたローブスカート、そして腰と体を覆う大量のショールのような帯がトルコの室内衣装の主な特徴である。外出時には、ヤシュマクと呼ばれる死装束のようなローブで頭からつま先まで全身を覆う。これは通常白だが、時には紅、紫、黒のものもある。夕暮れ時にこれらの女性たちの群れに道で出会うと、白くひらひらとした衣装のために翼を持つ天使のように見えることがある。トルコ女性は一般的に男性、特に外国人を怖がるが、田舎の女性たちは都市部の女性たちほど臆病ではない。彼女たちが村の周りや開けた野原で集団で働いているのによく出会い、時には水を求めることもあった。もしそれが娘たちの集団であれば、彼女たちは後ろに下がり、お互いの陰に隠れた。我々が「とても良い馬に乗せてあげる」と提案すると、仲間の間で一斉にクスクスと笑いが起こり、彼女たちはヤシュマクをさらに首や顔にしっかりと巻きつけるのだった。
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内陸部の道路の風景にはほとんど変化がない。アナトリアの風景の最も特徴的な要素の一つはコウノトリである。エジプトの越冬地から数千羽の群れで飛来し、村の家の屋根に邪魔されることなく夏の巣を作る。これらの鳥たちは、カラスやカササギ、ツバメと同様に、イナゴとの戦いにおいて農民たちの貴重な味方となっている。さらに心強い友は黒い翼を持つピンク色のツグミであるスマルマルだ。道路にはラクダ、ロバ、馬、ラバのキャラバンの列のほか、タイヤのない堅い木製の車輪を備えた牛車が点在し、それらは特有の牛の一種であるバッファローに引かれている。膨らんだ首、上を向いた鼻、イノシシのような剛毛を持つこの動物は、泥の水たまりに転げまわっている時は特に醜い見た目をしている。
村では、床下の水平な車輪を小川の水力で動かす原始的な製粉所や、さらに原始的に目隠しをしたロバが円を描いてひたすら歩いているのを時折見かけた。通りでは冬の燃料用に糞を集めている少年や老人によく出会った。また、ときどき病人や障害者が 「ハキム(医者)」と呼び掛けてきた。宣教師の医療活動により、この単純な人たちは外国人はみんな医者だという印象を抱くようになったからだ。彼らは近づいてきて脈を診てもらおうと手を差し出し、急速に墓に向かっていることが明らかな病気を何とかしてほしいと頼んでくるのだった。
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スィワスの最初の眺めはイルドゥズ山の頂上からだった。そこにはルクルスが何度も打ち負かしたが、決して征服できなかったポンティヌス王ミトリダテスの廃墟となった城が今も残っている。そこから迅速に下り、古い崩れた橋で三度目のキジル川を渡って、半時間後にはアメリカ合衆国領事館の上に星条旗がはためいているのが見えた。そして代表者であるヘンリー・M・ジュエット氏のもとで我々は数週間を過ごすことになった。到着から一日か二日後に我々の一人が軽いチフスの発作を起こしたのだ。これは道路沿いの小川から水を飲んだために感染したものと思われる。この場所であったのは不幸中の幸いであった。宣教師の婦人たちの手厚い看護のもと、快適な宿ですぐに回復したからである。
むしろ不毛の地であるスィワスが比較的発展しているのは、黒海、ユーフラテス川、地中海を結ぶ主要な交易路の合流点にあるからだ。ここはかつてのセルジューク朝カッパドキアのルミリの首都であるだけでなく、フランスおよびアメリカ領事代理や、一八七八年の条約で定められた戦後賠償金の徴収のためのロシア政府代理人の居留地でもある。ここでは民主的なアメリカの代表者でさえ東洋の威厳と華美をいくらか備えている。我々がジュエット氏と共に巡る際、先頭にはチェルケス人のカヴァス(トルコの警察)が長い黒いコートをまとい、弾薬帯に巨大な短剣をぶら下げて護衛に就いた。また別の地元のカヴァスが大剣を脇に引きずりながら通常は後尾を守っていた。夜には彼が大きなランタンを運び、そのろうそくの本数によって地位の象徴が示されていた。「トルコ人には求められるものを与えねばならない」と、領事は目を輝かせながら言った。「形式と官僚主義をね。そうでなければ彼らの目には領事とは映らないのだよ」
トルコの礼儀作法の形式主義を説明するために、領事は次のような話をした。「あるときトルコ人が燃えている家から家具を運び出そうとしていると、通行人がタバコを巻いているのに気づいた。彼は急いでいながらも足を止め、マッチを擦って火を差し出した」
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我々が目にしたトルコの形式主義の最も顕著な例は、以下のスルタン宛ての公文書の挨拶である。
「裁定者、絶対者、宇宙の魂と肉体、地上のすべての君主の父、陛下、鷲の君主、不変の秩序の源、すべての名誉の源、スルタンのスルタンの子、その足元において我らは塵であり、その恐るべき影が我らを守る、アブデュルハミド二世、アブデュルメジドの子。天なる我らが栄光の主がその神聖なる身体に健康と力と終わりなき日々を与えんことを、アッラーは汝をその宮殿と玉座において歓喜と栄光と共に永遠に守り給う」
これは決して卑屈なお世辞というわけではない。同じ精神がスルタンその人が大宰相に向けた挨拶にも表れている。
「最も誉れ高き宰相、世界の秩序の維持者、叡智と判断を備えた公務の指揮者、知性と良識をもって人類の重大事を遂行する者、帝国と栄光の組織を強固にする者、至高の神より豊かな才能を授かった者、そしてこの時の我が幸福の門の『モンシル』、我が宰相メフメト・パシャ。神が彼を崇高な尊厳の中に長く保たれんことを」
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トルコ人は怠け者とは言えないが、時間をかけて物事を進めるのが好きだ。忍耐は神に属し、拙速は悪魔に属すと彼らは言う。これが最もよく示されるのは、トルコでの買い物の仕方である。我々がスィワスのバザールを訪れ、当地の名産品の象嵌細工の銀食器を見た時にその事がよくわかった。客は通りに立って展示物を吟味し、商人は店の床に座っている。何らかの地位のある客の場合は商人と同じ高さに上って座る。客が外国人の場合、商人は非常に敬意を表す。商人は単なる商人ではなく、客をもてなすホストである。コーヒーが出され、次に巻かれたタバコが「ゲスト」に渡され 、さまざまな社交やその他の地元の話題が自由に話し合われる。コーヒーと喫煙の後、購入の問題に徐々に入っていく。いきなりでは威厳を失うことになる。何かを買うことは単なる後付けであるかのように、ゆっくりと慎重に、おそらく三十分後ぐらいに顧客は欲しいものを示し、商品の品質について話し合った後、特に興味がないかのように何気なく値段を尋ねる。商人は 「ああ、旦那様のお好きなように」、あるいは「贈り物として受け取っていただければ光栄です」などと答える。これは何の意味もなく、その後に必ず続く値切り交渉の序章にすぎない。売り手は絹のような態度と厚かましい表情で、常に本来の四倍の値段を提示する。そして本当の商売が始まる。買い手は、最終的に支払う予定の金額の半分または四分の一を提示し、 怒鳴り声のような口調で繰り広げられる舌戦がこの茶番劇を終幕へと導く。
トルコ人の迷信は「邪眼」に対する恐れに顕著に現れている。屋根の縁に置かれた壺や、ニンニクと青いビーズを詰めた古い靴はこの幻想に対する確かな守りとなる。街でかわいい子供が遊んでいると、通行人は「まあ、なんて醜い子だ!」と言う。美しさが邪悪な霊を呼び寄せることを恐れるためだ。
トルコの農民階級は、もちろん最も無知であるため、最も迷信深い。彼らはまったく教育を受けておらず、読み書きもできない。彼らが知っている大都市はスタンブールだけで、パリは外の世界全体を意味する言葉である。とあるアメリカ人宣教師は、「アメリカはパリのどのあたりにあるのか?」と尋ねられたことがあるという。しかし、彼らは一般的に正直で、常に忍耐強いと言える。彼らは一日に六から八セントほど稼ぐ。これでエクメクとピラフが手に入り、そして彼らが望むのはそれだけだ。トルコ人は祝祭日にのみ肉を食べ、それも羊肉だけを食べる。徴税人だけが彼らの唯一の不満であり、徴税人を必要悪とみなしている。彼らには圧政者の鉄の踵で踏みにじられているという意識はない。しかし彼らは満足しているので幸せであり、羨望もない。
トルコ人は貧しく無知であるほど優れているように見える。金と権力を得て西洋文明に「汚染」されると、堕落する。二十年の居住経験を持つある人がこう言った。「下層民には時折、真実、誠意、感謝が見られることがある。中産階級では滅多にない。上流階級では決してない」
トルコの官僚の腐敗は諺になるほどだが、「国庫」は「海」であり、「それを飲まない者は豚」であると見なされている国では至極当然のことである。公職者には横領や職権乱用が当たり前のようにつきまとう。それらは必要悪であり、アデット(慣習)のなさしめるところとされる。役職は最高額の入札者に売られる。トルコの官僚は非常に礼儀正しく感じの良い人々で、お世辞を惜しまないが、賄賂については良心がなく、報酬としての美徳というものにはほとんど関心がない。
我々はこの一般法則に対する輝かしい例外を記録できることを嬉しく思う(もっともこれは例外もありうるというだけのことだが)。スィワスからカラヒサールへ向かう途中、コチヒサールで自転車の一台がかなりひどく故障したために足止めされることになった。その間、我々は地区のカーディー(イスラム法官)の招待を受けた。彼は前日に公式訪問で知り合った当時代理のカイマカム(市長)を務めていた高齢で温和な紳士であった。彼の家はそびえたつ崖の影にある近くの谷に位置していた。我々は通訳を請け負ってくれたアメリカで医者として教育を受けたアルメニア人の友人と一緒にセラムリュク(客間)に案内された。
カーディーは笑みを浮かべながら入ってきて、右手で床から額まで数字の「3」を描く、通例の絵画的な挨拶をした。彼が前日に我々と過ごしたことは楽しかったので、可能であればもっと長く会話をしたいと考えていたと言ったのは、社交辞令であったかもしれない。
お決まりのコーヒーとタバコと共に、カーディーは打ち解けて饒舌になった。彼は明らかに宿命論の信奉者であり、我々のこの国への旅、食べる物、そして我々が乗る特別な「車」の発明さえも神が予め定めたものだと言った。このような特異な方法での旅の発想は人間の知恵に帰すべきものではない。すべてには目的があるのだと。
二人の見知らぬ、おまけに外国人である我々に対する彼のもてなしに感謝の意を示すと、彼はこの世界は神の支配において非常に小さな空間しか占めていないのだから、個々の信念や意見にもかかわらず、互いに兄弟であることができると述べた。「私たちには異なる宗教的信念があるかもしれません。しかし私たちは皆、同じ人類の偉大な父に属しているのです。異なる肌の色、性格、知性を持つ子供たちが一つの親に属するように。私たちは常に理性を働かせ、他者の意見を思いやるべきです」
思いやりから自然に話題は正義に移った。我々はトルコの裁判官であり、かなりの高官でもある彼のこのテーマに対する意見に非常に興味を持った。「正義は最も卑しい者にも与えられなければなりません」と彼は言った。「たとえ加害者が国王であってもです。すべての者が正義の神聖な法に従わなければなりません。私たちは自分の行いを人ではなく神に対して説明しなければならないのですから」
スィワスからエルズルムへの通常の道はエルズィニジャンを通るものである。しかし、我々はザラで分岐し、カラヒサール市と、ジェノバの探検家によって開拓されて現在はイギリス人によって採掘されている近隣のリジシー鉱山を訪れた。この未踏の道への逸脱は時期が非常に悪かった。雨季が始まり、ほとんど中断することなく二週間以上雨が続いたのである。アナトリア半島の二大河川、クズル川とイェシル川の分水嶺に立つコッセ山の麓で、我々の道は山の洪水で遮られ、それが最高潮に達した時にはすべてを洗い流した。我々はその河岸の原始的な製粉所で一昼夜を過ごしたが、そこは生活のあるところではなく、食べ物を手に入れるために山中を三マイルも登らねばならなかった。
カラヒサールの直前で渡ったイェシル川は水が肩よりもあって、急流を小さな岩が流れてきて我々にぶつかり足元をすくわれそうになった。 この地域には橋は存在しなかった。 馬と荷車があれば川はたいてい渡れる。それ以上何を望むだろう? トルコ人にとっても他のアジア人と同様に重要なのは「何が良いか」ではなく「何の役に立つか」ということなのだ。
我々が川に到達するずっと前、とある町だか村の住民が集まり、不安げな顔で「クリスチャンの旦那、橋はない」と川の方を指し、馬の頭を超える深さであることを説明した。 彼らはそれで解決したと思っていた。 彼らには「クリスチャンの旦那」が服を脱いで川を渡るとは思いもよらなかったのだ。
時には泥道を歩いていると自転車の車輪が泥で詰まり押すことすらできなくなることがあった。そのような場合、我々は何であれ最寄りの場所に避難した。 カラヒサールに到着する前夜は、我々はノミ以外のすべてに見捨てられた廃厩舎に入った。 別の夜は小アジアとアルメニアの境界にある松林で過ごした。そこは国境山賊の隠れ家だと言われていたので、彼らの注意を引かないようにするためには火を焚くことができなかった。
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ついにバイブートでトラブゾン・エルズルム街道に入ると、その差は顕著で、比較的なだらかなコップ山を登るのは朝飯前だった。そこから歴史的なユーフラテス川の谷を初めて見下ろし、数時間後にはその麓を滑るように進んで紛争地帯のエルズルムへと向かった。
我々が市街に近づくと、畑にいたトルコの農民たちが我々に気づき、仲間に向かって叫んだ。 「ロシア人だ! ロシア人だ! そこにいる! 二人だ!」 我々がツァーリの臣下とみなされたのはこれが初めてではなかった。国全体が彼らを恐れているようだった。エルズルムは定められた戦争賠償金が支払われない場合はロシアが間違いなく要求するであろう地域の首都である。
市街への入口は、攻撃があった際に突撃を防ぐため城壁の間を曲がりくねらせて作られていた。しかしこれも静粛な車輪の不意打ちを防ぐものではなかった。我々は疾風と共に駆け抜け、驚く衛兵を横目に通り過ぎ、彼らが正気を取り戻す前にすでに五十ヤード先へ到達していた。 その時になって彼らは我々が人間であり、さらに外国人であることに気づいた。しかも恐れていたロシアのスパイかもしれない。それで彼らは全速力で追いかけてきたが、すでに手遅れだった。彼らが追いつく前に、我々は司令パシャ、すなわち軍事総督の邸宅に到着していた。我々はスィワスの領事から紹介状を持参していた。 その紳士は大変に気さくな人物で、我々が衛兵に仕掛けた一件を大笑いしてくれた。彼の提案で我々はヴァリ、すなわち民政の総督であり、名声と影響力を持つもう一人のパシャを訪問することになった。
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我々は大宰相からの紹介状をヴァリに渡し、バヤズィトへ進む許可を求めるために公式訪問を行うつもりだったが、それほど早くには予定していなかった。バヤズィトからはアララト山の登頂を試みる予定で、それについては次章で述べることになる。数日前、バグダッドから来たイギリス人旅行者が同じように申請を行ったが、ある疑惑から却下されたと聞いていた。そのため我々がフランス語の通訳を伴ってヴァリの私室に向かう際には少なからず心配があった。
状況は最初から悪い兆しを見せていた。ヴァリは明らかに不機嫌で、部屋の中で誰かに大声で怒鳴っているのが聞こえた。厚いマットのカーテンの下を通ると、カーテンを持ち上げていた二人の従者が、我々の埃まみれの靴と風変わりな服装に驚愕の目を向けた。ヴァリは広々とした部屋の奥に置かれたとても小さな机の前の大きな肘掛け椅子に座っていた。通例のサラーム(挨拶)の後、我々が速やかに出されたコーヒーをすすり、小さな紙巻きタバコをふかしている間、彼は紹介状に目を通した。これでヴァリは平静を取り戻す時間を得たようだった。
彼は明らかに厳格な独裁者であり、我々が彼に気に入られればうまくいくが、気に入られなければすべてが駄目になるだろう。そこで我々は中国のパスポートから小さな写真機まで、持っているものをすべて見せ、旅の途中で遭遇した面白い出来事をいくつか語った。彼が次々に質問をする様子から、彼が本当に興味を持っていることが確かだと感じ、彼の顔に時折広がる笑顔を見て安堵した。辞去する際、彼は「ああ、パスポートは明後日以降いつでも準備できている。しばらくの間は君たちの馬は政府の費用で厩舎に置かれ、餌も与えられるだろう」と言った。これはトルコ人にしては大きな冗談であり、彼の好意が確かめられた。
我々がバヤズィトへ向けて出発する朝、ヴァリの要請に応じて市外の平坦な道で自転車の展示を行った。数名の宣教師や領事館のメンバーが馬車で見物に来ており、彼らは一つの小さなグループを形成していた。我々はハンドルバーに「星条旗」と「新月旗」を並べて翻しながら彼らの前に姿を現した。外交的な場面ではその国の国旗と自国の国旗を並べるのが我々の習慣だった。このささやかな演出にヴァリは微笑みを浮かべた。展示が終わると、ヴァリは前に進み出て「満足だ、気に入った」と言った。それから彼の豪華に飾られた白馬が連れてこられ、彼は鞍に飛び乗ると手を振って別れを告げ、随行員と共に市内へ戻っていった。我々はしばしその場に留まり、親切な友人たちに別れを告げた後、再び東への旅を続けた。
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次はアララト山に登ります。