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イギリス式グランド・ピアノ(196)

クレメンティは弟子のインタビューで彼が歌うような鍵盤奏法を確立した要因の一つに「Englischen Flügel-Fortepiano」イギリスのグランド・ピアノの発展を挙げました。クレメンティはローマ生まれながら、生涯の大半をイギリスで過ごしており、ヘンデル以上にイギリスの音楽家といえます。

イギリスではヨハネス・ツンペが1760年代にスクエア・ピアノをもたらして以来、18世紀を通してピアノと言えばもっぱらスクエア・ピアノであったのですが、グランド・ピアノの開発も無論進められていました。イギリスにおけるピアノ開発は18世紀前半に遡り、チャールズ・バーニーによれば、ツンペ以前の試みはすべて大型の楽器であったと言います。バーニーはウッドというイギリス人がローマで製作したというピアノを1747年に試奏して所見を述べていますが、機構の詳細には触れておらず。ただ反復に支障があって速い曲は演奏できなかったと言いますから、クリストフォリ式とはまた違ったものだったのでしょう。いずれにせよ、そういったイギリスの初期のグランド型のピアノは珍品の域を出るものではなかったようで、現存する楽器もありません。

現存最古のイギリス製のグランド・ピアノはアメリクス・バッカースによる1772年製、シリアルナンバー21番の楽器です。

Grand Pianoforte, Americus Backers, 1772, Serial Number: no 21.
https://mimo-international.com/MIMO/doc/IFD/MINIM_UK_UEDIN_4324

バッカースも「十二使徒」の一人に数えられるドイツ系の職人ですが、後述するように彼に関してはジルバーマンの弟子という風評も故ない訳ではありません。もっともバッカースの来歴について確かなことは殆どわかっておらず、バーニーはドイツ人だと言ってますが、ジェームズ・シュディ・ブロードウッドはオランダ人だと言っています。彼も例によって発明家気質の人物で、ピアノの他にも色々と珍奇な鍵盤楽器を手掛けていたようです。

バッカースのピアノの外見はシュディやカークマンなどの同時代のイギリスのハープシコードと全く変わりません。FF#抜きの5オクターヴ60鍵の鍵盤も同様。ペダルが2つ付いていますが、これもイギリスのハープシコードにはスウェルとマシンストップのペダルがあって、これを流用したものです。右はダンパー、左はウナ・コルダで、この配置は現代まで受け継がれています。

Double manual harpsichord, Burkat Shudi and John Broadwood, 1787.
https://www.cobbecollection.co.uk/13_shudi_general2/

肝心のアクションは、キーレバー上の突起でハンマーの基部を突き上げる、いわゆる「イギリス式アクション」で、エスケープメント付き Stossmechanik というか、加速レバーを省略したクリストフォリ式のようなものです。

特にハンマーを受け止めるバックチェックはクリストフォリの影響が顕著で、後期型のクリストフォリのピアノか、あるいはそのコピーであるジルバーマンの実物を参照したことは間違いないでしょう。

Americus Backers 1772
Michael Cole, The pianoforte in the classical era, 1998, p. 120.
Bartolomeo Cristofori 1720
https://en.wikisource.org/wiki/Page:A_Dictionary_of_Music_and_Musicians_vol_2.djvu/723

バッカースの独自の工夫として特筆すべきは、エスケープメントを調節する「セットオフ」のネジです。これはネームボードを外せば正面からアクセスできるようになっており、ピアノで一番厄介なエスケープメントの微調整を容易にしています。

シュタインの開発したウィーン式アクションに比べると、バッカースのイギリス式アクションのタッチはやや大味で鋭敏さに欠けるといわれましたが、その後の多くの改良を経て現代のピアノのアクションへと発展していきます。ウィーン式は20世紀初めには廃れてしまい、現代のピアノは総じてバッカースの末裔です。これはハンマーをキーレバー上に搭載するウィーン式ではハンマーの肥大化に耐えられなかったということがあり、イギリス式の反応の悪さについては、エラートによるダブルエスケープメントの開発によってある程度解消されました。

バッカースのピアノについての文献上の初出は、1771年3月1日発行の『Public Advertiser』に掲載された広告です。

セントジェームズ・ストリートの茅葺き亭の集会所にて、月、火、金、土曜日の午前に、ハープシコードと同じ大きさ、同じ形状で、従来のハープシコード類と同じ用途に応えられる新発明の楽器を見聴きいただけます。この楽器は同じように演奏できますが、その他の点では全く異なり、その音色と表現力は今まで知られたいかなる楽器をも凌ぐものです。この楽器はセントジェームズのジャーミン・ストリートのアメリクス・バッカースの発明によるもので、彼はこれを「オリジナル・フォルテピアノ」と称しています。すなわち、これは何かの模倣ではなく、完全に彼の発明品であるということです。フォルテピアノと称するものは数多く作られていますが、バッカース氏はこれこそが本物であると世間に知らしめ、同名の製品に対するその優越性を判断していただこうという所存であります。優秀なハープシコード奏者が一、二時間演奏し、その後は紳士淑女の皆さまにご自由に試奏していただけます。入場料は2シリング6ペンス。

Public Advertiser, 1 Mar. 1771.

この展示会は成功を収めたようで、バッカースの「オリジナル・フォルテピアノ」は人気を集め、彼の顧客にはJ.C.バッハはもとより、パリのマリー・アントワネットや、ウィーンのマリア・テレジアの名もありました。

しかしながら、早くも1778年1月8日にバッカースは世を去ってしまいます。現存が確認されているバッカース作の楽器は、先の No. 21 のピアノと1766年製の二段鍵盤のハープシコードのみで、その他のバッカース銘のピアノは偽作です。

Piano, "Americus Backers Londini Fecit" 1780-95.
https://www.nationaltrustcollections.org.uk/object/1448922

バッカース亡き後には、バーカット・シュディの後継者であるジョン・ブロードウッド(1732-1812)と、彼の下で調律師をしていたロバート・ストダート(1748-1831)がバッカース式のグランド・ピアノを製造しました。

Grand Piano, John Broadwood 1792.
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/503821

これに関してジョン・ブロードウッドの長男であるジェームズ・シュディ・ブロード(1772-1851)による証言があります。

グランド・ピアノはイングランドの楽器と言えるかもしれない。これは1776年頃、ジャーミン・ストリートに住んでいたオランダ人、アメリクス・バッカースによって発明されたからである。彼はハープシコード職人であり、最初にハンマー式の楽器を試みた際は、当時大いに称賛されていたハープシコードのチリンチリンとした音を得るために、ハンマーを被覆せず、柔らかい木やコルクで直接弦を叩いていた。後に彼はハンマーを革でわずかに覆うようになった。近年、音楽界が音色の甘美さに一層うるさくなるにつれ、ハンマーはますます布や革その他の素材で覆われるようになり、メーカーや音楽家の好みに応じて調整されている。バッカースのメカニズムはシンプルでありながら効果的であり、最も工夫に富んだ競争相手とも肩を並べ、イングランドや大陸のあらゆるメーカーに採用されている。これは大陸では「メカニーク・アングレーズ」として知られている。バッカースは1781年頃に結核で亡くなり、自分の発明に誇りを持っていた彼は、親のような気持ちでその発明を友人のジョン・ブロードウッドに託した。しかしブロードウッドは他の事業に忙しかったため、この発明にはあまり関心を示さず、故ロバート・ストダートがこの楽器の販売に成功を収めたことで、ようやくその重要性に気づくこととなった。

Some Notes made by J.S. Broadwood, 1838, with observations & elucidations by H.F. Broadwood, 1862.

これは発明の年もバッカースの没年も間違っており、そもそもJ.S.ブロードウッドはバッカースが広告を出したときにはまだ生まれてもいないので、あまり信用が置けるものとはいえません。

さらにこの箇所にはJ.S.ブロードウッドの子であるヘンリー・フォウラー・ブロードウッドによる注があります。

J.S.ブロードウッドはここで述べていないが、後に私に話してくれたところによると、彼の父ジョン・ブロードウッドは、その徒弟として同じくブルクハルト・シュディの下で働いていたストダートと共に、夜になるとジャーミン・ストリートへ行き、バッカースがそのメカニズムを完成させる手助けをしていたという。だからこそ彼は死に際に自身の発明の管理を友人であるジョン・ブロードウッドに託したのだ。

Some Notes made by J.S. Broadwood, 1838, with observations & elucidations by H.F. Broadwood, 1862.

つまり研究開発時からブロードウッドとストダートの関与があったというわけですが、これもやはり信用できるものではありません。もっとも否定する理由もないわけですが。近所の同業者であれば顔見知り以上の仲ではあったでしょう。

ブロードウッドのピアノについてはまたいずれ。

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