
『アジア横断自転車旅行』(1894年)その4:アララト山、後編
前編から続きます。
我々は四時に起床したが、七時になってもまだ宿営地に居た。ザプティエの紳士たちが安らかな眠りから覚めるまで二時間が消えた。それから特別な朝食を食べるのにかなりの時間が浪費された。我々はエクメクとヤウルト(吸い取り紙パンと凝乳)で我慢しなければならなかった。それが終わると、彼らは重い軍靴の代わりのサンダルがないと先に進まないと言い張った。つまりこの地点で馬を降りる必要があったからだ。それをクルド人に作らせると、今度は武装したクルド人十人が同行しなければ行くのは怖いと言い出した。我々はこれが金を巻き上げるためにザプティエと共謀したクルド人の策略に過ぎないことが分かっていた。それで我々は努めて冷静に、これほど大勢の護衛に払う金はないと、さりげなく仄めかした。この発言は魔法のような効き目があり、クルド人たちが我々の冒険に抱いていた関心は一瞬で消え去った。ムテッサリフの指示により我々と共に雪線まで同行するはずであった三人のクルド人でさえ、行くことを完全に拒否した。ムテッサリフの名を出しても嘲笑で返されるだけだった。バヤズィトの友人たちの助言に従い、我々は毛布もクルド人に依存していた。彼らはすでに借りていた毛布をテント前に居たロバからひったくった。この間、痩せて背が高く従順そうな顔つきをした我々の駄獣使いは黙って立ち尽くしていた。さて、彼についてだが、一体彼はどこまでロバを引いていくつもりだったのだろうか? 彼はこの地点を大きく越えて行くことができるとは考えていなかったのだ。
もはや忍耐は美徳ではなかった。我々は即座に話を打ち切った。駄獣使いには先に進むか、既に得た報酬を失うかのどちらかだと告げた。そしてザプティエたちには彼らの行動を帰還後にすべてムテッサリフに報告すると伝えた。この強引な説得により、彼らは不本意ながらもすぐに我々に従い、気を落としたクルド人たちを後に宿営地を出発した。
案内人が居ないため、我々は自力でなんとかしなければならなかった。我々のザプティエたちは助けになるどころか厄介者であった。彼らは自分たちの食糧すら運ぼうとしなかった。そして我々の進むべき土地について全く無知だった。
前日の観察から、我々はドームの南東側のバットレスに当たる岩稜に到達するまで、北東に緩やかな斜面を登っていくことにした。そのどれよりも頂上近くまで伸びている突き出た岩の上を行けば、この時期に山を覆っていた滑りやすい急峻な雪原を回避することができた。
宿営地を出発してすぐに登りは急峻に困難になった。昨日の小さな火山石が今や巨岩の障害物となった。その間をロバたちは苦労しながら進んだ。彼らはしばしば荷物をひっくりかえしたり、頑丈な壁の間に挟まったりした。彼らの救出に苦労しているとき、我々はよくノアは箱舟から出した動物たちを一体どうやって管理したのだろうかと考えていた。もしこれらのロバたちが哲学的な性格でなかったら、彼らは窮地から救出されるしかたについて強く抗議したかもしれない。我々が操縦の不注意を指摘すると、駄獣使いからトルコ語の罵倒が炸裂し、アララト山の岩々に怒りのこだまを響かせた。その反抗精神は登る高さに比例して増しているようだった。
我々は比較的平坦な緑の斜面に到達した。それは我々が登る途上で出会った最も高い場所(約七千五百フィート)にあるクルド人の宿営地に続いていた。黒いテントが視界に入ると、クルド人の案内人についての話題が再びザプティエたちによって持ち出され、すぐに座り込んでその問題について話し合い始めた。しかし我々は既に結論を出していた。何の役にも立たない人々とは一切関わらないと完全に心を決めていた。
我々はテントの所で立ち止まり、ミルクを求めた。「ああ、いくらかあるよ」と彼らは言った。しかし我々は十分間待った後で、ミルクはまだ数百ヤード離れた岩場にいるヤギたちが所有していることを知った。これはザプティエたちが休息を取るためのもう一つの策略であったのだ。

我々は次の五百フィートの登りを特に問題や口論もなく進んだ。沈黙を破ったのは駄獣使いだけであった。彼はロバの荷からラキ[蒸留酒]の瓶を取り出し、飲んでも良いかと尋ねた。それは雪解け水を割るために使う予定であり、量が限られていたので、却下せざるを得なかった。
高度八千フィートで、我々は最初の雪の吹き溜まりに遭遇した。そこにロバたちは胴まで沈み込んでしまったので、我々が総力で引き上げる必要があった。そして彼らを半ば抱えた状態で通過した。それから我々は十時まで登り続け、高度約九千フィートの地点に到達した。そしてさざめく小川のほとりの静かな山間の谷で昼食のための休憩を取り、その雪解け水をラキで割って飲んだ。
その間、景色はますます広がっていった。我々の前に広がる平原は細部と色彩をほとんど失い、一つの広大な全体に溶け込んでいた。絵画的な美しさは失われたが、比類なき壮大さがあった。 今や我々は過去の時代に溶岩が山の側面の割れ目から噴出した様子を見て取ることができた。これらの溶岩層は長い年月をかけて自然の力によって徐々に崩壊し、今では極めて多様で奇怪な形状の火山岩の連なりとなっていた。
ここで駄獣使いは明らかな衰弱の兆候を見せ、その後完全に駄目になった。我々は広い雪原にさしかかった。そこでロバたちは雪の中で動けなくなり、無力に倒れた。我々が彼らの荷をほどいて肩に担いでも彼らは全く進むことができなかった。駄獣使いは絶望して捨て鉢となり、ザプティエたちが先行して我々を待っている隣の丘の頂上まで荷物を運ぶことすら拒んだ。それでラッフルと我々は二頭分のロバの荷物を半マイルにわたって雪原や岩の間を越えて運ぶことを余儀なくされた。後ろには不貞腐れた駄獣使いが付いてきた。彼は一人で残されるよりもロバを見捨てることにしたのだ。
ザプティエに追いつくと、我々は座って現状について協議した。しかし時折山頂を覆っていた雲が今や厚みを増し始め、そして間もなくにわか雨が降り出したので我々は急いで近くの岩棚に避難せざるを得なかった。我々と山頂の間に広がる雲は不穏な状況の象徴に思えた。一つ確かなことは、駄獣使いがこれ以上は山を登れないということで、しかしそれでも彼はクルド人の山賊のもとに一人で戻ることを死ぬほど恐れていた。彼は座り込んで子供のように泣き出した。駄獣使いのこの窮地はザプティエたちにもっともらしい口実を与えた。彼らは彼を置いては一歩も進まないと断固拒否した。通訳のギリシャ人も再び多数派に加わった。彼はトルコ人の護衛なしで登る危険を冒すつもりはなく、加えて我々がそのような高所で一晩を過ごすのに十分な毛布がないと結論づけた。 失望しつつも挫けずに我々は隣の寡黙な老人に目を向けた。彼の決意に満ちた表情からその答えが読み取れた。我々はイグナツ・ラッフルを最も勇敢で忍耐強い老人の一人として長く記憶するだろう。

もはや実行できる計画は一つだけだった。我々は荷物から小さな毛布一枚、フェルトの敷物一枚、長くて頑丈なロープ二本、二日分の食料、冷たいお茶一瓶、トルコのラキの缶一つを選び、それらを背負うために二つにまとめた。そして残りの一行にはクルド人の宿営地に戻って我々の帰還を待つよう指示した。午後二時三十分には再び空が晴れ渡り、我々は役立たずな仲間たちに別れを告げ、登山を再開した。
我々は今や標高九千フィートの高さに到達しており、翌日には登頂を完了して日没までにクルド人の宿営地に戻れるよう、山の十分高い地点でキャンプする計画だった。我々の向かう先は雪と岩だけの不毛の領域であり、その中にはまだ小さな紫色の花と地衣類の塊が見られたが、それらも前進するにつれてますます少なくなっていった。我々はなおも北東方向に進路を取り、山の主南東尾根に向かっていた。我々は重い荷物を抱えて深い雪原でもがいたり、巨大な岩の裂け目を手と膝でよじ登ったりしながら進んだ。
二時間半の登攀で我々は主南東尾根の稜線に達した。そこは切り立ったドームの基部からおよそ一千フィート下に位置していた。 ここで我々の進路は北東から北西に変わり、以後はずっとその方向に登攀を続けることになる。今や小アララトが全貌を現し、その北西側にそれまで見えなかった深い峡谷を見分けることができた。その滑らかで完璧な斜面には、先の冬の衣の名残が断片的に残っていた。我々はまた遠くサルダルブラクの尾根を見渡すことができた。それは両アララト山を繋ぐ尾根で、コサックがそこに陣取っている。ムテッサリフは我々がそちらに行くことを望んでいたのだが、結局トルコ側から直接登攀することに決めたのだった。

この南東尾根を辿って午後五時四十五分に標高一万フィートに達した。その時、温度計は華氏三十九度を示し、さらに下がり続けていた。もしこのまま進めば、とりわけ我々の乏しい衣服では夜間の寒さが耐え難いものとなるだろうし、さらには眠るのに十分平らな場所を見つけるのはほとんど不可能であろう。そのため、我々はここで一夜を過ごし、夜明けに登攀を再開することを決めた。稜線上にそびえる高く険しい岩山が比較的安全な宿泊場所として我々の目を引いた。我々はその隙間にカーペットを敷き、石を積み上げて完全な囲いを作った。
このように忙しく働いていたため、我々はしばらくは状況の壮大さに気づかなかった。我々の前に広がる広大で霧のかかったパノラマの上に、沈みゆく太陽の残光が金色の輝きを放ち、その光が周囲の雪原に反射していた。小アララトの背後では壮麗な虹が垂れ込める雲の上にアーチを描いていた。しかしそれは自然の万華鏡の見せる一場面に過ぎなかった。アーチはすぐに消え、影が平原を覆うように長く深くなり、混じり合い、やがて夜の降りる幕の裏にすべてが見えなくなった。斜面のはるか下にあるクルド人のテントや、宵のキャンプファイアから立ち上る白い煙も、もはや見えなくなり、ただ時折、犬の吠える声だけが闇の障壁を抜けて上方に運ばれてきた。
大気はますます冷え込んできた。気温は三十九度から三十六度、三十三度と次第に下がってゆき、夜には氷点下にまで落ちた。頭上の雲から降る雪が質素な夕食の食卓を覆った。そこにあるのは少しのゆで卵、硬いトルコのパン、チーズ、そしてラキ入りの茶だった。アイスティーはこの時期には贅沢品であろうが、アララト山の標高一万千フィートで、気温が氷点下となればそうとは言えなかった。ラッフル氏はこの状況下で望み得る限りにおいて元気であった。彼はここまでの進展に喜びを示し、「紳士」たちの同行がなくなった今、成功の可能性がより高くなったと考えていた。我々は一枚の毛布の下に一緒に入り、老紳士を挟んで眠りについた。彼は手袋、帽子、フード、マント、重い靴など、すべての衣類を身につけていた。枕の代わりには食料袋とカメラを使った。冷たいお茶の瓶は凍結を防ぐため外套の内にしまい込んだ。
我々の両脇と上方には純白の雪が積もり、下方には巨大な深淵があって、その中を岩の尾根が暗がりの階段のように下方へと続いていた。 恐るべき静寂を妨げるものとてなく、岩間を吹き抜ける風の音だけが響いていた。時折黒い雲の塊が押し寄せ、その扉を開いて大量の雪を降らせた。我々の体温で下の氷が溶け、服はびしょ濡れになった。雪と氷に囲まれていたにもかかわらず、我々は燃えるような渇きに苦しんでいた。仲間と別れて以来、我々は全く水を見つけることができなかった。我々が持っていたただ一つの冷たいお茶の瓶は、翌日のために取っておかねばならなかった。このような状況で、さらに窮屈な姿勢では眠ることは全く不可能であった。午前一時に、明けの明星が東の地平線に顔を覗かせた。我々はこれを何時間も見続け、比類なき美しさで天頂に向かって昇るのを見守った。ついにそれが朝の灰色の光の中に消えるまで。

揺れるろうそくの光の下、我々は急いで朝食を取り、スパイク付きの靴を履き、いくらかの必需品を背負った。残りの荷物は戻るまでキャンプに残しておいた。七月四日、午前三時五十五分にちょうど夜が明け、我々は今までで最も過酷な一日を開始した。我々はすぐに広大な雪原を横切って右手の第二の岩の尾根へ向かった。それは上方の唯一の岩の列に続いているように見えた。この巨大な雪原の表面は夜の間に凍りついていたので、そのガラスのような表面で滑落しないように、我々はアイスピックで足場を切っていかなければならなかった。この尾根を三時間かけてゆっくりと登り、岩から岩へと飛び移り、険しいその側面をよじ登ったりした。
老紳士は頻繁に休憩を取り、明らかに疲れている様子だった。 「これは大変だ、ゆっくりいこう」 我々が焦って慎重さを失いそうになるたびに、彼は(ドイツ語で)こう言った。
午前七時に我々は約一万三千五百フィートの地点に到達した。 その先には雪に覆われた斜面の他には巨大な峡谷の縁にいくつかの突き出た岩があるだけだった。その驚くべき光景が突然我々の前に開けた。我々はその峡谷に向かい、一時間後にその縁に取り付いた。我らが尊敬すべき同行者は上方の急な斜面を見上げた。そこには雪原の中にいくつか目印になりそうな岩がわずかに突き出しているだけだった。彼は落胆して言った「坊主たち、私は頂上に行けそうにない。夜に休めなかったので今は立ったまま眠りそうだ。それにひどく疲れている」それは壊れゆく心が発するような嘆きの声だった。初めは登頂に反対していた老紳士だったが、一度山の斜面に足を踏み入れると、彼の年季の入った山男の精神がかつての活力と共に蘇った。しかし今まさに目標を目の前にして彼の力が挫けそうになっていた。説得と奮励を尽くした結果、もし半時間の休息と睡眠が取れれば続行できるかもしれないと彼は言った。それで我々は彼を外套で包み、雪の中に快適な寝床を掘り、一人が彼の背中に寄りかかって座って彼が山の斜面に転げ落ちないように支えた。

我々は今、深い峡谷の縁にあって、その計り知れない深みを見下ろしていた。この巨大な亀裂は幅数百フィート、深さ数千フィートに及び、アララト山の火山活動が最も強力に作用した北西から南東にかけてのラインを示している。この裂け目はおそらくこの山に刻まれた最大のものであり、疑いなくここから大量の溶岩が噴出したに違いない。峡谷はドームの基部から始まり、雲を突き抜け、頂上から約五百フィートの地点まで達しているように見えた。このラインはいくつかの小さな火山群となって平原に続いており、その火口はまるで昨日まで活動していたかのように完全な形を保っていた。この巨大な峡谷の側面に並ぶ赤と黄の岩は、 反対側の縁の上にギザギザの恐ろしい崖となって突き出ていた。その全体が巨大で幻想的な氷柱に包まれており、太陽の光を浴びて輝き、天然のクリスタル・パレスのような景観を呈していた。クルド人の想像力が描く恐ろしいジンの住処として、これほどふさわしい場所はないだろう。恐ろしい死の顎たる自然の象徴として、これ以上のものはないだろう。
我々の道連れは大分回復して目を覚まし、そして我々は峡谷の縁に沿って登攀を続けた。広大な雪原の中でここだけは岩が見えていた。我々は互いの足跡を正確にたどりながら、猫のような足取りで慎重に進み、死にものぐるいで登山杖にすがっていた。緩んだ岩が最初はゆっくりと動き出し、そして勢いを増して飛ぶように転がっていった。突き出た岩棚にぶつかると、百フィート以上空中に跳ね上がり、それから下の雲の中に姿を消した。我々は数分ごとに休むために立ち止まった。膝は鉛のように重く、高地のため呼吸が困難になっていた。今や岩の道筋は我々を峡谷の縁から二フィート内に導いていた。我々は慎重にしっかりした岩盤を確認しながら裂け目に近づき、目眩を起こしつつその深淵を覗き込んだ。
斜面はますます急になり、ついには雪と輝く氷で覆われたほとんど垂直に近い崖に突き当たった。周囲の雪原は急で滑りやすく、とても登れるものではないため、迂回する事はできなかった。我々はアイスピックで足場を切って、半ば這い、半ば体を引きずるようにして登山杖を上の岩に引っ掛けながらその高さを登りきり、次の側壁へと向かった。
その時、雪と氷の中の我々を排気蒸気のような温かい雲が包みこんだ。雲が晴れると、太陽の光がますます強烈に照らした。我々の顔は既に水膨れで痛み、黒眼鏡も痛む目をさほど保護してはくれなかった。
午前十一時、我々は雪の上に座り、最後の食事をとった。唾液が枯れているため、冷たい鶏肉とパンはおが屑のように感じられた。一瓶だけの茶はもうなくなり、我々は何時間も渇きに苦しんだ。再び出発の合図が出され、すぐに立ち上がったものの、硬直した足は震え、登山杖にすがりつかざるを得なかった。それでも我々はさらに二時間、疲労の中で歩み続けた。氷の崖に足場を切り、不安定な雪原に太腿まで沈みながら進んだ。
今や雲が完全に晴れて視界が開けたため、我々が大峡谷の頂点に近づいているのが見えた。北東の斜面にある黒いクルド人のテントさえも見分けることができ、さらに遥か下方には紫色の彼方へと流れる銀の筋のようなアラス川が見えた。周囲の空気は冷え込み、我々は薄すぎる衣服のボタンを留めた。我々は頂上に近づいているはずだと考えたが、それでも確信は持てなかった。なぜなら目の前にそびえる巨大な崖が視界を遮っていたからだ。
「ゆっくり、ゆっくり」と老紳士は力なく叫んだ。我々はその急峻な斜面に取り掛かり、不安定な雪を払い、硬い氷に足場を切りつつ登った。我々は互いに押し引きしながら頂上近くに達し、そしてさらにもう一踏ん張りすると、我々は広大で緩やかに傾斜した雪原の上に立っていた。我々は膝上まで沈みながら柔らかい雪原を突き進んだが、もはや力尽きているためによろめいて倒れた。それでも再び立ち上がって歩き続け、 ついに疲労困憊してアララト山の頂上に倒れ込んだ。
我々はしばらくのあいだ息を切らして横たわっていたが、やがて状況を完全に理解し、疲れ果てた体にわずかに残っていた情熱の火を掻き立てた。
我々は故郷より持参した絹製の小さなアメリカ国旗を登山杖に掲げた。この方舟の山の上で初めて星条旗が風にたなびき、独立記念日を祝して撃った四発のリボルバーの銃声が峡谷の静寂を破った。雲のはるか上方にて、世界で最も絶対的な三つの君主制国家を眼下に、共和主義の偉業が質素に祝われた。
添付のスケッチに見られるようにアララト山には数百ヤード離れた二つの山頂があって、基部から東西の端のやや突出した側壁に向かって傾斜しており、深さ五十フィートから百フィートの雪の谷ないし窪地によって分かたれている。我々の立った東側山頂はかなり広く、西側頂上よりも三十フィートから四十フィート低い。 両方の頂上はアララト山の巨大なドーム上のちょうどラクダのこぶのような小丘であり、いずれも雪の他には何も無い。

パロットとチョツコの残した十字架は、方舟と同様に跡形もなかった。我々が子供の頃に絵本で見た絵では、この山頂が緑の草で覆われており、引いていく波を背景にノアが明るく暖かい日差しの中で方舟から降り立っていた。そして今、我々はそこが見渡す限りの万年雪に覆われているのを見た。
また先に述べた雪で満たされた窪地を除けば、かつて存在した火口の痕跡も全く見当たらなかった。ここにあるのは永遠の雪原と骨まで冷える大気だけで、かつて地下の熱で震動していた死火山の頂上に我々がいることを思い起こさせるものなどなかった。
この高みからの景色は計り知れないほど広く、あまりにも壮大であった。色も輪郭もすべての細部が失われ、周囲の山々でさえ平原の中の畝のように見えた。それと我々は雲が行き来する中で時折覗き見ることができただけだった。ある時は我々の下で雲が開け、そのはるかな深みにアラス渓谷が輝く銀のリボンのような川と共に現れた。時折、北西四十マイルにあるアリ・ゲズの黒い火山の峰を見分けることができた。そして南西にはバヤズィトの町を隠している低い山々も見えた。コーカサス山脈や、西のエルズルム周辺の山々、 南のヴァン湖、 さらにはカスピ海もアララト山の視野にあると言われているが、我々には全く見えなかった。
晴れた日であれば、長年文明世界の北壁を成してきたコーカサスの山々だけでなく、はるか南にカルデアの伝説で箱舟が上陸した場所とされているクアルドゥの山々も見えただろう。哲学的な気分で三千年以上もの間多くの悲劇と紛争の舞台となってきたアラス渓谷全体を眺めたかもしれない。歴史的な二つの大事件の記念碑として二つの場所が我々の注意を引いたかもしれない。一つは我々のすぐ下にあるアルタクサタの遺跡で、伝説によれば放浪の征服者ハンニバルの計画に従って建設され、西暦五十八年にローマ軍団によって襲撃されたと言われる。そして北の方には、つい最近トルコ戦争の轟音が響き渡ったカルスの近代的な要塞がある。
突然、下方で雷鳴が鳴り響き、我々は現実に引き戻された。嵐が山の南東斜面を急速に登ってきていた。下の熱せられた平野の上では大気が沸騰しているようであった。雲はますます高く昇り、峡谷沿いの険しい岩々の間で渦巻いていた。温度計はたちまち氷点下に下がった。暴風によって押し寄せた濃霧が我々の火傷した顔に霜をつくり、万年筆のインクを凍らせた。我々の夏服はこの予期せぬ状況にはまったく不適当であり、我々は骨の髄まで冷え切った。その場に留まっていたら健康を損なうどころか命を落としていたかもしれない。登ってきた道を戻ろうにも、ほとんど視界がなかったが、それでも試みざるを得なかった。我々を取り巻く嵐は刻一刻と激しくなっていた。登山杖の先端の鉄に触れると、電気を帯びているのを感じることすらできた。
慎重に雲を見通しながら、我々は緩やかに傾斜した頂上に自分たちが作った道をなんとか辿り、今やこれまでよりも恐ろしい姿を見せる大峡谷の端に達した。このような暴風の中で崖沿いの岩場を降りるのは、不可能でないにしても、あまりにも危険であることを我々は認めた。
唯一の選択肢は、急勾配の雪に覆われた斜面を降りることだった。我々はアイスフックを雪の中に深く差し込んで出発した。初めは頂上で我々を倒さんばかりに吹いていた強い向かい風が下降する勢いを少しだけ抑えたが、すぐに髪の毛が逆立つほどの速度に達した。それはスリリングな体験だった。二十フィートも下では斜面を雲が覆っていたため、我々はまるで空を飛んでいるかのようだった。とうとう我々は雲の下に出て、眩しい午後の陽光の中に現れた。しかし我々はさらに六千フィートも滑り降りた。登山杖に強く体重をかけ、後ろに氷の霧を撒き散らしながら。我々は一度も止まらずにドームの麓の岩の間に設営した前夜の我々のキャンプに到着した。
登るのに九時間半かかった距離を、一時間もかからずに駆け下りた。キャンプに到着したのは午後四時で、出発してからちょうど十二時間後のことだった。残しておいた荷物をまとめ、下山を続けるために急いで出発した。日暮れまでにクルド人の宿営地に到着するために我々は必死だった。過去二十七時間というもの我々は半パイントのお茶以外何も飲んでおらず、この頃には喉の渇きがほとんど耐えられないほどになっていたからだ。
我々が滑り降りてきた広大な雪原は、今や危険な兆候を見せ始めた。この低高度では雪は下から溶け出して地下水路に流れ込み、表面に薄い殻だけが残っていたのだ。間もなく我々の一人がこうした落とし穴に肩まで落ち、予期せぬ雪浴びから抜け出すのにしばらくもがき苦しんだ。
岩石の間を行く下りは緩慢で骨の折れるものだった。そうして我々は二時間も奮闘していたが、突然、夕方の澄んだ大気の中に声が響いた。見ると先日の夕方に置いていったその場所に二人のザプティエと駄獣使いがいた。二頭のロバまでが我々を歓迎するように鳴いていた。彼らは朝早くから宿営地を出発し、我々の所在の手がかりを得るために一日中山を見渡していたのだ。彼らは朝のうちに一度我々を見かけたが、それから雲の中で見失ったと述べた。彼らのこの心配は明らかにバヤズィトのムテッサリフから我々を無事に帰還させる責任を負わされていたためであり、さらに先日に失った我々の好意を取り戻すことで得られる報酬の額を増やせるかもしれないという期待からであったろう。今やロバたちに重すぎるような荷物はなく、ザプティエたちさえも我々の登山杖を持つことを快く引き受けた。
その夜、我々は再びクルド人のキャンプファイアの周りに座り、好奇心に満ちた顔ぶれに囲まれていた。我々のアク・ダグの斜面での体験、そしてその頂上での出来事を語るときに彼らの顔に広がる困惑と驚きの表情を見るのは興味深く、また愉快でもあった。彼らは終始、深い関心を持って聞いていた。そして沈黙の中で互いに顔を見合わせ、重々しく首を振った。彼らには信じられなかったのだ。 それは不可能なことだった。
古きアララト山は、きらめく星々の下で厳しく恐ろしげに我々の上にそびえていた。彼らにとってそれは、今までもこれからも、高みなる神秘の禁足地、ジンの宮殿なのだ。
彼らの登ったアララト山南東ルートは、現在はほとんど使われていません。いずれにせよ無謀に過ぎる山行であって、真似はしないほうが良いでしょう。